鳴海清の生い立ちと最期!ベラミ事件で山口組会長を狙撃した理由とは? 社会

鳴海清の生い立ちと最期!ベラミ事件で山口組会長を狙撃した理由とは?

日本最大のヤクザ組織・山口組。その三代目組長を襲撃したベラミ事件の実行犯が鳴海清です。彼の生い立ちと壮絶な最期・遺体、赤井英和や梅川昭美との意外な関係、息子やアパート、墓について鳴海清の生涯とベラミ事件、そしてそれを扱った映画について紹介していきます。

目次

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ベラミ事件の実行犯・鳴海清とはどんな人物だった?

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鳴海清という当時26歳であった男が起こした、三代目山口組組長の狙撃事件「ベラミ事件」。

襲撃現場となったナイトクラブの名称から名付けられたこの事件は、1970年後半のヤクザの抗争を一層激しいものとしました。まずはベラミ事件の概要と、鳴海清はどのような立場にあったのかを紹介していきます。

三代目山口組と松田組の抗争・ベラミ事件とは?

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ベラミ事件とは1978年7月11日に京都府の三条駅前にあった高級ナイトクラブ・ベラミにて、山口組三代目組長の田岡一雄が襲撃された事件のことです。

1975年時から山口組は二代目松田組と抗争を繰り広げており、この最中に命を落とした松田組系の組織・大日本正義団の会長である吉田弘芳の仇討ちとして田岡一雄は狙われました。

田岡一雄を狙った銃弾は確かに彼の首に命中したものの、奇跡的に田岡は生存。しかしベラミ事件がきっかけとなって山口組、そしてヤクザの報復の怖さは一般の民衆にまで広く知られるようになったのです。

実行犯・鳴海清は二代目松田組系大日本正義団組員だった

日本最大のヤクザ組織・山口組のトップを襲撃し、殺害寸前まで持ち込んだのはベラミ事件結構当時まだ26歳であった鳴海清という男でした。

鳴海清は二代目松田組系の大日本正義団の組員であり、役職も無い組員であった彼が凶行に走った動機は山口組との抗争で命を落とした吉田弘芳への忠心であったとされます。

ヤクザ者には違いないのですが、組長のために大きな勢力に立ち向かっていった鳴海清の侠気は彼の死後も多くの人を魅了し、映画や小説といった作品のモデルにもなったのです。

鳴海清の生い立ちとは?

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ベラミ事件の後に若くして死を迎えたものの、未だに伝説の任侠の1人として根強い人気を持つ鳴海清。彼はどのような生い立ちだったのでしょうか?大日本正義団に加わるまでの鳴海清の生い立ちを見ていきましょう。

1952年・大衆食堂を営む一家に生まれる

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鳴海清は1952年8月15日に大阪市西成区に生まれました。両親は「なるみ」という労働者をターゲットにした大衆食堂を営んでおり、鳴海清はその家の5人兄弟の真ん中。

取り立てて裕福ではないものの貧しいわけでもない家庭で育ち、小学校は新今宮小学校に通っていたといいます。

中学卒業後・印刷会社に務める

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中学校時代には万引で2度補導されていたという鳴海清ですが、卒業後は東大阪にある印刷会社に就職をしていました。

中学校卒業後に進学ではなく就職を選ぶのも珍しくない時代であったため、この時点では少し問題行動はあったものの鳴海清は普通の青年であったと考えられます。

17歳の時に傷害致死事件を起こして少年院へ

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印刷会社に勤めた後しばらくは普通に働いていた鳴海清でしたが、17歳の時に西成区の飲食店で他の客と口論になった末に相手を暴行。その末に殺害するという事件を起こしてしまいます。

傷害致死事件を起こしたことで鳴海清は当然逮捕されて少年院へ。この事件で浪速少年院に1年半の間収監されていたとされます。

少年院出所後・大日本正義団組員に

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浪速少年院での刑期を終えた後の鳴海清は、しばらく土木作業員の職などを転々としていましたが、そのうち賭場に入り浸るようになり、アウトローの世界との接点を増やしていきました。

そして19歳の頃に大日本正義団の組員となったのです。

一時期はカタギに?食堂を営んでいた

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少年院を出た後、鳴海清はある女性と結婚をしました。この頃の鳴海清の実家は両親も兄弟も家を離れてしまっており、もぬけの殻の状態であったといいます。

そのため鳴海清は妻とともに元実家の店「なるみ」を改装して「御食事処なるみ」を開業。食堂経営に乗り出しましたが軌道に乗らず、開店から2年ほどで店をたたんでいます。

鳴海清がベラミ事件を起こした背景

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鳴海清がベラミ事件を起こした背景には、1975年から1978年までの間に渡って繰り広げられた山口組と二代目松田組による大規模な抗争がありました。

ここでは「大阪戦争」と呼ばれたヤクザ間の抗争を時系列で説明するとともに、その中で鳴海清がなぜ山口組組長銃撃という思い切った行動に出たのかについて紹介していきます。

1975年・三代目山口組と松田組の間で大阪戦争が始まる

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1975年7月26日から大阪周辺を舞台に三代目山口組と二代目松田組は抗争を開始していました。

きっかけとなったのは松田組系の溝口組と山口組系の佐々木組の間で起きたトラブルだったのですが、これが火種となって山口組対松田組という親同士の争いに発展。

双方の組は和解する動きを見せつつも抗争をやめず、大阪戦争と呼ばれた争いは1978年11月1日まで続いたのでした。

抗争のきっかけは「ジュテーム事件」というトラブルだった

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1976年7月26日、豊中市にあったジュテームという喫茶店で松田組系溝口組の幹部と顔を合わせていた山口組系の佐々木組の組員3名が、溝口組の人間に殺害されるという事件が起こりました。

ジュテーム事件と呼ばれるこの事件の原因となったのは、賭場で佐々木組系の組員が溝口組に嫌がらせをしたことだとされます。

この事件の後、佐々木組と溝口組は1度は和解する流れになったものの決裂し、やがて抗争は親同士の大規模なものへと発展していったのです。

鳴海清も松田組傘下だったため抗争に関係

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鳴海清が19歳の時に加わった大日本正義団は、溝口組と同じ二代目松田組を親に持つ組織でした。そのため抗争が激化すると大日本正義団も無関係ではいられず、鳴海清も松田組のために戦う必要がありました。

当時の山口組は1950年代から警察が開始していた第一次頂上作戦を受けて弱体化していたとされますが、それでも傘下の組員は1万1000人を越していたといいます。

それに対して松田組傘下の組員は500人程度であったそうです。圧倒的な数の差がある以上、松田組が傘下の組員総動員で大阪戦争にあたっていたのは想像に難くないでしょう。

当時の鳴海清はまだ半グレ状態だった

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ジュテーム事件が起きた前後、鳴海清はまだ正式な大日本正義団の組員ではなくヤクザの周囲をうろついている半グレのような立場でした。

そして大阪戦争が始まった頃に大日本正義団に入っているのですが、当時の鳴海清は大日本正義団の組長に「拾われる」形で極道になったのかもしれません。

この後の鳴海清の自滅とも言える行動の動機となっていたのは、大日本正義団の組長・吉田弘芳への忠誠心だったのです。

1976年10月「日本橋事件」が起こる

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1976年10月3日、大阪市の日本橋筋商店街で大日本正義団の組長であった吉田弘芳が佐々木組の組員に殺害されるという事件が起こりました。

日本橋事件と呼ばれるこの射殺事件は、同年7月に起きたジュテーム事件の報復とされています。そしてこの事件こそが鳴海清がベラミ事件を起こす直接の原因となったのです。

鳴海清は日本橋事件の被害者・吉田会長の運転手だった

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日本橋事件は吉田弘芳が車に乗り込もうとした僅かな隙に発生した事件でした。

そしてこの当時、鳴海清は組長である吉田弘芳の運転手をしていたのですが、奇しくも事件発生その日は交通事故での怪我が原因で出勤しておらず、自宅アパートで療養していたのです。

恩義のある組長の盾となれたかもしれないのに、殺害現場にさえいなかった。そのことは鳴海清を追い詰め、「会長の仇は俺がとってやる」というのが彼の口癖になっていきました。

会長の仇討ちに「京都ベラミ事件」を企てる

日本橋事件の後、山口組サイドはすぐに松田組から報復があるものと睨んでいました。しかし松田組にも組長を失った大日本正義団にも動きはなく、1年近い月日が流れていきます。

ところがこの間、大日本正義団と鳴海清は何もしていなかったわけではなく、水面下で前組長・吉田弘芳の仇討ちの計画を企てていたのです。

下調べのためにベラミの近くにアパートを借りていた

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第三代山口組組長の田岡一雄が京都市のナイトクラブ「ベラミ」を行きつけにしているという情報を掴んだ鳴海清は、ベラミの近くにアパートを借りて田岡の動向を探るようになったといいます。

そして田岡一雄が来店する日と狙撃するポイントやタイミングを入念に探っていったのでした。

1978年7月京都のクラブ「ベラミ」で山口組三代目組長を狙撃

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そして1978年7月3日の夜、鳴海清は遂に行動に出たのです。6人の部下とともにベラミでのショーを楽しんでいる隙をついて、田岡一雄を狙撃。

鳴海清はかねてから赤穂浪士の討ち入りに1年9ヶ月かかったことを話に出しており、浪士達に自分を重ねる様子が見られたと言われています。

鳴海清の放った弾丸は田岡組長の首に命中

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鳴海清が撃った弾丸は田岡一雄の首に命中。更に流れ弾が無関係な客2名にあたり、店内は騒然となりました。この様子は事件当日の23時のニュースでも流されたといいます。

ベラミ事件の日、家を出ていく鳴海清は妻に「2日戻らなかったら、ニュースを見ろ。俺になにかあったら再婚して良い。ただ、次の旦那にヤクザは選ぶな」と言い残していたそうです。

「手応えあった」大日本正義団2代目会長に連絡

鳴海清はベラミ事件を起こした後、遅れてベラミに到着した大日本正義団の2代目組長となった吉田芳幸に店の前で会って「手応えはあった」と報告していました。

確かに鳴海清の狙撃は成功していたのです。しかし獲ったと思った田岡一雄の首は、まさに首の皮1枚のところで繋がっていたのでした。

田岡組長は奇跡的に生存・狙撃は失敗

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首を撃たれたのにも関わらず、病院に担ぎ込まれた田岡一雄は奇跡的に生存。ベラミ事件の後に鳴海清は京阪電鉄に乗ってそのまま姿をくらましていました。

しかし事件現場に残された指紋から容疑者として鳴海清が浮かび、警察、そして山口組が血眼になって鳴海清を探し出したのです。

特にトップが狙撃された山口組の執念は凄まじく、「警察より先に鳴海を見つけて、落とし前をつけろ」という号令の下、山口組と松田組の抗争も一層の激しさを見せていきました。

鳴海清の最期!遺体の状態は?

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ベラミ事件の後、現場から立ち去ることに成功した鳴海清。しかし、その僅か3ヶ月後に六甲山で凄惨な遺体となって鳴海清は発見されることとなります。

誰が鳴海清を殺害したのか、その衝撃的な最期について紹介していきます。

1978年9月・六甲山中で鳴海清の遺体が発見される

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1978年9月17日、ベラミ事件から3ヶ月近くがたった頃に六甲山中にある端宝寺谷で男性の腐乱したいが発見されました。

遺体は下着をつけていないパジャマ姿で、腐敗が進んでいたことから指紋がとれず、身元を知ることも困難な状態でした。

しかし遺体の所持品やある身体的特徴からこれが鳴海清のものと断定され、後に彼の妻からも「間違いない」との証言を得たのです。

遺体は腐乱していたが背中の「天女の刺青」で鳴海清と断定

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腐敗していた遺体の背中には、一面に天女の刺青が入っていました。これは鳴海清が極道になった時に入れたもので、赤外線を当てることでようやく確認できた天女の刺青が、遺体の身元確定の一因となったのです。

鳴海清の遺体には凄惨なリンチの跡があった

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鳴海清の遺体は夏場に遺棄されたことによる腐敗以外にも、大きな損傷と刺し傷が見られました。遺体の手足の爪は剥がされ、歯も折られ、性器も切り取られた状態であったといいます。

これは明らかに生前に暴行を受けたことの結果だと考えられましたが、一体誰がここまで凄惨なリンチをしたのか、警察は鳴海清殺害の犯人の捜査に乗り出しました。

鳴海清殺害の犯人・松田組系の組員5人逮捕

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凄惨な最期から鳴海清は山口組の報復を受けて死んだものと思われましたが、事件は意外な展開を見せました。鳴海清殺害の容疑者として、大日本正義団と同じく松田組傘下の忠誠会の組員が逮捕されたのです。

鳴海清はベラミ事件の後、兵庫にある忠誠会に匿われていましたが、山口組の襲撃を恐れた組員らが鳴海清を殺害。そして遺体を六甲山に遺棄したというのが警察の発表でした。

なぜ同じ松田組の組員が?殺害の動機は?

 

厄介払いが目的であったのなら、殺害する前に執拗なリンチを加える必要はなかったはず。このことから、現在でも本当に鳴海清を殺したのは誰なのか?疑問を持つ人も少なくありません。

忠誠会に匿われている間、鳴海清は大人しくしていることができずに山口組を揶揄する怪文書をマスコミに送りつけていました。

このことが原因で松田組傘下の組織に危害が及ぶことも多く、忠誠会及び松田組傘下の組の中には、鳴海清に激しい憎しみを感じた者も少なくなかったのではないか?とも考察されています。

食い違う鳴海清殺害容疑者の供述

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取り調べや裁判において鳴海清の殺害で逮捕された忠誠会の5人の組員の供述は食い違うことが多く、殺害を自供したのも逮捕されたうちの3人だけだったといいます。

裁判は最終的に1990年1月28日まで続き、大阪高裁は「警察の作為や自供への誘導が認められる」「客観性に乏しい」として、罪を自供した3人に対しても殺人については無罪を言い渡しています。

そして結局、誰が鳴海清を殺害したのかはわからないまま裁判も終了したのでした。

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