今田耕司の高校生活は浜田雅功と同じ日生学園高校!日生学園高校の実態に迫る! お笑い

今田耕司の高校生活は浜田雅功と同じ日生学園高校!日生学園高校の実態に迫る!

careerfind.とてもご活躍されている今田耕司さん!ほとんど見ない日はありません。私も噂では聞いていたのですが、今田耕司さんが日生学園高校出身だったなんて、本当だったんですね!今回は、今田耕司さんと、日生学園高校の歴史を見て行きたいと思います。

今田耕司さんが高校に入るまで!

今田耕司さんは、1966年3月13日生まれで、大阪府大阪市出身です。3人兄弟の末っ子で、実家は、大阪市天王寺区生玉の道善寺という本門法華宗のお寺です。今田耕司さんのお父さんは、会社員と住職を兼業されていたそうです。住職であるお父さんはクリスマスが誕生日がそうです。

今田耕司さんは、中学3年生の時に、友人と3人で独立するために家出をしたそうです。しかし、数日で連れ戻され、自宅謹慎になったそうです。そして、1981年に、先生からの勧めにより、全寮制の日生学園第一高校に入学します。

今田耕司さんの高校生活#日生学園高校って!?

日生学園高校は、三重県津市白山町の青山高等学校内に本部を置く学校法人です。1965年12月13日に認可され、中学校1校と高等学校を3校運営されています。1966年に日生学園高等学校(のちには、日生学園第一が開講されました。

そして、1980年に日生学園第二高校が開講しました。1982年に日生学園付属中学校と付属幼稚園を日生学園第二高等学校に併設。1983年に日生学園第三高等学校が開講されました。1988年に、日生学園付属中学校が、日生学園第一高等学校が併設となって、中高一貫教育校となりました。

今田耕司さんの高校生活#日生学園高校の名前変更

2015年4月1日には、名前を変更し、日生学園付属中学校は『桜丘中学校』。日生学園第一高等学校は、『桜丘高等学校』。日生学園第二高等学校は、『青山高等学校』。日生学園第三高等学校は、『自由が丘高等学校』になりました。

今田耕司さんの高校生活#日生学園高校の場所

三重県伊賀市にあるのが、桜丘中学校・高等学校。三重県津市にあるのが、青山高等学校。兵庫県姫路市にあるのが自由が丘高等学校ですが、休園になっています。日生学園付属幼稚園は、青山高等学校と同じ住所です。

今田耕司さんの高校生活#日生学園高校の有名人

日生学園高校出身の有名人は、今田耕司さんを始め、たくさんいらっしゃいます。元バスケットボール選手の川畑隼人さん。プロサッカー選手の千葉和彦さん。サッカー選手の尾崎瑛一郎さん。元プロ野球選手の鮫島秀旗さん。お笑い芸人の中田なおきさん。お笑い芸人のダウンタウン浜田雅功さんです。

今田耕司さんの後輩が語る!日生学園生活

日生学園第二高校のスパルタ教育はすごく有名だそうです。今は進学クラスができているので、今田耕司さんがいらっしゃったときとは違うようですが、当時は相当厳しかったそうです。朝は4時30分起床し、2キロのマラソンがあったそうです。放課後も10キロマラソンがあり、毎月20キロのマラソン大会あったそうです。

トイレの便器は素手で掃除もされたそうです。掃除としては素手で掃除するということは良いことですが、高校生の男子からしたらかなり抵抗はありますよね。そして、名前では呼ばれずに、番号で呼ばれるそうです。脱走する生徒も多く、山道の国道脇を歩いている生徒の目撃証言がたくさんあるそうです。

今田耕司さんもが語る!日生学園生活

今田耕司さんがおっしゃられていたのは、朝5時起床で、朝から体育館の雑巾がけをやらされます。校外への外出は、月1度の帰宅時以外はできないそうです。トイレ掃除は素手でで便器を磨かされる。それは伝統でした。学校の掃除係も素手だったそうです。

例えば、校長先生の話を聞くときには、校長先生の目線からさっとそらしたら、校長先生が壇上から指を指し、指された生徒は先生に注意されるそうです。そして、甘いものやお菓子なども一切禁止だったそうです。砂糖など、貴重だったそうです。外から帰ってきたら、身体検査も全生徒がされたそうです。

今田耕司の日生学園生活!枕の中にいちごミルクの飴

外からのお菓子とかは一切持ち込めなかったのですが、生活用品は親の仕送りが認められていたそうです。今田耕司さんは、親の手紙に『枕の中に砂糖の袋を綿の中に入れて送ってくれ。』と書いたそうです。いちごミルク飴も貴重で、枕の中に仕込んでもらったこともあったそうです。

普段お世話になった人に、いちごミルク飴を持ち込むことに成功しましたといって、いちごミルク飴を配ったこともあるそうです。今田耕司さんは、『角砂糖が一個あれば、クラスを締めれた』とも言っているそうです。

山の陰でケーキ

そして、月一回、親と面会日があり、このときに、山の敷地内で親と自由時間があり、そこでケーキを手渡しでもらうそうです。親に面会日にもらったケーキは、持ち込めないので、処分するか、山の陰で食べて寮に帰るそうです。まるで刑務所のようなシステムだったと言われていたそうです。

今田耕司さんと同じ高校に浜田雅功さん

高校時代は、今田耕司さんも、浜田雅功さんもみんな坊主になっていたそうです。寮内の先輩、後輩の上下関係はすごく厳しく、先輩からの呼び出しもたくさんあったそうです。みんなが寝静まってから、トイレに呼び出され、ダメ出しをされながら、ボディーにインパクトを与えたりという”指導”があったそうです。

浜田雅功さんは、副学寮長をされていたそうで、副学寮長と言ったら本当に恐れられていたそうです。吉本に入ってからも、副学寮長の風格は抜けなかったそうで、みんなから一目置かれていたそうです。厳しい状況での副学寮長で、みんなを統制する役割をされていたので、かなりの根性があったそうです。

今田耕司さんは高校を脱走!

今田耕司さんもあまりにも厳しかったので脱走を図ったらしく、それが一年の秋のことだったそうです。脱出した生徒がいると、アラームがなり続けて、脱走した生徒が見つかるまでは、一年生は正座をさせられるそうです。脱走した時の電車代を持ち込むために、パンツに忍ばせたそうです。

脱走は、消灯してから、学校の体操着で下見をしてあった1階のトイレの窓を開けて学校を出たそうです。学校は山奥にあるので、車のライトが先生が探す目印となるので、ライトから身を隠し、下半身は水に浸かってしまうということもあったそうです。

駅でも通報される

脱走して最寄りの駅に行ってしまうと『脱出した生徒が駅にやってきている』と通報されるらしいのです。脱走する場合は、山を一つ超えて先の駅まで行って電車に乗らないといけないそうです。結局は、二つ山を超えて、野宿もして電車に乗ったと言われています。

駅に着いてからも、発車するまでは気は抜けないらしく、電車が走り出すと手を取り合って、一緒に脱出した仲間ともに喜びを分かち合ったと言われています。大阪の実家に戻り、学校から、『退学の手続きのために戻ってください』と言われ、学校に戻るがやめさせてもらえなかったそうです。

今田耕司さんの高校の先生

今田耕司さんが学校に戻ったときに、教師は、『お母さん。これからこの子が学校を続けるというまで、もくはこの子を殴ります。』と行ったそうです。5〜6発殴られた時に、『戻ります』と行ってしまったそうで、しばらく学校にはいらっしゃったそうですが、次の冬休みには退学されたそうです。

現在なら、高校での体罰になってしまうので、大問題になっている話ですが、当時は普通のことだったのでしょうね。昭和の時代!おそるべしです!!!そして、浜田雅功さんも脱走の経験があったそうです。

今田耕司さんだけでなく浜田雅功さんも脱走!

松本人志さんは、浜田さんも一回脱走したことがあったと行っていたそうです。浜田さんは『とりあえず、お金を持って迎えにきてくれ』って連絡があって、鶴舞駅まで迎えに行ったことがあったそうです。

そのあとに、松本人志さんは、浜田雅功さんを立ち食いうどん屋さんに連れて行ったそうで、すごく熱いうどんを一気に一すすりで食べたそうです。だからかなり大変な脱走だったんだろうなと言われていたそうです。脱走するような高校って本当にすごいですね。

今田耕司さんが日生学園高校を退学してからは!?

今田耕司さんが日生学園高校を退学されてからは、清風高等学校定時制課程普通科に編入されました。昼間は日本一若い店長になることを目標にラーメン屋で働いていたそうです。定時制高校が夏休みになると、母方の実家の、宮崎県高鍋町で『小丸新茶屋』さんといううどん屋でアルバイトをし、サーフィンも

されていたそうです。そして、定時制高校を卒業された後は、手に職をつけるために、寿司職人か美容師の専門学校に行くことを考えたが、医者から肌が弱いために、水を使う仕事はおすすめされなかったので、当時入学料が5万円程度だった『吉本総合芸能学院』(NSC)に1985年4期生として入学された。

今田耕司さんの芸能界まで

今田耕司さんの同期の4期生には、130Rのほんこんさんと板尾創路さん、桂茶がまさんがいらっしゃいます。吉本以外では、ダチョウ倶楽部さん、ウッチャンナンチャンさんがいらっしゃいます。そして、今田耕司さんは、ほんこんさんとお笑いコンビの『ダブルホルモンズ』を結成されます。

ほんこんさんは、『骨つきカルビ』さんという名前の芸名でボケをされ、今田耕司さんは、『上ロース』さんという芸名でツッコミをされていたそうです。ネタはほんこんさんが書かれていたそうです。

今田耕司さんの下積み生活

NSCから実家が2駅だったために、今田耕司さんは実家から通っていたそうです。夜のバイトでそこそこお金もあったので、今田耕司さんは、良いことづくしの下積み生活だったを言われているそうです。1986年には『ダブルホルモンズ』を解散し、ピン芸人として活動をされました。

まとめ

今回、今田耕司さんの高校生活をしることができて、本当に驚きました。私も日生学園高校の存在は知っていましたし、知り合いの息子さんも行かれていましたが、ここまでの話は聞いたことがありませんでした。おそらく現在は、このようなことがないのでしょう。

今田耕司さんが、素晴らしい芸人になられたのは、日生学園高校の経験のおかげもあると思います。これからも、今田耕司さんの番組をすごく楽しみのにしています。応援しています。頑張ってください。