松田優作【衝撃】2人の妻 子供・W不倫・自殺・離婚理由がヤバい!!差別的な過去も 俳優

松田優作【衝撃】2人の妻 子供・W不倫・自殺・離婚理由がヤバい!!差別的な過去も

40歳という若さで他界した俳優の松田優作さん。今なお記憶に残る偉大な方ですが、その半生は「波乱」の一言では片付けられないほど壮絶なものだったのです。松田優作さんの2人の妻とのスキャンダルや差別に苦しんだ一面など深堀していきます。

松田優作 1人目の妻とは⁈子供はいたの?

1度目の結婚は1975年9月21日。当時、松田優作さんと同じ「新・演劇人クラブ・マールイ」と言う劇団で知り合った松田美智子さんが1人目の妻です。優作さんはTVに出演する前には、劇団で活躍して居たようです。

松田優作さんと美智子さんはその後、同棲生活をスタートして美智子さんは「堀真弓」として女優活動されます。当時はTBSテレビポーラテレビ小説「ひまわりの道」などで女優として出演しその後、松田優作さんと正式に結婚されました。

松田優作 1人目の妻とは⁈複雑な子供時代とは⁈

実は松田優作さんと美智子さんの結婚は、いろいろと障害があったのです。お話は優作さんと美智子さんが同棲を始めて半年ほどだった昭和44年頃のことです。上京してきた美智子さんの母親は部屋で男の影を感じたそうなのです。

母親が見つけた身分証明書をもとに、優作さんの身上調査をしたんだとか。すると驚くようなことが次々とわかったそうなのです。まず優作さんが私生児であること。(婚姻関係にない男女の間に生まれた子供のこと。)

松田優作 1人目の妻とは⁈子供時代からの差別に苦しむ⁈

優作さんの実家が遊女屋を営んでいたこと。さらには優作さん本人が傷害事件で警察沙汰になったことがある点。また家庭事情が複雑で国籍も日本ではなく韓国だということなどがわかったそうです。美智子さんは驚いたそうですが、思い当たる節があったそうです。それは優作さんは美智子さんに何度も

「本当のことを知ってしまったら、おまえは俺から逃げていくだろう…」とつぶやくように何度も言っていたそうです。優作さんは「何があっても俺を信じて全てを受け入れるか?」といった美智子さんを試すような言動もしていたらしいです。

差別のつらさ…

今では少なくなりましたが、当時はまだお見合い結婚が主流で、そのためお互いの身元調査をすることが珍しくなかった時代。そして在日韓国、朝鮮人に対するいわゆる在日差別も激しかった時代だったそうですね…

松田優作 1人目の妻とは⁈子供を授かるまでの困難とは?①

美智子さんは身上調査ことを優作さんには伝えず、同棲生活を続けていました。その後昭和48年にはドラマ『太陽ほえろ!』のレギュラーが決まりました!その頃、優作さんのお兄さんが自宅にやってきたそうです。

そして身上調査がなされて、美智子さんはすべてを知っていることを優作さんに教えたとか。美智子さんは優作さんに怒られると思ったそうですが、「知ってて、それでも、一緒にいてくれたのか…」と何度も「ありがとう、ありがとう」と繰り返し感謝したそうですよ!

松田優作 1人目の妻とは⁈子供を授かるまでの困難とは?②

それだけで差別され、虐げられてきた体験が優作さんにあったということでしょうね…またその後、スターの階段を駆け上っていく優作さんですが、それとともに、顕在化してきたのが日本国籍を取得したいという気持ちだったそうです!

同棲中に遊作さんが『お前の家の養子にしてくれ』と美智子さんに頼んだのは、日本国籍を取得したいという強い希望があったから…帰化するためには膨大な量の書類の提出が義務付けられていて、そのなかでも優作さんは「日本人になる動機」についての文章に一番時間をかけたそうです。

松田優作 1人目の妻とは⁈子供を授かるまでの困難とは?③

僕は今年の7月から日本テレビの『太陽にほえろ!』という人気番組にレギュラーで出演しています。視聴率は子供から大人までと幅広く、家族で楽しめる番組です。僕を応援してくれる人も沢山できました。現在は松田優作という通称名を使っているので、番組の関係者にも知られていませんが、もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう。(引用:松田優作・帰化書類「日本人になる動機」抜粋)

めでたく松田優作さんは日本国籍を取得されたそうです。同棲から4年たって無事に結婚されてからは美智子さんは家庭に入り松田優作さんを支えて行きます。そして1976年。待望のお子さん、長女が生まれました。

松田優作の1人目の妻 松田美智子とは?

  • 生年月日  1949年8月7日
  • 出身  日本山口県岩国市
  • 職業 ノンフィクション作家、推理小説家
  • 最終学歴 学習院女子短期大学英文科
  • ペンネーム 松田 麻妙 雨宮 早希
  • 離婚後はシナリオライターを経て、ノンフィクション作家として活動。このとき書いたのが、処女作『永遠の挑発』(松田麻妙名義)だった。これは夫だった松田優作についてつづったものである。
  • 1994年の『大学助教授の不完全犯罪』以降、犯罪ノンフィクションの分野に進出。以来、実際に起きた異常な犯罪の裏側を描くことを得意としている。代表作の『女子高校生誘拐飼育事件』は『完全なる飼育』と改題され映画化された。
  • 1997年には「雨宮早希」名義で小説『EM (エンバーミング)』を発表した。『EM (エンバーミング)』はその後シリーズ化された。

松田優作 妻との離婚理由はW不倫⁈自殺騒ぎって一体⁈①

いろいろあって結婚された松田優作さんと美智子さん。お嬢さんも生まれて幸せに暮らしていくのかと思いきや、大変なことが起こります。それは女優の熊谷美由紀さんの出現です!!2人は、1979年のドラマ「探偵物語」で共演します。

その当時、まだ美由紀さんは18歳。10代からモデルをしていて演技はまだまだこれからの新人時代。そんなとても緊張していた美由紀さんを、優作さんが落ち着けと言っていきなりハグされたのだとか!!すごく温かい包容力を感じられ美由紀さんは恋に落ちてしまったとのこと。

松田優作 妻との離婚理由はW不倫⁈自殺騒ぎって一体⁈②

その一方で優作さんは美由紀さんを、「今まで見たことが無いエキセントリックな女だ」「この女から離れられない」と、感じられたのだとか。当時優作さんは30歳。実は美由紀さんも結婚して旦那さんがいたのです。

俗にいう「W不倫」ということになりますね。しかしお互いひかれ合ってはいても、優作さんの方は、お嬢さんがいらっしゃるということもあり、奥さんの美智子さんと離婚する気はなかったようなのです…

松田優作 妻との離婚理由はW不倫⁈自殺騒ぎって一体⁈③

何度も結婚をせまる美由紀さんに、きっぱりと「子どもがいるので離婚しない!!」とかえしていた優作さん。しかし、美由紀さんはそれでは納得できなかったのでなんと!!優作さんの自宅に押しかけたというのです。

そして「結婚できなきゃ死んでやる!!」と、その時優作さんだけではなく、奥さんの美智子さんと娘さんのいる目の前で、手首を切り自殺を図ったというのです!!かなりな修羅場だったでしょうね…このような出来事があったため優作さんは美智子さん・娘さん・美由紀さんとの関係に悩み、自己嫌悪の末に自殺を決意してしまいます!!

松田優作 妻との離婚理由はW不倫⁈自殺騒ぎって一体⁈④

優作さんはバイクでどこか知らぬ海岸までたどりつきます。数時間その場に立ち尽くしていたそうですが、お母さんの声が聞こえたような気がして我にかえったとか!!自分が死んだら親兄弟が悲しませることになってします。

そして何より娘を自分と同じように父親のいない子にしてしまう…寂しかった自分のように娘をしてしまってはいけない。死ぬ気になったら何でも出来るはずだ!!と、自殺を思いとどまったといいます。そんな経過があり1981年、優作さんは、美智子さんと離婚しました。

松田優作と離婚した元妻 美智子の発言とは?

離婚した後、優作さんの要求があって、娘の名字をかえないようにとのことで離婚後も戸籍名として松田を名乗り続けている美智子さん。松田姓を名乗ることについて松田優作神話の利用ではないのか?との批判を受けたこともあるそうです。

毅然とした態度!!

美智子さんは「これは本名ですから。離婚する際に本人と話し合って決めたことです。べつに松田優作の妻でしたと言って、本が書けるわけでもないし。」と発言しています。また2008年に『越境者松田優作』発表の際に受けたインタビューでは

「今後、優作について書くことはないと思います。私の読者には、私が松田優作の妻だったことを知らない人も多いようです。このまま、またそういう状態に戻って小説やノンフィクションを書き続けたいです」と話していたそうです。

松田優作 W不倫⇒自殺未遂の末再婚!!

ちょっと普通では考えられない美由紀さんの行動ではありますが、優作さんは、美由紀さんを選ばれました。美智子さんは、ご自身のお子さんのためにも身を引かれたのかもしれません…騒動があったそれから2年後の1983年。長男の松田龍平さんが生まれてから籍を入れられたのでした。

その後、1985年9月10日次男の松田翔太さんが誕生。1987年には娘さんが誕生しています。しかし1989年に優作さんが癌のために亡くなり、28歳で6歳、4歳、2歳の子供を育てることになる美由紀さん。現在はご自身もお子さん3人も芸能界で活躍していますね。

松田優作 いままでのすごい逸話!!①

1949年9月21日生まれ。1979年。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。翌1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために過酷な減量をし、原作のハードボイルドとは異なる鬼気迫る演技で主演。

この時期を境にアクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となる。

松田優作 いままでのすごい逸話!!②

1988年、深作欣二監督の時代映画『華の乱』この撮影をしている頃から、松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。

同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた…ここまでの松田優作さんの半生を急ぎ足で振り返っても、いろいろあってすごい!!に一言ですね。まだご存命だったら素晴らしい演技を拝見できたことでしょう…心からご冥福をお祈り申し上げます。