モデル山口小夜子さんの死因は?自宅で孤独死?若い頃や生い立ちもご紹介! エンタメ

モデル山口小夜子さんの死因は?自宅で孤独死?若い頃や生い立ちもご紹介!

70年代のスーパーモデル山口小夜子さんの死因とは?マツコさんにも絶賛され、子供の頃から洋服が大好きだった山口小夜子さん。若い頃のすっぴん画像も可愛いく、人々を魅了するウォーキングも話題です。今回は、山口小夜子さんの死因や生い立ち、魅力などを探っていきます。

目次

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山口小夜子さんは伝説のモデル!プロフィールや生い立ち

切れ長の瞳に日本人らしいおかっぱに黒髪というスタイルで、西洋の美が主流だった70年代に国産の美しさを再認識された伝説のモデル・山口小夜子さん。

当時は資生堂のCMで圧倒的な美を見せつけ、男性陣だけでなく多くの女性も虜にしました。その美しさは現在でも語り継がれており、彼女のメイク法を真似る女性もいるほどです。

そんな伝説のモデル山口小夜子さんの死因が気になる方も多いはず!華やかな世界にいながらも2007年に孤独死した山口小夜子さん。今回は死因や生い立ち、子供・若い頃の山口小夜子さんも解説していきます。

基本プロフィール

伝説のモデル山口小夜子さんは、1949年9月19日生まれ、2007年8月14日、57歳でこの世を去っています。出身は横浜市中区、身長は170cmと抜群のスタイルで圧倒的な存在を放っていました。

当時の日本人モデルの中ではかなり長身な方で、1971年にモデルとしてデビュー以来、切れ長とボブスタイルで日本人ブームを巻き起こしたそうです。

モデルとしてだけでなく、デザイナー、ダンサー、パフォーマーと様々な分野で活動!その多岐にわたる活動から、自身のことを「ウェアリスト」と表現していました。

山口小夜子さんの生い立ち

続いては山口小夜子さんの生い立ちを見ていきましょう。横浜市中区で生まれた山口小夜子さんは、洋裁が好きな母親の影響で子供の頃から洋服が大好きな女の子でした。

母親が作った洋服のモデルになることが多く、そのほとんどが海外のファッション雑誌を参考にした斬新なデザインのものばかりだったようです。

着るだけでなく、ファッションショーのように実際に歩いて披露していた山口小夜子さん。子供の頃は同級生の間で浮いた存在でいじめに遭うこともあり、自分の殻に閉じこもることもありました。

雑誌『Seventeen』が大好きだった

学生時代は雑誌『Seventeen』が大好きで、気に入った洋服は母親に頼んで作ってもらっていたそうです。当時から海外と日本のファッションに対する価値観の違いを疑問に思っていたと話しています。

若い頃からファッションに精通していた山口小夜子さん。自分の趣味と特技を生かせるモデルの道に進み、成功を成し遂げています。

アジアンビューティーの先駆け

山口小夜子さんが出てくるまでは、大きな目でキュートな顔立ち、世の中では欧米風が流行でした。そんな中現れたのが、切れ長の瞳におかっぱの黒髪の山口小夜子さんです。

日本人特有のきめ細かい色白肌に、印象的な切れ長のアイライン。チークは若干高めの位置にたっぷり塗り、リップはくっきりと縁取りがされた印象的な赤でした。

そのエキゾティックなスタイルはヨーロッパでも絶賛され、「SAYOKO マネキン」なるものがヨーロッパのブティックに置かれ大流行したそうです。今ではアジアンビューティの先駆けとまで言われています。

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山口小夜子さんはパリコレ出演の輝かしい経歴の持ち主

今でこそアジアンビューティを取り入れたメイクをする女性も増えていますが、1970年代においては彼女のメイクは斬新で、多くの人に影響を与えたそうです。。

のちにアジアンビューティの主流とも言われる彼女のメイク法は今でも語り継がれており、多くの女性が憧れるスーパーモデルとして崇められています。

亡くなった後も支持され続ける山口小夜子さんはどのような経歴をお持ちでしょうか?パリコレに起用され、資生堂のモデル、女優などの活動も幅広く行ってきました。ここからは経歴を解説していきます。

1972年パリコレ起用

京浜女子大学横浜高等学校、杉野学園ドレスメーカー女学院に通い、卒業後の1971年にモデルとしてデビューしています。そこ頃から山本寛斎さんや高田賢三さんのファッションショーで注目され始めます。

そして1972年、プロのモデルとしてデビューしてなんとたった1年後にはパリコレに起用され、その1年後にはニューヨークコレクションにも出演しています。

松田和子さん、松本弘子さんに続いてパリコレに起用された山口小夜子さんですが、そのスタイルはこれまでの常識を覆す、斬新かつ見る者を魅了する力があったのです。

1973年から資生堂のモデル

さらにその1年後の1973年には資生堂の専属モデルとして契約を交わしています。同年の『シフォネット』のポスターで、ボブに切れ長のアイメイクというこれまでにないスタイルで登場!

彼女のその発想とアイデアはファッションデザインや装飾品のプロデュースにも生かされ、1977年には雑誌『ニューズウィーク』では「世界のトップモデル6人」にアジア人で初めて選ばれたそうです。

国内外に彼女の美は広まり、たちまち山口小夜子ブームが起こりました。

女優としても活躍

山口小夜子さんは舞台や映画などで女優としても活躍しました。表現の幅を広げた『中国の不思議な役人』(1977年)、映画『杳子』。

彼女の代表作とも言えるのが主役を務めた半自叙伝的舞台『小夜子:山口小夜子の世界』(1980年)です。国際エミー賞を受賞した舞台『カルメン』(1989年)での演技も高く評価されています。

1986年頃からは舞踊やダンスも学び、勅使河原三郎/KARASとのコラボ、また世界ツアーに同行してダンサーとして活動するなど、幅広い部門で活動し評価されています。

ウォーキングがすごい

山口小夜子さんのウォーキングは、ファッションに興味ない方まで惹きこんでしまうほど艶やかで妖艶!一度見ると忘れられないほどのインパクトがあり、世界観が確立されています。

こちらの動画は1894年山本寛斎さんのファッションショーに出演した時のものです。どこかミステリアスで、洋服の世界観を最大限に引き出す舞台!

洋服を理解し着こなし、それでいながら自分の世界観をしっかりと出している山口小夜子さん。ウォーキングはもちろんですが、自身を手掛けるプロデューサーでもあり、見る人に勇気を与えてくれます。

若い頃の山口小夜子さんのすっぴんがかわいい

山口小夜子さんと言えば、やはり切れ長のアイメイクにしっかり縁取りされたリップが印象的!メイクは濃いめとあって、すっぴんとのギャップがあるのでは?と感じる方も多いでしょう。

そんな山口小夜子さんのすっぴんが可愛いと当時から話題になっていたようです。すっぴん画像を探してみると、なんと16歳の可愛らしい画像が見つかりました。

ほぼすっぴんと思われるこちらの画像を見ると、クールなアジアンビューティというよりは、あどけない可愛らしささえ感じられます。

すっぴん顔は全く違う!

すっぴんはどちらかと言うと目がぱっちりしてキュートな印象です。ここから切れ長なクールビューティをメイクで作り上げていたのでしょう。

日本人ならではの良さを最大限に引き出すことで、伏し目がちなクールビューティなメイクが仕上がり、その独自スタイルが多くの人を魅了してきた山口小夜子さん。

その立ち振る舞いはまさにスーパーモデルそのもの。彼女がいるだけで場の空気が変わるほどの存在感がありました。

山口小夜子さんをマツコも絶賛していた

その美しさはマツコデラックスさんも絶賛するほど!マツコさんは山口小夜子さんが登場した時のことを鮮明に覚えており、「何かが開眼」した感覚だったとインタビューで明かしています。

美しいと一言で表せる次元ではなく、狂気とか怖いという感覚が近いと言います。他のモデルがやっていないことを貫き、「ここまで登ってきなさい」という余裕さえも感じさせたそうです。

彼女は自身に絶対的な自信があり、そして自分自身をプロデュースするモデル!自分を常に客観視し、未来を見据える視野の持ち主とも言えます。まさに時代を作ったモデルと言っても過言じゃないでしょう。

山口小夜子さんは生涯独身を貫いた

若い頃からファッションに精通し、自分の道を貫き通した山口小夜子さん。その女性らしさや強さも魅力の1つで、その圧倒的バイタリティは今もなお語り継がれています。

そんな山口小夜子さんには恋人はいたのでしょうか?結婚は?また、子供はいたのでしょうか?山本寛斎さんと愛人関係だったとの噂もあります。ここからは山口小夜子さんの恋愛事情を解説していきます。

未婚で子供はいない

山口小夜子さんは、どうやら生涯独身を貫き、お子さんはいなかったようです。モデルとしての人生をまっとうし、ご自身のミステリアスな雰囲気作りに徹っしたのでしょう。

その一方で山本寛斎さんと愛人関係だったという噂もあります。

山本寛斎さんと愛人関係にあった?

山口小夜子さんにとっては山本寛斎さんは命の恩人のような存在!彼のオーディションに行ってなければモデルを辞めてたとも語っており、モデルとして見いだされ、続ける原動力になった存在と言えます。

山本寛斎さんには妻子がおり、娘もモデルとして活動しています。よって関係があったなら禁断の愛人関係!

ミステリアスでプライベートを一切明かさない山口小夜子さんですので、二人の関係も謎のまま!生涯独身を貫いたのも愛人関係が長かったからと言われていますが、真実は明かされていません。

2007年に山口小夜子さんは死去している!死因は?

ここからは本題でもある山口小夜子さんの死因を深堀りしていきましょう。山口小夜子さんは、2007年57歳という若さで亡くなっています。

2003年頃からは、ファッション、音楽、映像、朗読が一体化したパフォーマンスに徹しており、彼女が表現した「ウェアリスト」の世界観を徐々に確立させていきました。

また、2007年からは自身の主演映画を共同監督する予定だったようです。順風満帆に見えた芸能活動ですが、一体何があったのでしょうか?ここからは山口小夜子さんの死因を徹底解説していきます。

死因は急性肺炎

山口小夜子さんが亡くなったのは、2007年8月14日。享年57歳でした。亡くなる1週間前までは体調が悪い様子はなかったと言いますが、死因はどうやら急性肺炎だったようです。

年齢的にもまだ若い山口小夜子さんですが、仕事が立て込んでおり疲れが溜まり免疫力が低下していたのでしょうか。

1週間まで元気だった山口小夜子さんに何があったのでしょうか。

自宅で孤独死

死因は急性肺炎だとわかりましたが、実は発見されたのは8月17日、亡くなった3日後でした。知人がマンションを訪れると部屋で倒れているのを発見!

救急車で運ばれましたが、病院にて死亡が確認されました。生涯独身を貫いた山口小夜子さん。その最期は誰にも気づかれることなく1人で亡くなったようです。ネットでは孤独死だと大きな話題になりました。

お別れの会には多くの人が集まった

山口小夜子さんの最後の作品となったのは、映画『馬頭琴夜想曲』 です。そして彼女の最後の撮影をしたのが、写真家の下村一喜さんでした。

死因は急性肺炎で、葬儀は親族だけで執り行われたそうです。9月19日には築地本願寺でお別れ会が開催され、多くの人が集まったようです。

たくさんのファンに惜しまれつつ亡くなった山口小夜子さん。生涯山口小夜子であり続け、私生活は謎に包まれたまま、その最期は孤独死という寂しい終わり方でした。

2015年には山口小夜子さんの映画が公開された

2015年には、山口小夜子さんのドキュメンタリー映画『氷の花火 山口小夜子』が公開になりました。彼女と交流があった人たちの証言を集め、残された映像と一緒に彼女の生涯を振り返る作品です。

アクセサリーや洋服などの遺品も開封し、彼女自身が表現した『ウェリスト』の世界観を再現した作品に仕上がっています。

なぜモデルになり、その中でどんな苦労があったのか。表現者として常に未来を見据えていた孤独な戦いのゴールは一体どこにあったのか、その答えは作品の中で見つかるかも!?

山口小夜子 未来を着る人も開催

映画と同時に、山口小夜子さんの作品を回顧する「山口小夜子 未来を着る人」も開催されました。東京都現代美術館にて開催されたイベントで、彼女のことを知らない若い世代のお客さんも多かったようです。

作品に触れ、彼女のファンになった若者もたくさんおり、入場者数はなんと5万5千人を記録!最終日だけでも3000人の人が集まったようです。

山口小夜子さんが表現した「ウェアリスト」は今後も若い世代に語り継がれていくでしょう。

山口小夜子さんは日本を代表するモデルだった

切れ長のアイメイクに、縁をしっかりとられた真っ赤のルージュ。そのスタイルは1970年代には斬新で、多大な影響を与えてきました。

そんな山口小夜子さんは2007年に急死しており、死因は急性肺炎でした。亡くなった3日後に発見され、孤独死が噂されたようです。

亡くなった後も彼女が残したものは語り継がれ、若い世代からも支持され続けています。興味ある方ぜひドキュメンタリー映画もチェックしてみてください。

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