昭和の歌謡界の女王と呼ばれた美空ひばり、その病気は?死因は? 歌手・アーティスト

昭和の歌謡界の女王と呼ばれた美空ひばり、その病気は?死因は?

平成が始まる1989年に亡くなった美空ひばりさん。平成が終わる今こそ忘れ行く昭和という時代の一つの象徴「歌謡界の女王」でもあった彼女の人生と功績、なぜ亡くなったのか? 今とこれからを生きてゆく人たちに伝え昭和を懐かしんでみたいと思います。

昭和の歌謡界の女王と言われた美空ひばりの死因とは?

昭和の歌姫と言われた方々も多くいましたが、なぜ美空ひばりさんは今も歌謡界やものまね大会で取り上げられるのか? 彼女の軌跡をたどることで時代背景と功績、美空ひばりさんが亡くなるまでの人生と生き方を見ていきます。

美空ひばりと昭和、亡くなった死因の真相とは?

美空ひばりさんが亡くなったのは1989年6月24日は、昭和天皇が崩御され平成天皇になった年、昭和64年、平成元年という二つの時代が重なった年でもあります。今から29年前のことであり、ひばりさんは特発性間質性肺炎で亡くなったと発表されています。

美空ひばりが生きた昭和、デビューまで

昭和とは1926年12月25日から1989年1月7日の期間の年号で表される時代、美空ひばりさんは1937年5月29日(昭和12年)から1989年6月24日(昭和64年・平成元年)までほぼ昭和という時代に生き方となります。

昭和という時代と出来事①

昭和という時代の出来事では昭和恐慌(1927年:昭和2年)、満州事変(1931年:昭和6年)、日中戦争勃発(1937年:昭和12年)この年にひばりさんが生まれる、第二次世界大戦(1939年:昭和14年)太平洋戦争(1941年:昭和16年)、原爆投下と戦争終結・日本降伏(1945年:昭和20年)

昭和という時代と出来事②

現在の1946年:昭和21年日本国憲法公布、美空ひばりが「NHK素人のど自慢」に出場、1948年:昭和23年帝銀事件・マハトマ ガンディー暗殺この年「美空ひばり」という芸名でデビュー、1949年:昭和24年中華人民共和国建国「美空ひばり」映画デビュー、レコードデビューし、映画出演「悲しき口笛」映画・主題がヒットする。

美空ひばりが生きた昭和、デビューから女王と呼ばれるまで

日本が降伏したことで太平洋戦争が終わり、新たな昭和、戦後の昭和が始まって映画や作詞や作曲の制限がなくなり、美空ひばり:本名加藤和枝がデビューしスターダムに上がっていく時代、出来事とともに振り返ります。

昭和という時代と出来事③

1952年:昭和27年朝鮮戦争勃発・朝鮮戦争特需「リンゴ追分」が当時最高のセールスとなる70万枚を記録、1954年:昭和29年から1961年:昭和36年まで戦後の好景気となる、この時期、紅白初出場、映画に歌にヒットを飛ばし「歌謡界の女王」と呼ばれるようになる。

昭和という時代と出来事④

1962年:昭和37年俳優・歌手である小林旭と結婚、1964年:昭和39年東京オリンピックの年、小林旭と離婚、歌謡曲「柔」が180万枚のセールス、1966年:昭和41年ビートルズ来日、「悲しい酒」が145万枚のセールス、1967年:昭和42年「真赤な太陽」が140万枚のセールスを記録する。

美空ひばりと田岡一雄との関係とは?

美空ひばりには三代目山口組田岡一雄組長と師匠である川田晴久という二人の恩人と俳優・歌手である鶴田浩二という尊敬する人がいました。デビュー間もない無名の時代に当時神戸の興行に影響力を持っていた田岡組長に挨拶に出向き気に入られ、全国各地での興行への協力・支援を惜しみなく行った方で田岡組長が亡くなるまで交友が続いた。

美空ひばりが生きた昭和、スターからバッシングの時代

1970年代~:昭和45年~はヒット曲は少なくなり、ステージで全国や海外を回る日々と家族の不祥事、暴力団との関係などがクローズアップされた時期になり、この時期の昭和はオイルショックや浅間山荘事件、テロ事件やロッキード事件、王貞治の本塁打世界一などがあった年代です。

美空ひばりとNHK紅白出場

1970年のNHK第21回紅白歌合戦に紅組司会と大トリを務める。それは司会は決定していた会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、NHKもこの発言を受け大トリに急遽変更しました。

バッシングを受け紅白出場辞退へ

1963年から1973年まで10年連続紅白出場と紅組のトリを務めていたが、実弟加藤哲也が起こした不祥事で加藤家と暴力団との関係がクローズアップされ全国各地の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」使用拒否とバッシングが起こるも弟の関係を維持したことによって紅白辞退までに発展した。

美空ひばりの母との関係と母の死因

美空ひばりの母加藤喜美枝は、ひばりがデビューする前から子供の才能を高く評価して、素人のど自慢や各地の劇場の前座などに出演させるなど尽力し、スターになった後もスケジュールやプロデュースするなど最大の理解者であった。長くバッシングを受ける中でも支えたが、1981年に転移性脳腫瘍によって7月29日に死去しました。

美空ひばりの恩人、田岡一雄の死と死因

美空ひばりを陰で支え、親代わりとなって興行などで支援をしてくれていた三代目山口組田岡一雄も1981年7月23日に死去。バッシングを受ける中、葬儀に出席する。この数日のうちに母も死去するなど精神的なダメージを追っている。

美空ひばりの実弟と親友の死去と死因

美空ひばりには芸能界の親友でライバルだった「江利チエミ」と深く親交していましたが、1982年2月13日に脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息(誤嚥)により死去、また、加藤哲也と香川武彦という二人の実弟が1983年と1986年に相次いで死去する不運に見舞われた。

美空ひばりの病気との闘い

1970年代後半に起こったバッシングでもファンから高い人気を誇っていた美空ひばり。しかし、母(喜美枝)・父親代わり(田岡一雄)・親友(江利チエミ)・弟を亡くし、精神的に逃れるために酒・たばこの量が増えていった。

原因不明の病気で倒れる

1985年にゴルフのプレー中に腰をひねり激痛を伴う原因不明の痛みが常態化する。その後、痛みを押してステージに上がっていたが、1987年に公演先の福岡市で緊急入院、重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症の診断が下される。

本当の病名とは?

約3か月半にわたり福岡市内の病院にて療養に専念となった。入院当時実際の病名は「肝硬変」であり、マスコミには一切発表しなかった。ひばりは病状は深刻だったことを隠し通す目的で、慢性肝炎などと公表し病名の程度を低くした。

二人の昭和のスターの死

美空ひばりが尊敬していた鶴田浩二を1987年6月16日、もう一人の昭和のスターであった石原裕次郎を7月17日に相次いで失うなど、更なる精神的ダメージを負ったことは容易に想像ができた中、治療に専念し復活を遂げました。

美空ひばりの復活とレコーディングまで

1987年8月3日退院、退院の記者会見で「もう一度歌いたいという信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」とコメントし、最後に「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。

退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たす。しかし、肝機能は6割程度しか治らず両側特発性大腿骨頭壊死症の治癒も難しい状態であった。

美空ひばりの復活ステージ

美空ひばりの体調は回復しないまま療養から復帰した。昭和の芸能界を作りあげてきた一人として意地であったかもしれない、その意地を周りの人たちはわかっていたかもしれない、そのため美空ひばりに最高のステージを用意した。1988年:昭和63年4月11日東京ドームのこけら落としに「復活公演」が行われた。

1988年:昭和63年東京ドーム公演

体調が完全復活ではなく、悪くなっている一方の美空ひばりはかなり無理をしていた。緊急事態を想定して救急車を配置、楽屋には医師・看護師、医療機器、ベッドが用意されコンサートの合間に休む体制が整えられた。この時の楽屋の様子を浅丘ルリ子はのちに「まるで病室のようだった」と語っている。

ひばりはフィナーレの「人生一路」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた。それほど今までとは遥かに悪い体調になっていた。しかし、体調が悪い中39曲を歌い切り、その姿はDVDで観られる。

東京ドーム公演以降のコンサート

1988年4月11日東京ドーム公演以降、1989年2月7日までの10か月間で全国で13公演、テレビ出演を行う。この間も体調は悪くなり、コンサート会場では車椅子・階段や舞台はリフトを使って上がるほどになっていた。

美空ひばりの死因を早めた善意によって

美空ひばりは主治医が考えた方針に反し、にひばりを想う知人や親族が信じて薦められた外国籍の医師資格のない人が掲げていた治療法である絶食療法を取り入れ治療をしていた。しかし、病状は悪化してしまい6月入院時の肝機能の数値が昨年の退院時の60%から20%程にまで下がっていた。

主治医の考えに反した治療方法は、死期を早めたことは確実であったと言えるが、美空ひばりは応援してくれる人々の想いが嬉しかったのではないか、期待に応えたいという思いが強かったように思えてなりません。

美空ひばりの最後と死因とは?

1989年2月7日の九州厚生年金会館でのコンサートを最後にコンサートは無理な状態に陥り、済生会福岡総合病院に再入院、その後東京に戻り、3月21日最後の出演となるラジオ出演し、そのまま順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院、6月24日午前0時28分に特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発と発表されている。

この発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全と同時に死去する2年前に発症していた「肝硬変」の悪化が最大の要因であろうことは想像にし難くなく、それらを併せて身体を蝕み亡くなったと思われます。

昭和という時代と美空ひばりとは?

美空ひばりは死後、女性として初めて「国民栄誉賞」を受賞しています。受賞理由として「真摯な精進、歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた。」あり、悲惨な戦争と戦後復興から昭和という時代の歌謡界を反映していたと思います。

昭和が終わって30年、平成も来年終わる中で昭和と美空ひばりを知らない世代が増えましたが、生きていれば82歳、高齢化社会では当たり前の年齢と思いますが、52歳という短い人生であったがゆえに伝説と言われているのではないでしょうか!