朱里エイコの死因は急死で虚血性心不全?病気での入院や旦那について タレント

朱里エイコの死因は急死で虚血性心不全?病気での入院や旦那について

『北国行きで』で知られ、アメリカでも評価を獲得していた朱里エイコさん。2004年に急死、死因は心不全でしたが、生前から鬱病や肝臓病を発症するなど病気が多く、マネージャーだった元旦那に支えられながらの歌手活動でした。朱里エイコさんの死因や経歴を紹介していきます。

目次

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朱里エイコの死因は?虚血性心不全による急死だった?

2004年7月、朱里エイコさんが享年56歳で急死しました。死因は虚血性心不全で、自宅にいた際に発症したとのことです。

これまでも肝臓病や鬱病など数々の病気に苦しめられながら、活動を続けてきた朱里エイコさん。彼女の早すぎる死には悲しみの声があがりました。

ここでは、朱里エイコさんの死因となった虚血性心不全について紹介していきます。

朱里エイコは2004年、享年56才で死去

20047月31日、「リトル・ダイナマイト」と呼ばれる程のパワフルな歌声の持ち主であった朱里エイコさんが、56歳で亡くなりました。

まだ現役で十分活動ができる若さであったこと、そして70年代を代表する大スターであった彼女が静かに、ひっそりと東京都足立区竹ノ塚にある自宅で息を引き取っていたことも話題を集めました。

朱里エイコの死因は虚血性心不全だった?

朱里エイコさんの死因は虚血性心不全で、急死でした。朱里エイコさんが最後にメディアに登場したのは2003年5月のことで、『超豪華!!壮絶大追跡!!あの人は今!!』という番組に出演していました。

虚血性心不全とは?

朱里エイコさんの死因となった虚血性心不全とは、コレステロールなどが原因で血管の幅が狭くなり、十分な血液が全身に行き渡らなない、血栓ができてしまうといった原因で発症する病気です。

血液の流れが滞ることで心臓にも十分な酸素が運ばれなくなり、この状態を「虚血」と呼ぶのですが、完全に血管が詰まり、その原因となっている塊(プラーク)が破裂することで心筋が壊死してしまう恐れがあります。

そして壊死が広範にわたるとショック状態に陥ってしまい、不整脈を起こして急死に繋がる危険性もあるのです。

虚血性心不全の原因は?

SparrowsHome / Pixabay

急性心不全の原因としては、高血圧や、高脂血症、糖尿病などの生活習慣病が挙げられます。さらに喫煙や運動不足、ストレス、肥満といった要因が加わると、発症のリスクは一段と高まります。

朱里エイコの死去に、惜しい人をなくしたという声が続出

1970年代にはグルーヴ感溢れるパフォーマンスと歌声、そして美貌で世間に衝撃を与えた朱里エイコさん。彼女の早すぎる、そして急すぎる死にはファンから多くの追悼のコメントが寄せられました。

また歌の上手い人がこの世を去ったか……。
合掌……。

(引用:2ちゃんねる)

また、朱里エイコさんのようにパワーのある歌声を持った歌手は今後現れないだろうと嘆く声もあがっています。

日本ではなくアメリカで活躍された方だなぁという名曲!朱里エイコさんの生涯はとてもドラマチックだけど、ドラマ化とかはされていないのかな?黒木メイサさんとかはまりそうな気がするけれど…

(引用:Twitter)

後に詳しく紹介していきますが、朱里エイコさんは生前も数多くの苦労とトラブルに見舞われた方でした。このことに思いを馳せ、歌と共に彼女の存在を次の世代に伝えて欲しいとのコメントも寄せられています。

朱里エイコは以前から病気を患っていた?

朱里エイコさんの死因は虚血性心不全でしたが、その前から鬱病や肝臓病を患っており、生死が危ぶまれるような状態まで病気が悪化したことさえありました。

また、生前は失踪事件を起こすこともあり「お騒がせスター」と紹介されることもあったのですが、朱里エイコさんが失踪をした背景には何があったのでしょうか?

朱里エイコさんを苦しめた病気と歌手活動について見ていきましょう。

人気絶頂期から度々失踪事件を起こしていた朱里エイコ

1973年2月、前年にリリースした『北国行きで』が大ヒットし、人気絶頂であった朱里エイコさんは「朱里エイコ・リサイタル」の楽屋から突如姿を消すという失踪事件を起こしています。

コンサートの最中に姿を消すという衝撃的な失踪劇は僅か22時間で幕を閉じましたが、この後も心身の状態の悪さから3度に及ぶ失踪を起こしており、「お騒がせスター」として知られるようになってしまいました。

音楽活動に悩んでうつ病状態に

朱里エイコさんが『北国行きで』を発表した1970年代、日本の音楽業界ではアイドルブームが起きていました。

歌唱力や純粋な楽曲の良さよりも見映えの方が持て囃される時代であったことから、自分の目指すものと求められるものの間に隔たりを感じた朱里エイコさんは悩むことが多くなったそうです。

いくら歌唱力が高くても飽きられれば日本では評価されなくなる、こう考えるようになった朱里エイコさんは鬱病に陥り、薬を飲みながら歌手活動を続けていました。

名古屋で3度目の失踪事件を起こした後、入院へ

朱里エイコさんは創価学会の信徒でした。入信は実母からの勧めだったそうですが、1980年代に入ると学会芸能部との間に軋轢が生じるように。

さらに事務所の独立問題も相まって、1983年6月6日には3度目の失踪を起こしています。この失踪も名古屋の「ダンシング・ダン」というレストランシアターで、ステージを行っていた最中のことでした。

「外国に行ってしまいたくなった」と、朱里エイコさんは失踪理由を語ったと言いますが、発見された時の彼女は「(自分の)歌手人生ももう終わりかしらね」と呟いていたそうです。

活動を再開するも、薬の飲み合わせが原因でパニック状態に

1984年3月、東京・赤坂の「コルドンブルー」というレストラン・シアターで1ヶ月に渡るショーを開催することになった朱里エイコさん。

チケットは完売で多くのファンが彼女の歌を待っていましたが、ショーの開始から1週間たった時、彼女がステージに現れずに騒動が起きました。

医者から処方されていた精神安定剤と差し入れられた栄養ドリンクによりオーバードーズ状態を起こした朱里エイコさんは自宅でパニック状態に陥っており、このドタキャンで遂に完全に人気は失墜してしまいました。

その後、肝臓病になり5年にわたる入院生活を強いられた

3度目の失踪で歌手として活動の存続が危ぶまれるようになった朱里エイコさんでしたが、同じ頃から肝臓病を発症し、苦しむようになっていきます。

闘病は5年にも及び、完全に芸能界の一線からは身を引くようになりました。

1987年ごろからはマイペースに活動を再開していた

上記の理由で朱里エイコさんは長らく人前から姿を消してアメリカに渡っていましたが、1987年には『すべてあなたに』をリリースし、少しずつ歌手活動を再開させていきました。

小規模ではあるもののステージにも立つようになり、TVにも姿を見せるように。彼女の歌を聴くために会場に足を運ぶ熱心なファンも、少なくなかったと言います。

朱里エイコは闘病時、マネージャーの旦那に支えられていた!

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朱里エイコさんが1度目の失踪をした際、なぜ彼女が上演中のコンサートの会場から姿を消したのか、その原因は明かされませんでした。

しかし一説には、当時彼女がマネージャーの渥美隆郎氏と交際をしており、結婚も考えていたにも関わらず周囲からの理解を得られなかったことへの反抗だったのでは?と囁かれています。

日本の芸能界では前例がなかったために大きな話題、そして心ない批判も集めてしまった、朱里エイコさんとマネージャー兼元旦那の渥美隆郎氏の関係について紹介していきます。

朱里エイコの旦那はマネージャーの渥美隆郎

朱里エイコさんは生涯で一度だけ結婚をしていたことがあり、その相手が彼女のマネージャーでもあった渥美隆郎氏でした。

朱里エイコさんが浮き沈みの激しい歌手人生を送る中、公私に渡って彼女を支え続けたのが渥美隆郎氏だと言われています。

1972年、朱里エイコは渥美隆郎と失踪事件を起こしていた

1972年、「朱里エイコ・リサイタル」の最中に楽屋から逃げ出した朱里エイコさん。22時間後に発見された彼女は2月15日と16日の2回に分けて謝罪・釈明会見を開きました。

しかしその場で取り沙汰されたのは、なぜ朱里エイコさんがファンを残したまま姿を消したか?ではなく、マネージャーである渥美隆郎氏と交際しているとの噂の真偽についてでした。

会見に同席した渥美隆郎氏に対し、「売り出し中の歌手に手を出したのか?」「公私混同も甚だしいのでは?」と批判の声が集中したのです。

1974年に2人は結婚するも、1978年に協議離婚

バッシングを受けたものの、朱里エイコさんと渥美隆郎氏は1974年1月にロサンゼルスで近親者だけを招いて挙式。

しかし朱里エイコさんがアメリカでの活動に興味を見せるようになると、夫婦の間ですれ違いが増え、別居や離婚が囁かれるようになりました。

そして1978年9月に朱里エイコさんが帰国した際に離婚についての話し合いが行われ、翌10月には協議離婚が成立したのです。

朱里エイコはその後も渥美隆郎と持ちつ持たれつの関係だった

離婚前から別の事務所で仕事をしていた朱里エイコさんと渥美隆郎氏でしたが、1982年5月頃からは再び彼女のマネージャーを渥美隆郎氏が務めていました。

そしてワールド・マネージメントという会社を立ち上げた渥美隆郎氏は彼女を所属タレントとし、公私に渡って朱里エイコさんをサポートし続けていったのです。

朱里エイコが肝臓病を患った際には元旦那の渥美隆郎が支えていた

朱里エイコさんが3度目の失踪をした時に彼女を成田空港で発見したのも、渥美隆郎氏でした。

そして肝臓病で生死を彷徨った際にも、渥美隆郎氏が傍について朱里エイコさんを支えたと言われています。彼女がスターではなくなった後も、一番近くで支えていたのです。

朱里エイコの逸話がすごい?

Pexels / Pixabay

アメリカでお評価された歌声が語り継がれている朱里エイコさんですが、自分の脚に日本円で1億を超える保険をかけていたことも有名です。ここでは朱里エイコさんの歌声以外の逸話について紹介していきます。

朱里エイコの足は100万ドルの保険をかけた脚線美!

自分の脚に100万ドルもの保険をかけていたという朱里エイコさん。マイクロミニのスカートで踊る彼女の姿に釘付けになったのは男性だけではなく、女性達もその健康的な色気に憧れたと言います。

朱里エイコさんの脚がどのくらい綺麗だったのかについては、向田邦子氏脚本のドラマ『寺内貫太郎一家』でも話題にされており、当時彼女の脚がいかに注目を集めていたのかが窺えます。

朱里エイコはリンゴ・スターに食事に誘われたこともある?

朱里エイコさんはラスベガスでステージに立っていた際、偶然そのショーを見ていたリンゴ・スター氏に気に入られ、終演後に食事に行かないかと誘われたことがあるのだそうです。

しかし当時の朱里エイコさんは深く考えずに断ってしまったそうで、後に「私もオノ・ヨーコになれたのかもね」と語っていました。

朱里エイコの代表的な楽曲は?

大々的に活動をしていた時期が短かった朱里エイコさんですが、80万枚を超すヒットとなった『北国行きで』をはじめ、印象的な楽曲をいくつも残してきました。

ここでは『北国行きで』『ジェット最終便』『ジョーのダイヤモンド』といった朱里エイコさんの代表曲を動画付きで紹介していきます。

大ヒット曲「北国行きで」

1972年1月にリリースされた『北国行きで』。この曲で初めて朱里エイコさんは紅白歌合戦への出場も果たし、一気に知名度を高めました。

この曲は徳永英明さんがカバーしたことでも知られており、当時は歌唱力だけではなく彼女のファッションにも注目が集まりました。

NEXT:1973年発表の「ジェット最終便」
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