加藤茶の若い頃が超イケメン!昔はドラマー?波乱万丈な人生を紹介! エンタメ

加藤茶の若い頃が超イケメン!昔はドラマー?波乱万丈な人生を紹介!

加藤茶は昔若い頃、イケメンのドラム奏者としてバンドマンから活動を開始しました。後にドリフターズの主力格としてコントで才能を開花させ、ちょっとだけよ等の一発ギャグで一世を風靡しました。絶頂時の年収は破格なものでした。加藤茶の本名や出身地も紹介します。

目次

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加藤茶の若い頃がイケメンすぎる!?ドリフ加入までの波乱万丈な人生とは!?

加藤茶が、昔若い頃に超イケメンだったという話をよく聞きます。加藤茶は今から50年も昔、ドラム叩きのバンドマンとして世に出ました。のちザ・ドリフターズの主力メンバーとなります。

そのドリフターズから志村けんが急逝してしまい、ドリフの若い頃が再放送されるなど昔に注目が集まります。まずは加藤茶の若い頃のイケメンぶりと、波乱に満ちた昔を振り返ります。

加藤茶の出身地や本名は?芸名の由来と名付け親

加藤茶の出身は東京生まれですが、父のがん発症によって母方の福島県で高校まで過ごしました。その関係で出身校は全て福島で、高校は当時の福島工業高校中退という形になっています。

加藤茶の本名は「加藤英文(ひでゆき)」と言います。周囲からは本名と全く別に、カト茶、チャー坊、ヒデ坊などの愛称で親しまれました。やがて加トちゃんが本名以上に主体となりました。

後年芸能界入りする際には、先輩格のハナ肇から「加藤茶」と名付けられます。これは芸事は水と関連する名が善しとすることと、当時皆から加トちゃんと呼ばれていたことに由来します。

加藤茶は昔若い頃は超イケメンで菅田将暉とソックリだった!?

昔を知らない今の人は、若い頃の加藤茶の画像を見ると、その多くが菅田将暉ソックリというようです。並べてみるとそれは歴然で、菅田将暉並みのイケメンだったことがはっきりします。

眉がしっかりとし、目鼻立ちに至っては加藤茶と菅田将暉は本当によく似たイケメン同士です。昔の芸能雑誌では、加藤茶をイケメンとして扱っていたことも画像からよくわかります。

10代の若い頃はバンドマン!?ドラムスティックでドラム猛練習!

上京後にバンドマンでならした加藤茶ですが、ギャラ100円を巡りマネージャと揉めた事がありました。マネージャーはなんと100円を加藤茶へ投げつけ、喧嘩沙汰となりクビになりました。

そんな折、先輩に捨ててと預けられた折れたスティックで、加藤茶はドラムの練習を始めました。

わずか半年のドラム練習で「クレージーウエスト」加入!仲本工事と出会う!

ドラム練習では先輩にも恵まれ、よく教えてもらえたので早くに上達しました。わずか半年後にはクレージーウェストというバンドに加入することが出来、プロのバンドマンとなりました。

このバンドでは仲本工事(当時の仲本コージ)との出会いがありました。

バンドを二転三転するうちいかりや長介と運命の出会い!?

その後、加藤茶はバンドを移籍しています。当時のバンドの常識として、移籍するごとにギャラが上がる風習があったためです。3つ目で、桜井輝夫とザ・ドリフターズへ移籍します。

加藤茶はドラム奏者としてもプロでしたが、福島訛りで面白いことを言うとの評判も持っていました。この後ドリフターズは桜井輝夫はオーナーとなり、いかりや長介が新リーダーとなりました。

この、「碇矢長一とザ・ドリフターズ」はジャズ喫茶などでコミック色が強くなっていきます。しかし方向性の違いから、小野ヤスシを始めとするメンバーは次々脱退していきました。

1965年加藤茶は「ザ・ドリフターズ」としてコミックバンド活動開始!

人気の主体は、加藤といかりやでしたので、いかりや長介は加藤茶だけには強く慰留を説得します。同じく加藤茶も脱退組には馴染まず、2人で新規メンバー集めに奔走しました。

そして仲本工事、荒井注、高木ブーの3人が加入し、新生ドリフターズが船出しました。色合いとしてドリフターズはこの時、コミックバンドとしての位置づけを確固たるものにしました。

1966年ビートルズ来日の前座として出演!?加藤茶は22歳ドラム担当!

日本にグループサウンズの大ブームが巻き起こるその頃、世界的超大スター・ビートルズが来日公演をします。この一大ムーブメントには、前座に錚々たるメンバーが名を連ねます。

代表的格に、尾藤イサオや内田裕也、GSからはブルーコメッツ、ブルージーンズが演奏を披露しています。そしてなんとザ・ドリフターズもこの栄光の面々と肩を並べて登場しました。

舞台では一段高い場所で、まだ22歳の加藤茶が見事なドラム演奏を果たしています。

ドリフ人気爆発の最大の功労者は加藤茶!?子供達からの圧倒的な支持!

ドリフターズはコミックバンドからスタートしましたが、やがてテレビになくてはならない存在となります。それはTBS系列で始まった、8時だョ!全員集合が大ブームになったことからです。

しかし開始当初から順風満帆ではありませんでした。この当時、テレビ界にはコント55号の存在があったためです。萩本欽一の生み出す新しい笑いは、革命的とも言える斬新なものでした。

1969年「8時だョ!全員集合」開始!裏番組はテレビ界の巨人コント55号!?

1969年当時、土曜日の夜のゴールデンタイムは民放各局がしのぎを削る争いでした。とりわけ「コント55号の世界は笑う」は爆発的人気番組として、その当時のテレビに君臨していました。

TBSはこの巨大な番組の裏にドリフターズをぶつけることにしたのです。

3カ月でコント55号に惨敗!?しかし加藤茶の反撃ハゲヅラ+チョビヒゲ!?

しかしながら開始から3カ月、コント55号に対し、視聴率では全く敵わなかったそうです。この頃放送作家の書くコントの内容に疑問を持ったいかりや長介と加藤茶が最後の賭けに挑みます。

それは自分たちのやりたいスタイルでコントをやり尽くすことでした。TBSにその旨を直談判し、加藤茶を主力としたドリフターズは天性の勘のコントを繰り広げました。

そこで反撃ののろしとなったのが、加藤茶お馴染みのハゲヅラ親父スタイルでした。チョビヒゲに牛乳瓶の底のような丸眼鏡のいで立ちは視聴者にウケ始めます。

加藤茶の最初の伝説的ギャグは自然発生!?「加トちゃんペ!」とは?

綿密なリハーサルでよく知られるドリフターズですが、加藤茶のギャグはほとんど自然発生です。有名な「加トちゃん、ペ!」は、付け髭が取れないよう抑える動作から生まれたものと知られます。

この他も、小学生たちが絶大に支持し真似される、加藤茶の一発ギャグが天性の勘で生み出されました。

「8時だョ!全員集合」は最高視聴率50.5%のお化け番組へ成長!

打ち切りさえ囁かれた、8時だョ!全員集合でしたが、一気に子供達を虜にし大逆転劇をします。その原動力こそ、加藤茶であり、メガホン片手に威張るいかりや長介との掛け合いは定番化します。

そして黄金期とも言える1973年には、最高視聴率50.5%をマークし、お化け番組の異名を取る成長を遂げました。この「土曜8時戦争」と言われた戦いで、ドリフは40%台を常に保ち続けました。

それがわずかに30%台になると「低迷」と言われるほどでした。以後、俺たちひょうきん族の後塵を喫し、1985年に全てをやり尽くす形で番組は終了しました。

加藤茶の編み出したギャグが大人気!子供達のカリスマへ!?

加藤茶の繰り出す一発ギャグは、その時代の子供たちの憧れでもあり、よく真似されました。小学生のカリスマ的存在、加藤茶のギャグの一部を見てみましょう。

加藤茶のギャグ①:ちょっとだけよ!あんたも好きねぇ?

この「ちょっとだけよ!」のネタは、コントの流れの中に巧みに織り込まれ、毎週楽しみにされたギャグです。艶めかしい「タブー」のメロディが様々な楽器で流れると加藤茶の登場です。

曲に誘われるように現れ「ちょっとだけよ!」と、オネエっぽい仕草でストリップもどきの芝居を打ちます。連続し「あんたも好きねぇ?」と畳みかけ、主にいかりや長介に中断されます。

抗議してくる人は多くない。ドリフを見て不良になる子はいないし、何千万人が笑っていると信じてた。でも、「ちょっとだけよ」がなぜ子どもに受けたのか、理解出来ないね。

(引用:こいもうさぎのブログ)

加藤茶はのちに、このような述懐をしています。現在のアーカイブで見ても、この「ちょっとだけよ」のバリエーションの多さと捻り方は、見事としか言いようがありません。

加藤茶のギャグ②:1234、やったぜ加トちゃん!

ちょっとだけよ、の爆発的なブレイクの前に生まれたギャグがこれです。お尻を振りながら、モンキーダンスっぽく、実はこの後も台詞は続きます。

正確には、「1234、やったぜ加トちゃん ぐるっとまわってうんこちんちん もひとつおまけに どーもすんずれいしました」
である。

(引用:あまくさ人のひとりごち)

ギャグですので、意味や解釈というよりリズミカルな面と時代背景を楽しみましょう。

加藤茶のギャグ③:ヒーックシュンッ!(くしゃみ)

このギャグ、というか芝居・芸風は、加藤茶の持ちネタの中でも特筆すべきものです。類似するギャグ芝居で、酔ったおじさんが「オェー!」と連発する変形もあります。

何の脈絡もなく始まることもあれば、コントの中での決めとして連発で使われることもあります。ごく初期のドリフでもウケていましたが、志村けんとのコントで冴えわたる切れ味を持ちます。

番組終了時の呼びかけはアドリブ!?子供達へ託す優しさのセリフ!

そしてそれらナンセンスギャグとは全く逆に、番組終了時の合唱中、子供達へ語るセリフも有名でした。主に親が口うるさく言いそうなことや、健康上留意すべきことを連呼します。

風邪引くなよ、宿題やれよ、頭洗えよ、歯磨けよなどがこれに当たります。小学生のカリスマから、こう諭されれば子供も言うことを聞くという、加藤茶の優しさでもあります。

また一説によると、番組スポンサーが「ライオン」なので、歯磨き・シャンプー等へ配慮したとも言われています。

志村けんの加入後、新生ドリフターズは全国無敵のコントグループに!

ドリフのコントでは、いつも何か怒っている役の荒井注が、1974年に脱退を発表しました。後任選びはメンバー間で割れましたが、加藤茶の推す志村けんが若い力として加入しました。

後には大成する志村けんも、ドリフ加入から2年ほどウケない時期が続きました。しかしコント中、いかりやが「田舎者」と小バカにしたきっかけで、ブレイクを迎えます。

最強の裏番組「欽ドン」を逆襲!志村けんの東村山音頭が大ブレイク!

志村けん加入の頃の裏番組には、萩本欽一率いる「欽ドン」の強さが圧倒的でした。かつてコント55号として立ち憚ったライバルとして、またも登場していたのです。

これに一矢報いたのが、志村けんによる「東村山音頭」だったのです。この結果から見ますと、若い頃の志村の才能を見抜き抜擢を貫いた、加藤茶の先見の明がよくわかります。

加藤茶と志村けんの2トップ!ヒゲダンスは子供から大人まで熱狂!

次第に才能を開花させた加藤茶と志村けんは「ヒゲダンス」でまたも大ブレイクしました。お揃いの衣装でダンスに乗せながら、完全アドリブな「芸」を見せるという共同作業です。

加藤茶にとって、若い頃同様ワンマンで笑いを取るより、ドリフをどう生かすかがテーマでした。時折不仲説が流れたりした2人ですが、加藤茶は志村けんに全幅の信頼を置いていたのです。

「8時だョ!全員集合」の伝説的事件とは!?加藤茶のアドリブが神レベル!?

8時だョ!全員集合は、生放送ゆえに様々なアクシデントがありました。しかし事件を瞬時に笑いに感動に変えてしまうセンスは、ドリフでなければ出来ないものも多かったと言えます。

伝説①:山火事事件!?小道具の鉄砲から舞台へ引火し火事寸前に!?

前半コントで、小道具の銃から出た火花が舞台セットに引火するアクシデントがありました。通称「山火事事件」は一歩間違えば火事になる大事で、実際会場には警報ベルが鳴り響きました。

初動消火で鎮火してコント自体はそこで打ち切ります。この時本当は慌てたはずの加藤茶は「山火事だぁ!」と小さく連呼し、あたかもそれが演出だったかのようにすり替えてみせました。

伝説②:停電事件!?放送開始に会場停電!真っ暗闇で9分半を繋いだ伝説!?

大停電事件はさらに有名な伝説として語り継がれています。オープニングの瞬間から会場の照明が全て落ち、真っ暗闇の生放送が開始したのです。CMをねじ込む間もなくただ闇が続きました。

懐中電灯でゲスト紹介をするというテレビ史上極めて稀な放送でした。この最悪の事態に「こんなの初めてだね加藤君」と、最も信頼できる男・加藤茶の名をいかりやは呼んだのです。

後年、バラエティ番組でドリフメンバーが、これは人災だったと語っています。入場できなかったファンが腹いせに、送電車のケーブルを抜いたことが直接の原因だったとの証言がありました。

どちらの伝説にも西城秀樹の姿が!?最多登場回数73回!

不思議な縁ですが、この2回の事件共に西城秀樹は同じ舞台上に居ました。それもそのはず、西城秀樹こそは同番組最多出場73回を誇る、準メンバーとも言える人だったからです。

特に大停電事件では、西城秀樹はいかりや長介のすぐ横にいました。その関係上、空白を避ける役を見事にアドリブで乗り切ったことも知られています。

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