中国三大悪女が怖すぎる!残虐すぎる逸話や映画・ドラマ化された人物も エンタメ

中国三大悪女が怖すぎる!残虐すぎる逸話や映画・ドラマ化された人物も

中国三大悪女は、呂雉・西太后・武則天・妲己がいます。彼女たちは実権を握るためにライバルを殺したり、四肢を切断して人豚にしたりと残虐なエピソードが残っています。ドラマや映画化になっており、注目度は増しています。今回は中国三大悪女について詳しく紹介します。

目次

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中国三大悪女とは

中国の長い歴史の中には、国を陥れようとした女性もいます。大きく歴史を動かしたり、残虐な行動をしたりし、何百年も後世に語り継がれることとなりました。

中国三大悪女とありますが、挙げられるのは呂雉・武則天・西太后・妲己の4人です。このうち3人が選ばれることが多いですが、人によってどの3人を選ぶかは異なります。

今回は中国三大悪女について、プロフィールや彼女たちがした残虐なエピソードを紹介します。

中国三大悪女①呂雉

中国三大悪女の1人目は、呂雉です。司馬遷は「呂后の時代は安定していた」と評価していますが、なぜ中国三大悪女に数えられるのでしょうか。

ここでは、呂雉のプロフィールと「人豚」と呼ばれる残虐なエピソードを紹介します。

呂雉のプロフィール

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呂雉は紀元前241年から紀元前180年に生き、前漢の初代皇帝である劉邦の皇后だった女性です。劉邦は当時貧しい役人でしたが、父親が酒の席で彼を気に入り、結婚させました。

1男1女を授かり、劉邦が死去後は息子が皇帝に即位しました。すると呂雉も権力を持つようになり、これまでの恨みを晴らすかのように残虐な行動をするようになりました。

四肢を切断し人豚と称する

呂雉が中国三大悪女とされるのは、息子のライバルたちの暗殺を企てただけでなく、皇帝の側室であった戚夫人への復讐をしたためです。

戚夫人の息子を殺しただけでなく、戚夫人の四肢を切断し、両目をえぐりとり、薬で喉を潰しました。そして便所に放り込み、「人豚」として見せ物にしていたとされています。

この当時、中国では便所の穴の中で豚を飼育しており、人の糞尿を餌としていました。

呂雉の最期

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呂雉はさまざまな人から恨みを買っていたため、いつ暗殺されてもおかしくない状況でした。しかし、呂雉が亡くなった原因は脇の病気のようです。

死ぬ数ヶ月前に青い犬に脇を引っ張られる幻を見ていたため、祟りだとしていました。呂雉が亡くなった後、元勲らがクーデターを起こして呂氏一族を皆殺しにしています。

中国三大悪女②西太后

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中国三大悪女の2人目は、西太后です。咸豊帝の第2夫人が「東太后」と呼ばれていたことから、西太后と呼ばれるようになりました。

では、西太后はどのようなことをして中国三大悪女に数えられるようになったのか見ていきましょう。

西太后のプロフィール

西太后は1835年11月29日生まれで、満州出身です。生まれた地は、安徽省や内モンゴル、山西省など様々な説がありますが北京で生まれた可能性が高いとされています。

1852年に「選秀女」という后妃を選ぶ試験に合格して後宮に入りました。1856年には咸豊帝との間に男児を出産し、昇進しました。1861年に咸豊帝が崩御すると、西太后が裏で政権を操るようになりました。

生きたまま井戸に人を投げ落とす

西太后が中国三大悪女になったのは、1990年に起きた「義和団の乱」がきっかけです。義和団は勢力拡大とともに無差別な略奪などを行い、ドイツ公使や日本公使職員が殺されてしまい、連合軍を派遣しました。

この時西太后は優勢だった義和団側につき、諸外国に宣戦布告をしたようです。しかし八カ国連合軍が北京に迫ったため、彼女は北京を脱出しました。

この時、光諸帝に寵愛されていた側室の珍妃は北京脱出を批判しました。これに怒った西太后は珍妃を生きたまま井戸に落として殺害することを命じました。

西太后の最期

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1908年に光緒帝は何者かによって毒殺されました。この時の犯人はまだ分かっていませんが、死ぬのが近いと悟った西太后が自分より長生きしないために光緒帝を殺した説もあります。

西太后は光緒帝が亡くなった翌日に、72歳でこの世を去りました。死ぬ前に溥儀を擁立し、父親を摂政王に任命するなど万全を尽くしていました。

しかし亡くなってから3年後、辛亥革命によって清朝は倒されてしまいました。

中国三大悪女③武則天

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中国三大悪女3人目の武則天は、中国初にして唯一の女帝です。日本では「則天武后」と呼ばれることが多く、これは本人の遺言に従って皇后の札を持って埋葬したことから名前がついています。

中国の長い歴史の中で唯一の女帝であり、大きく歴史を動かしたことは間違いありません。では、なぜ中国三大悪女に数えられるのでしょうか。

武則天のプロフィール

武則天は624年2月17日に武士と皇族の娘の間に生まれました。637年に太宗の後宮に入り、幼い頃から高度な教育を受けていたため才気が買われて寵愛を受けるようになりました。

太宗が崩御すると、武則天は出家して道教寺院で修行を受けましたが、高宗に見初められて再び後宮に戻ります。皇后に成り上がった武則天は、簾の奥から皇后を操る「垂簾の政」を行いました。

わが子を絞殺

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高宗との間に1人娘が誕生していた武則天でしたが、皇后の座を奪うために絞殺したとされています。しかし、もちろん自分がやったとは言いません。

王皇后には子供がいなかったため、嫉妬から武則天の子供を殺したことにしたのです。武則天の思惑通り、王皇后の代わりに武則天が皇后となったのでした。

自身の権力のためには我が子を殺すことすら躊躇しなかったため、悪女と言われるようになりました。

ライバルの四肢を切断

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念願の皇后となった武則天ですが、王皇后とライバルの蕭淑妃は排除しておかなければ安心できません。655年に高宗は陰謀下毒の罪として2人を投獄し、彼女らの親族は官吏剥奪と流罪に処しました。

その翌月、武則天は2人を百叩きにして四肢を切断し、酒壺に入れるという残虐的な方法で殺害したのです。2人は酒壺の中で命が絶えるまで泣き叫んでいたと言われています。

武則天の最期

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690年、国号を「周」に改め武則天自らが皇帝となりました。実力を認めていた狄仁傑を宰相にし、他にも実力を見抜いたものは要職に抜擢して国を治めました。

死ぬ間際まで政治に尽力しましたが、次第に病床に臥せるようになりました。そして武則天は705年12月16日に亡くなりました。706年5月、武則天は高宗と合葬されました。

中国三大悪女④妲己

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最後の中国三大悪女は「妲己」です。これまで紹介してきた中国三大悪女は自身で実権を握ろうとする人ばかりでしたが、妲己は権力への興味はあまり無かったようです。

妲己は中国史上で初めての美女であると伝えられており、スマホゲームの「モンスターストライク」などでキャラクターとして登場することも多くあります。

それでは、どうして妲己が中国三大悪女となったのか、その理由を見ていきましょう。

妲己のプロフィール

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妲己は有蘇氏の娘に生まれ、殷の最後の王である帝辛に献上されました。帝辛は文武両道の切れ者でしたが、次第に暴君化してしまい、政治にも興味をなくなってしまいます。

そんな時に献上されたのが妲己であり、とても美女で楽しいことを考え出すことが上手かったため、帝辛を夢中にさせていました。

現代でも、妲己は悪女ながら魅惑的な女性として描かれることが多いです。

酒池肉林の宴会

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贅沢三昧な生活をすることを表す四字熟語に「酒池肉林」がありますが、その語源は妲己と帝辛の開いていた宴にあります。妲己は帝辛に桃源郷を作りたいとお願いしました。

妲己に夢中な帝辛はもちろん願いを叶えるために、庭の中に大きな離宮を建てさせ、木には肉をぶら下げ、池には大量の酒を注ぎました。

そして国の中でも若い美男美女たちを集め、全員が全裸で騒ぐという常識はずれなイベントを何日間にもわたって開いていたのでした。

残虐な遊びを好む

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快楽を追い求めていた妲己でしたが、同じものでは飽きてしまいます。そこでよりスリルのある快楽を求め、妲己は人々を残虐な方法で処刑するという遊びを思いついてしまいました。

そこで考えられたのが「炮烙の刑」でした。銅製の柱に油をまき、下には薪をくべて銅柱を熱く熱します。その上を罪人に裸足で歩かせ、渡り切ったら無罪とするというものでした。

その他にも「蠆盆の刑」と呼ばれる、穴の中に数千匹の蛇や蠍を入れて罪人をその中に落とすという刑罰を考えました。苦しみながら死ぬ様子を楽しんで見ていたと言われています。

妲己の最期

このように好き勝手する王の下で働きたい、生活したいと思う人はいません。次第に反発する者が現れ、近隣諸侯と共に殷に攻め込みました。

帝辛は焼身自殺をし、妲己は周朝の創始者である武王によって首を斬られたとされています。こうして殷は滅び、時代は周となりました。

中国三大悪女は映画化やドラマ化されている

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中国三大悪女には様々なエピソードがあるため、映画やドラマの題材となっています。有名女優たちが演じており、美しさもさることながら良い具合に残虐具合が再現されていると評価も高いです。

ここでは、実際に映画やドラマになった西太后と武則天を紹介します。

1984年「西太后」

1984年に中国と香港の合作映画として「西太后」が作られました。総製作費は150億円にも上り、日本でも1985年に公開されたようです。日本語吹き替えでは、西太后の声を戸田恵子が担当しました。

映画は「火焼圓明園」と「垂簾聴政」の2本の映画をまとめて編集したものであり、第一部と第二部に分けた完全版もビデオでリリースされました。

作中では西太后の半生を扱っていますが、フィクションも混ぜられておりその残虐性はかなり誇張されたもののようです。

2015年「武則天-The Empress-」

2015年から、中国初の女帝である武則天を描いたドラマ「武則天-The Empress-」が放映されました。全82話で、武則天が後宮に入ってから女帝になるまでのストーリーです。

武則天は日本でも美人女優として知られるファン・ビンビンが演じています。このドラマでファン・ビンビンは国劇盛典の最優秀女優賞とパーソン・オブ・ザ・イヤーを獲得しています。

中国三大悪女は怖いエピソードだらけだった

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今回は中国三大悪女と言われる4人の女性を紹介しました。ほとんどが自身の権力のために残虐な方法で人を殺しており、中にはそれを楽しんでいた人もいます。

中国三大悪女と言われるのも納得できるほど、多くのエピソードが残されています。しかし中には時代とともに脚色されて事実と異なる伝わり方をしているものも多いでしょう。