八鹿高校事件の概要!解放同盟=暴力集団?部落差別が原因?真相は?社会

八鹿高校事件の概要!解放同盟=暴力集団?部落差別が原因?真相は?

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このことから、職員会議が開かれ22日の授業は中止して教職員たちは集団下校することにし、年休届を出して生徒に今日は授業はないと告げ、三列縦隊スクラムを組んで集団下校を開始しました。

それに対し、解放同盟側は教職員の集団下校を止めようとしましたが教職員は止まろうとしませんでした。この時、校長や教育委員会、育友会関係者等も教職員を止めようとしたものの止まらなかったそうです。

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我慢できなかった部落解放同盟側は教職員たちを暴力混じりで校内に連れ戻し、糾弾をしました。それでも教員たちは聞き入れることをしませんでした。そのため部落解放同盟側が暴力を振るいました。

こうして教職員側には負傷者が出て刑事事件へと発展しました。その後生徒を先頭に開かれた大規模な町民抗議集会には18000人もが参加し、教職員側が支持されました。

事件の発端は部落生徒との交際を生徒の父親が反対したこと

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そもそも八鹿高校事件でこれほどまでに、高校の教職員側と部落解放同盟側の対立が深まってしまった原因は、なんだったのでしょうか?きっかけは1974年1月の兵庫県幹部職員の言動でした。

この幹部職員は同和行政を推進する立場だったのにもかかわらず、自分の息子が部落出身の女子生徒と交際していることを知り、女子生徒とは交際を辞めるよう説得しました。

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幹部職員は「同和行政を口に唱えても本当にそれをやる人はいない。」などと文書に書いていました。この問題の後、隣町の生野高校の女子生徒が部落を理由に交際を断ち切られ、自殺する事件がありました。

これにより、兵庫県但馬地方の部落が立ち上がり、その影響は子供たちにも広がって行きました。

部落開放研究会の結成

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部落が立ち上がり、各地で部落解放同盟が結成されていきました。このような流れの中で、八鹿高校でも部落の生徒たちにより部落解放研究会が結成されようとしていました。

しかしながら、八鹿高校での部落解放研究会の結成は教師たちにより認められませんでした。半年間話し合いすらなされず、生徒たちには不満が広がって行きました。

開放研の生徒が職員室前に座り込み・ハンストを開始

とうとう耐えかねた生徒たちは、話し合いを求めて職員室前に座り込みを始めました。11月18日のことです。そのことを知った保護者や部落の人々は教師に抗議しました。

しかし、教職員側は頑なに聞き入れず集団登下校を開始しました。11月20日には旅館に集団宿泊まで開始します。11月21日から、生徒は何も食べず学校に泊まり込むハンストを開始しました。

1974年11月22日、教師が集団下校するも連れ戻される

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こうして11月22日、ついに事件は起こりました。教師たちは集団宿泊をしている旅館から集団登校をし、学校に来ました。職員室前には、前日からハンストをしている生徒がいます。

年休届を出した教職員は生徒たちに授業はないと伝え、3列縦隊になってスクラムを組んで下校します。こうして事件へと発展しました。

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