

二又トンネル爆発事故とは?当時と現在の画像比較!心霊現象が起きている?
二又トンネル爆発事故は福岡県彦山駅付近にある二又トンネルで爆薬処理を誤り、死者と負傷者で200人以上を出した爆発事故です。二又トンネル爆発事故の現在は爆発跡も残っており書籍もされています。今回は当時の画像や現在はどうなっているのか心霊情報などを紹介します。
目次
[表示]- 01.
二又トンネル爆発事故とは?概要を紹介
- 01.1.
二又トンネル爆発事故は終戦直後に起きた爆発事故
- 01.2.
二又トンネル爆発事故は1945年11月12日、福岡県で発生
- 01.3.
戦時中の火薬を保管していた
- 01.4.
終戦後にGHQから焼却処分を命令される
- 01.4.1.
焼却処分テストの結果は問題なし
- 01.5.
火をつけた1時間後にトンネルから大きな火が
- 01.6.
100m以上離れた民家にも火が燃え移るほど
- 01.7.
2時間後に火薬に火がつき大爆発
- 01.8.
山が1つ吹き飛ぶほどの爆発
- 01.9.
吹き飛んだ土砂で多くの人が生き埋めになってしまった
- 01.9.1.
爆心地に近い人は爆発音が大きすぎて聞こえなかった
- 01.10.
負傷者、死亡者共に戦後最大規模の事故
- 01.11.
ドングリ採集に来ていた児童も巻き込む悲惨な結果
- 02.
二又トンネル爆発事故のその後
- 02.1.
終戦直後の事故だったため物資不足に
- 02.2.
建物はほとんどが半壊!負傷者や遺体収容が困難だった
- 02.3.
遺体を道の傍らに…苦肉の策で対応
- 03.
どうして爆発事故が起きたのか
- 03.1.
火薬の量が多すぎた
- 03.2.
保管場所には密集した火薬が
- 03.3.
同日処分した吉木トンネルでは爆発は起こらなかった
- 04.
二又トンネル爆発事故後、現在は?
- 04.1.
【画像有り】現在も爆発後の山の形が残っている
- 04.2.
彦山駅の駅舎の画像、爆風被害の跡が残っている
- 04.3.
爆発事故付近には慰霊碑が建てられている
- 05.
二又トンネル跡地で心霊現象?
- 05.1.
心霊現象は現在ない模様
- 05.2.
岐阜県にある二股トンネルが心霊スポットになっている
- 06.
事故を風化させないために書籍化されている
- 06.1.
被害にあった人の書籍も
- 07.
歴史に残る悲惨な事故として残っている
二又トンネル爆発事故とは?概要を紹介
二又トンネル爆発事故は戦後すぐに起きた大きな爆発事故になります。福岡県で発生しており、火薬の処理方法を間違えてしまい多くの被害者を出してしまいました。
この被害者の中には近くまでドングリ採集にきていた小学生も多く死亡しており、悲惨な事故として現在も語り継がれています。
また二又トンネルが通っていた山も爆発した状態のままで残っており、現在も山が真ん中から抉られているような形になっています。
二又トンネル爆発事故は終戦直後に起きた爆発事故
二又トンネル爆発事故は戦争が終わり、使用することがなくなった火薬を処理する時に起きた爆発事故になります。
当時は火薬の取り扱いが甘く、火薬テストで問題がなければ焼却処分をしていた時代でした。このテストも現在では信憑性が薄く効果がないといわれています。
あまりにも大きな事故だったので、現在では火薬の扱い方の戒めとして二又トンネル爆発事故のことは書籍にまでされています。
二又トンネル爆発事故は1945年11月12日、福岡県で発生
二又トンネル爆発事故は1945年11月12日に福岡県の添田町で発生しました。
彦山線彦山駅から500メートルほど離れた所にある二又トンネルには戦争時に使用するためにストックとしてとっておいた火薬が保管されていました。
この時二又トンネルで保管されていた量が非常に多く、規定を超える量だったようです。空気の通りも悪いトンネルだったこともあり火が一気に火薬に回ったのではないかと考えられています。
戦時中の火薬を保管していた
二又トンネルには戦時中の火薬を保管していました。最初この保管されていた火薬は福岡の北小倉区にある火薬保管倉庫で管理されていました。
しかし空襲による爆撃で倉庫が焼失してしまったため、次の保管場所へと指定されたのが二又トンネルでした。
このトンネルでの保管も特に疑問視されることもなくトントン拍子で決まり、すぐに二又トンネルへ運び込まれたそうです。
終戦後にGHQから焼却処分を命令される
戦争が終わった後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に火薬を保管していることが知られてしまい、残っている火薬の処分指令が下されました。
火薬処分は二又トンネルだけでなく、他の火薬保管場所も処理するようにという内容だったようです。
そのため二又トンネルの前に吉木トンネルという場所にも火薬が置かれていたのでこちらのトンネルも同じように焼却処分を行いました。
焼却処分テストの結果は問題なし
終戦当時、火薬を処分する時は焼却処分をしていたようです。二又トンネル内の火薬も焼却処分できるかのテストが行われました。
テスト内容は火薬を地面に撒いた状態で火を放つといういい加減なものだったようです。テスト時の地面に撒かれた火薬は燃えはするものの爆発はせずに終わりました。
テストの結果焼却処分しても問題ないという結果になり、そのままトンネル内の火薬を焼却処分することになりました。
火をつけた1時間後にトンネルから大きな火が
テストの結果、問題ないと言われた二又トンネルは15時頃にトンネルから10mほど離れた所で導火線に火をつけ焼却処理を開始しました。
実際に火をつけた所1時間ほどでトンネルの出口から大きな火が噴き出すように出てきました。
100m以上離れた民家にも火が燃え移るほど
トンネルから吹き出した火は近くにあった民家にも火が燃え移るほどの勢いでした。
当時は焼却しても問題ないという判断で行っていたためトンネル近くに住んでいた人も民家に火が燃え移ってたから事態の深刻さに気が付いたようです。
2時間後に火薬に火がつき大爆発
火薬処理を開始してから2時間後、火薬にまで火がついてしまい大爆発を起こしました。
大爆発を起こす前にトンネルの入り口から火が引き出していたので避難をする人もいたようですが、ほとんどが間に合わず大きな被害が出てしまいました。
山が1つ吹き飛ぶほどの爆発
火薬の威力は凄まじく、トンネルはもちろんのこと山を1つ吹き飛ばすほどの威力でした。山が吹き飛んで抉れてしまっている跡は現在も残ったままです。
トンネルはコンクリートで固められている上に山を1つ飛ばしているので、その爆発力は凄まじいものだったと推測できます。
吹き飛んだ土砂で多くの人が生き埋めになってしまった
爆発時に山1つ分吹き飛ばした大量の土砂は近くにいた人を生き埋めにするほどの量でした。爆薬処理でこのような大爆発が起きるとは想定していなかったので、事故当時は日本中が震撼しました。
また、この吹き飛ばされた土砂や岩石に当たり亡くなる人や、近くにあった民家は埋没してしまうほどの量の土砂だったようです。
爆心地に近い人は爆発音が大きすぎて聞こえなかった
爆発時はものすごい轟音で福岡市内でもその音は響いていたようです。彦山駅周辺など爆心地にいた人達は音が大きすぎて爆発音が聞こえなかったほどだったようです。
二又トンネル爆発事故は現在でも鮮明に残っている爆発事故の1つですが、福岡中に爆発音が鳴り響いていたことから爆発の大きさが相当なものだったと想像できます。
負傷者、死亡者共に戦後最大規模の事故
二又トンネル爆発事故は戦後最大の爆発事故となり、死亡者は147人、負傷者は149人と300人近い人が被害に遭いました。
戦争も終わったと思った矢先にこの二又トンネル爆発事故が発生したしので、精神的に辛い人も大勢いました。
ドングリ採集に来ていた児童も巻き込む悲惨な結果
二又トンネル爆発事故の死亡者の中には多くの子供も含まれています。特に学校帰りにドングリ採集にきていた児童もいたようです。
ドングリ集めは宿題の一環だったようで、亡くなった子供の中にはドングリを握りしめたまま亡くなっている子供もいました。
二又トンネル爆発事故のその後
多くの被害を出した二又トンネル爆発事故ですが、爆発事故のその後はどういった対応が行われたのでしょうか。
山が1つ吹き飛ぶほどの威力の爆発と終戦後だったこともあり、物資不足や建物の崩壊がひどかったようです。
終戦直後の事故だったため物資不足に
二又トンネル爆発事故が起きたのは終戦直後でした。そのため物資が不足しており治療道具も薬も足りない状況でした。そのため救助活動は非常に難航してしまったようです。
また爆風で全身に大やけどを負った人や岩石の下敷きになった人などが多く、消毒液や包帯だけで対応できる状態ではなかったようです。
そのため防腐効果や呼吸量増大効果があるカンフルが多く必要でしたが、それも戦争の時に多く消費されており、数が圧倒的に不足していました。
建物はほとんどが半壊!負傷者や遺体収容が困難だった
二又トンネル爆発事故当時は建物は爆風で壊滅状態になっている物や上から降ってきた土砂のせいで埋没してしまった建物もいくつかありました。建物と呼べる状態の物はほとんどなかったそうです。
そのためちゃんとした建物はほとんど残っておらず、負傷者や遺体収容所が確保できなくなってしまいました。建物の中に入るだけでも精神的に落ち着くのですが、それも叶わなかったそうです。
遺体を道の傍らに…苦肉の策で対応
遺体に関しては苦肉の策として道の傍らに藁や竹で編んだ敷物をしき、その上に遺体を並べて対応したようです。被害にあった人からは戦争が再会されたような惨状だったという声がありました。
どうして爆発事故が起きたのか
二又トンネル爆発事故はどうしておきてしまったのでしょうか。焼却処理をする前にテストまで行っていたのにこのような大きな事故が起こってしまったことに疑問を持つ人も多くいます。
二又トンネル爆発事故が起きてしまった最大の原因としてはトンネル内に確保していた火薬の量が多すぎたことが原因だったようです。
実際に同日、同じく焼却処理を行った吉木トンネルでは大爆発は起きずに無事処理を完了しています。
火薬の量が多すぎた
二又トンネルに保管していた火薬の量はトンネル内の約70%以上も火薬で占めていたようです。まさにぎゅうぎゅうに詰め込まれていたような状態です。
空気量が少なく、密度が高い火薬が大量に詰め込まれている状況は、焼却テストをした時の状況とは大きくかけ離れていることは明らかです。
そのため、ほとんどの空間を火薬で埋め尽くされていたため酸素がトンネル全体にいきわたらずに大爆発になったのではないかといわれています。
保管場所には密集した火薬が
実際に二又トンネルの火薬保管場所は空間がほとんどなく上の空間は2m弱、左右の幅は大体50cmほどしかあいていませんでした。
このように火薬が密になってしまった状態だと自然発火でも大爆発が起こる状態でいままで爆発しなかったのが奇跡だったのだそうです。
同日処分した吉木トンネルでは爆発は起こらなかった
また、二又トンネルを焼却処理するまえに近くにある吉木トンネルの焼却処理を行いました。吉木トンネルは火薬の量がトンネル空間に対して25%ほどだったようで、爆発は怒らずに無事処理が完了していました。
二又トンネル爆発事故後、現在は?
山1つがんくなるほどの事故だった二又トンネル爆発事故ですが現在はどうなっているのでしょうか。
山の形は真ん中から抉られたようにヘコんだ形で残っています。また二又トンネル近くの彦山駅の駅舎には爆風飛ばされた土砂の跡が現在も残っているようです。
【画像有り】現在も爆発後の山の形が残っている
上記の画像は二又トンネルが通っていた山の画像になります。
二又トンネルが通っていた山は二つに抉られたような状態で現在も残っています。爆発当時の画像は岩肌が見えている状態でしたが、現在は草場が生い茂っており、元からその形だったようにも見えます。
上記の画像は二又トンネル付近にあった橋の1つです。爆発の影響か画像では崩壊はしていないものの多少歪んでいます。現在の画像を見てみるとこの歪みは現在も残っているようです。
彦山駅の駅舎の画像、爆風被害の跡が残っている
彦山駅は現在も存在しており機能しているようです。しかし駅舎内の床には無数の穴が開いているようです。
穴が開いている原因として、爆発時に飛んできた土砂や小岩などがぶつかってできたと言われています。
爆発事故付近には慰霊碑が建てられている
爆発事故付近には被害にあった人達を想い慰霊碑が建てられています。上層部の適当な判断で起きてしまった悲劇的な事故は時が経った現在でも戒めとして残されています。
二又トンネル跡地で心霊現象?
終戦直後に300人近くが被害にあった二又トンネル爆発事故。多くの人が死ぬとは予想できなかった事故ですから、心霊現象がおきていてもおかしくはありませんが実際どうなのでしょうか。
実際は二又トンネルでは心霊現象は起きていないようで、同じ名前である岐阜県の二股トンネルの心霊スポットと勘違いしている人が多いようです。
心霊現象は現在ない模様
爆発事故後は物資が少ないながらも賢明な救助活動と、被害にあった人を納めるために慰霊碑も経っているおかげか二又トンネルでの心霊現象は目撃されていないようです。
しかし死者が多くでた場所ではあるので、夜などの遅い時間はあまり近づきたくないという声もあります。