
橋本真也の死因は脳幹出血で急死?ゼロワン崩壊の負債や息子・妻
プロレスラーの橋本真也は脳幹出血で急死しましたが、もともと心房細動を持っていて、死因は睡眠時無呼吸症候群も関係しているようです。葬儀は多くのプロレス関係者が集まり、離婚していたため喪主は妹が務めました。橋本真也の死因やZERO―ONEについて紹介します。
目次
[表示]橋本真也の死因は脳幹出血!急死だった?
プロレスラーだった橋本真也さんは、2005年に脳幹出血による突然死を遂げていますが、関係者や多くのファンに衝撃が走りました。
そんな橋本真也さんが死亡した理由や当時の様子などを紹介します。
橋本真也は急死?2005年に享年40歳で亡くなった
2005年7月12日のデイリースポーツによると、人気プロレスラーの橋本真也さんが7月11日の午前10時36分に横浜市内の総合医療センターで亡くなったことを報道しました。
年齢は当時まだ40歳で、多くのファンやプロレス関係者から惜しまれる死でした。
橋本真也の死因は「脳幹出血」
破壊王との異名をもつ橋本真也さんは、40歳という若さで惜しまれつつ亡くなってしましましたが、橋本真也さんの代理人の発表では死因は「脳幹出血」でした。
橋本真也は突然倒れて病院へ
橋本真也さんは、7月11日の朝、横浜市内で倒れ、救急車で同病院に運ばれましたが、その時すでに心肺停止状態で、間もなく死亡が確認されたそうです。
橋本真也さんは、その年の秋にフリーとしてリングに復帰することを目指していたそうですから、無念の死となりました。
この橋本真也さんの死という、現役人気プロレスラーの訃報に対し、あまりの突然のことでプロレス界に激震が走りました。
橋本真也は母親も脳出血で亡くなっていた
橋本真也さんには、真生さんという妹がいますが、真生さんは岐阜県から会見に出席し、「母親が脳出血で亡くなっていて、橋本真也さん自身も気にしていた」と体調に不安を持っていたことを明かしました。
蝶野正洋は橋本真也から体調が悪いことを聞いていた?
同じプロレスラーであり、闘魂三銃士の盟友でもある蝶野正洋さんは、「先週、本人から体調が悪いと聞かされた。心臓が悪いとも言っていた」と証言しています。
橋本真也さんは自身の体調が悪かったことを、他のプロレスラーにも漏らしていたそうですが、橋本真也さんが弱音を吐くくらいですから、かなり深刻な状態だったことがうかがえます。
また、当時新日本プロレス相談役の坂口征二さんは10月の東京ドーム大会に橋本真也さんの名前が挙がっていたし、復帰戦を新日本でやってほしかったと悔しがっていました。
橋本真也の死因には心房細動を患っていたことが影響?
ネットでの情報では橋本真也さんの死について、長嶋茂雄さんと同じで橋本さんは心房細動を患っていたといいます。
心房細動を持っていると、心臓の中に血栓ができて、これが他の臓器や脳に飛んで動脈をふさぎ塞栓症を起こすといいます。
心房細動のある人は、塞栓症予防にワーファリンという血液凝固抑制剤を飲むそうですが、そのことで体内の出血を起こしやすくなるといいます。橋本真也さんもこのワーファリンを飲んでいたようです。
睡眠時無呼吸症候群も遠因だった?
橋本真也さんは、睡眠時無呼吸症候群だったそうですが、この睡眠時無呼吸症候群が遠因で、脳幹出血を起こしたのではないかともいわれています。
暴飲暴食が原因だったと考える人も
橋本真也さんは、精神的ストレスもあったようですが、結局は暴飲暴食が亡くなった主因だったのではないかといいうネットの意見もあります。
橋本真也さんの死因と、その肥満気味の体型とは無関係とはいえないかもしれません。
橋本真也はプロレスをしてはいけなかった?
橋本真也さんは、40歳という若さで亡くなっていますが、その頃すでにプロレスができる身体ではなかったというネット上の意見もあります。
橋本真也さんは、晩年は小川直也選手との試合で「STO」を何度も食らっていますが、そのダメージは相当なもので、「STO」によって命を縮めたという説もあります。
また、血圧も慢性的に高く、長年の不摂生もあった上に、過度の肥満もあって命を縮めたようです。塞栓症予防のワーファリンの影響もあって、定期的にバケツ一杯ほどの鼻血を流していたともいわれています。
橋本真也の死を多くの人が悲しんだ
橋本真也さんの死については、本人の不摂生もあって仕方ない面もありますが、その死には、多くの人の悲しみの声が上がっています。
橋本真也さんの訃報のあと、1週間くらい立ち直れない気がするといったネット上のコメントもありました。また「とてもショックです。ご冥福をお祈りします」といった書き込みもありました。
橋本真也は死の直前までZERO-ONE崩壊で苦労していた
橋本真也さんは、死の直前まで、プロレス団体ZERO-ONEの崩壊で悩んでいたといわれていますが、その詳細を見ていきます。
橋本真也はZERO-ONE崩壊で1億円超の負債を抱えていた!
橋本真也さんは、2000年11月にZERO-ONEを設立し、完全独立を果たしました。
しかし、2004年に団体の経営方針や内部との確執で、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、1億円を超える負債を全て橋本真也さんが被ることとなりました。
橋本真也は新しい会社を作ろうとしていた?
プロレス関係者の中村祥之さんのインタビュー記事によると、中村さんは、橋本真也さんが有限会社ZERO-ONEを閉じて、新しい会社を作ることを知っていたそうです。
選手たちは橋本真也についていかなかった
橋本真也さんは、ZERO-ONEを閉じて、新しい会社を作ろうとしたようですが、選手は当時の橋本真也さんの様子を見て、ついていかなかったと中村祥之さんは語っています。
中村祥之と残った仲間たちで新団体を旗揚げ
そして、橋本真也さんにはついていかなかった選手たちと中村祥之さんとで、新団体ZERO1MAXを旗揚げしています。
橋本真也はゼロワンを解散へ
2000年に結成された団体ZERO-ONEは、1億円以上の負債を抱えたまま、2004年の11月25日に解散することとなりました。
ZERO-ONEの崩壊と1億円以上の負債は、橋本真也さんにとってかなりの打撃であり、ストレスの元になったのではないでしょうか。
このことは自身の体調不良と重なって、橋本真也さんの心身に影響を与えた可能性は高いようです。
橋本真也は右肩を治療しながら復帰を目指していた?
ZERO-ONEの崩壊後、橋本真也さんは長期間放置していた右肩の手術をし、リハビリを受けながら復帰を目指していました。
しかし、その復帰は叶わぬまま亡くなってしまいました。
橋本真也は当時、冬木弘道の妻の中村薫と交際していた?
中村祥之さんの話では、当時同じプロレスラーだった冬木弘道さんの妻である中村薫さんと交際していたということです。
橋本真也さんは、分かりやすい人だったようで、そのことは周囲にも分かっていたといいます。
橋本真也は死去の前に離婚していた
橋本真也さんの代理人の話では、橋本さんは亡くなった年の3月25日にすでに離婚していたことを明かしました。
そのため、橋本真也さんの喪主には妹である真生さんが務めました。
橋本真也の葬儀の様子は?最後の試合・番組出演は?
橋本真也さんの葬儀の様子や、最後の試合はどうだったのかなどを紹介します。
橋本真也の葬儀には大勢の人が参加
人気プロレスラーだった橋本真也さんの葬儀は、2005年7月16日に行われ、団体の垣根を超えて、大勢のプロレスラーや各界の著名人、そして一般のファンたち1万人以上が参列しました。
橋本真也が離婚していたため喪主は妹に
橋本真也さんの葬儀の喪主は、本人が離婚していたため、妹の真生さんが務めました。
橋本真也の出棺時には橋本の入場曲「爆勝宣言」が流された
選手時代の橋本真也さんの入場曲である「爆勝宣言」が出棺の時に流され、参列者からは数千本の赤い紙テープが投げられ、ハシモトコールの大声援で送り出されました。
橋本真也の最後の試合はタッグマッチ!
橋本真也さんが選手として最後に行った試合は、NWAインターコンチネンタルダッグ王座防衛戦で藤原喜明さんとのタッグでした。
その試合では、キングコブラホールドによって、大谷晋二郎と大森隆男組に敗れています。
橋本真也の最後のバラエティ出演はロンドンハーツ
橋本真也さんが最後に出演したバラエティ番組は「ロンドンハーツ」でした。橋本真也さんは自身のテーマソング「爆勝宣言」にのって西口プロレスのリングに上がっています。
しかし、放送前に本人が亡くなったことで、スタッフは放送中止を検討していましたが、遺族や関係者から、本人が放送を楽しみにしていたことを語り、橋本真也さんの供養もかねてそのまま放送されました。
橋本真也の経歴は?
橋本真也さんの学生時代から晩年までの経歴をまとめてみました。
橋本真也は学生時代に柔道を始め、新日本プロレスに入門
橋本真也さんは学生時代に柔道を始め、1984年4月に新日本プロレスに入門しましたが、入門初日に蝶野正洋さんと洗濯機の順番を巡って乱闘騒ぎになっています。
橋本真也はアントニオ猪木に憧れていた?
橋本真也さんが新日本プロレスに入門しプロレスラーになったのは、アントニオ猪木さんに憧れるようになったからのようです。