大瀧詠一の突然死の死因はリンゴ?大動脈解離(解離性動脈瘤)? タレント

大瀧詠一の突然死の死因はリンゴ?大動脈解離(解離性動脈瘤)?

2013年、大瀧詠一さんが大動脈解離(解離性動脈瘤)という病気により突然死しました。当初はその死因はリンゴによる窒息だともいわれていました。はっぴいえんどを立ち上げたり、風立ちぬ、恋するカレン、君は天然色で有名な大瀧詠一さんの死因や妻の発言も含めご紹介します。

目次

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大瀧詠一が突然死!死因は大動脈解離(解離性動脈瘤)!

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冒頭で述べました通り、今から約6年前の2013年12月30日に日本のミュージシャン、大瀧詠一さんが突然死にてこの世を去りました。公式な死因は解離性動脈瘤とのことでした。

ただし、大瀧詠一さんの死亡当初の死因は実際には謎に包まれていたようで、当時のご家族の証言では「リンゴを食べていたところのどに詰まらせた」と説明していたようです。

では、そんな大瀧詠一さんが死に至るまでに何があったのかを詳しく見ていきましょう。

2013年12月30日、大瀧詠一は自宅でリンゴを食べている時に倒れた

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先に述べた通り大瀧詠一さんは2013年12月30日に解離性動脈瘤という耐動脈解離の一種で亡くなっています。

また、大瀧詠一さんは自宅にてリンゴを食べている最中に亡くなっていたようで、当初はご家族も死因に心当たりがなかったこともあり、「リンゴをのどに詰まらせた」と思っていたようです。

大瀧詠一さん自身はこれまでに特に大病をしたわけでもなかったため、本当に突然の死を迎えたため、当時は衝撃のニュースでした。

19日の時点では元気だった?知人にメールを送っていた

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大瀧詠一さんは当月19日時点では元気だったそうで、大瀧詠一さんは19日に友人とメールでやり取りしており、その時点では元気な様子だったと語っています。

そこから間もなくして大瀧詠一さんは亡くなってしまったためにその友人も愕然としたと語っています。

この時点で大瀧詠一さんは翌年3月のラジオ番組の構想を練っている最中だったとのことでまだまだ活動を続けられる、と思った矢先の訃報でした。

亡くなる1週間前に風邪?「脳が疲れた」と妻に漏らす

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大瀧詠一さんの妻である静子さんいわく、大瀧詠一さんは亡くなる1週間前に風をひいたなどと漏らしており2日ほど寝込んでいたとのことです。

その時の大瀧詠一さんは、実際には風邪の症状は見られなかったようですが、足腰に力が入らずに、また「俺、脳が疲れたよ」などとも漏らしていました。

しかし、その2~3日後には日常生活に戻れるほどに回復して、亡くなる直前まで仕事をしていました。

アルバム「EACH TIME」の制作途中で病院には行かなかった

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この時の大瀧詠一さんはCDアルバム「EACH TIME」の30周年記念盤を制作している最中でした。

そのため「時間が惜しい」などと言い、病院に行くことをしなかったとも言われています。

心肺停止状態で病院に搬送され死去(享年65歳)

前述の通り大瀧詠一さんは自宅でリンゴを食べている最中に亡くなってしまいます。

妻の静子さんは倒れた大瀧詠一さんに応急処置を施しつつ救急車を呼び、病院に搬送しますが、搬送時には既に心肺停止状態でした。

その後搬送先の病院にて大瀧詠一さんは突然死してしまいます。享年65歳でした。

大動脈解離(解離性動脈瘤)とは?症状・治療法は?

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今回、大瀧詠一さんの死因となった大動脈解離、特に解離性動脈瘤とはどのような病気なのでしょうか?

今回の解離性動脈瘤とは大きく分ければ大動脈解離という病気であり、これは大動脈に裂け目が出来て血管が瘤のように膨らむ病気です。

この病気の死亡率は発症から24時間ならば20%程度、しかし1週間もすると死亡率は60%にまで膨れ上がります。

解離性動脈瘤になる原因は高血圧?禁煙と運動が予防に

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解離性動脈瘤の主な原因は高血圧であるといわれており、高血圧の原因となる動脈硬化にならないためには肥満にも対策が必要です。

肥満を防ぐためには適度な運動が重要で、しっかりと適切な運動を取れば肥満の対策になるだけではなく病気になりにくくなるための体力も身ににつきます。

また、動脈硬化の原因として喫煙も挙げられます。禁煙と適度な運動が解離性動脈瘤を防ぐカギだと言えるでしょう。

大瀧詠一は健康だった?当初、死因はリンゴと見られていた

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しかし、大瀧詠一さんは先に述べた通り大病もせず死亡する直近まで健康であったといいます。また、散歩やサイクリングなどの運動もこなしていました。

さらに、大瀧詠一さんは喫煙もたしなまなかったため、特に解離性動脈瘤になるような生活習慣もなかったとのことです。

そのため、大瀧詠一さんが解離性動脈瘤を発症して死亡する直前に食べていたリンゴをのどに詰まらせることによる窒息死が死因ではないのかとされていました。

関係ミュージシャンも誤解?

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このことから、当初は大瀧詠一さんは報道関係者に「リンゴを食べた直後に容体が悪化した」というような報道をされています。

その報道を見た大瀧詠一さんの関係ミュージシャンは大滝詠一さんがのどにリンゴを詰まらせたのが死因と勘違いを起こしていたようです。

SNSサービス「Facebook」において関係ミュージシャンがそういった類の書き込みを行っていたことからも大瀧詠一さんが直近まで病気の兆候を見せなかったことがわかります。

亡くなる直前の言葉は「ママ、ありがとう」

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大瀧詠一さんは結局解離性動脈瘤によって帰らぬ人となってしまいました。

大瀧詠一さんは夕方に仕事から帰った後、夕飯前にご自身でリンゴを剥いて食べようとしました。

そしてその直後大声で「ママ、ありがとう!」と叫び、妻の静子さんが驚いて振り向いたところ、すでにチアノーゼが出ていたとのことでした。

当時、看護師だった妻が応急手当をしていた

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大瀧詠一さんが倒れたとき、当時看護師をしていた妻の静子さんがすぐに救急車を呼びました。

その後、救急車の到着まで大瀧詠一さんに対して心臓マッサージ等の応急処置を施していましたが息を吹き返さなかったと静子さんは語っています。

また、静子さんは大瀧詠一さんの死亡当日に「会話したのは20分程度だった」と悲しさをにじませて語ってもいます。

大瀧詠一の死後、葬儀・お別れ会の様子は?

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こうして2013年12月30日に大瀧詠一さんは解離性動脈瘤という死因にて突然死という形で65歳を持ってこの世を去ってしまいました。

当然ながらその後に大瀧詠一さんの葬儀が執り行われ、関係者やファンとの「お別れ会」も開かれました。

ではその葬儀やお別れ会はいったいどこで、どのように執り行われたのかをご紹介していきます。

2014年1月4日、自宅の近くにある葬儀場で葬儀が行われた

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大瀧詠一さんのご葬儀は2014年1月4日に大瀧詠一さんのご自宅の付近にある葬儀場で執り行われました。

この、都内で行われた葬儀には関係者が約100名ほど参列しました。その中にはロックバンド・はっぴいえんどのメンバーも参列しました。

また、はっぴいえんどのメンバーであり長年の友でもあった松本隆さんがTwitterにて追悼をささげています。

葬儀では「夢で逢えたら」の本人歌唱バージョンが流れた

都内で行われた大瀧詠一さんのご葬儀では大瀧詠一さんご本人が作詞作曲、プロデュースまで務めた「夢で逢えたら」という曲が流れました。

この「夢で逢えたら」は歌手である吉田美奈子さんが歌唱されていることで有名な曲です。

しかしこの葬儀では「夢で逢えたら」の大瀧詠一さんご本人が歌唱したバージョンが流れました。

「はっぴいえんど」メンバーが参列!棺を抱えたことをツイッターで告白

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先に述べた通り大瀧詠一さんのご葬儀にはご自身が所属していたロックバンドである「はっぴいえんど」のメンバーが参列していました。

はっぴいえんどのメンバーは松本隆さん、鈴木茂さん、細野晴臣さんが参列しました。

また、この3名はご自身のTwitter上で大瀧詠一さんのご遺体が入った棺を3人で抱えたと語っています。

2014年3月21日、東京都港区のビルでお別れ会を行った

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また、大瀧詠一さんのご葬儀とは他に一般参列者の献花台が用意された「お別れ会」が行われました。

このお別れ会は2014年3月21日に東京・SME乃木坂ビルにて行われ、250名が参列しました。

この3月21日は大瀧詠一さんの最期のアルバムである「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもありました。

ミュージシャンからの追悼コメントも!

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大瀧詠一さんの突然死に対して、他のミュージシャンからの追悼コメントもありました。ここでは歌手の佐野元春さんの追悼コメントを掲載します。

大滝詠一さんが亡くなりました。 日本の音楽界はひとつの大きな星を失った。 でもその星は空に昇って、ちょうど北極星にように僕らを照らす存在となった。 大滝さん、ありがとう。 ご冥福をお祈りいたします。 佐野元春

(引用元:佐野元春Web-MWS)

アルバムは娘婿の坂口修と長男・大瀧詞巧が監修

大瀧詠一さんの死後、ご自身が主宰を務めていたナイアガラ・レーベルというレコードレーベルはその原盤管理を目的にご家族が継承しました。

大瀧詠一さんのアルバムはその後大瀧詠一さんの娘婿であり、音楽プロデューサーでもある坂口修さんや長男の大瀧詞巧さんが監修しています。

また、2014年12月3日に発売された大瀧詠一さんのソロアルバム「Best Always」には「夢で逢えたら」の本人歌唱バージョンが収録されています。

レコードレーベル・ナイアガラ・エンタープライズは坂口修が継承

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先に述べた通り大瀧詠一さんの主催していたレコードレーベルはご家族が継承しています。

現在ではその主催は娘婿である坂口修さんが務めているようです。ナイアガラ・エンタープライズは現在でも大瀧詠一さんの作品の原盤を管理しています。

大瀧詠一の経歴

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ここまでは大瀧詠一さんの死亡直前までの様子とその死後についてご紹介してきました。

確かに大瀧詠一さんご自身はすでに故人となって時間が経ちますが、いまなお大瀧詠一さんの作り出した作品は管理、保管が為されて現在に至るまで息づいています。

ではここでは生前の大瀧詠一さんがいったいどのような活躍をしていたのか、その経歴をご紹介致します。

1970年、バンド「はっぴいえんど」を結成!解散後はソロ活動開始

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大瀧詠一さんは幼少期にアメリカンポップスに傾倒しており、それは高校に入学してなお続き、その傾倒ぶりはレコードの買いすぎで授業料が払えなくなって高校を退学させられるほどでした。

大瀧詠一さんは1967年に製鉄会社に入社するも、3か月で退職します。その後、ロックシンガーの布谷文夫さんと出会い、バンドを結成しますが解散してしまいます。

そして1970年にロックバンド「はっぴいえんど」を結成、アルバム「はっぴぃえんど」にてデビューします。1972年に解散した後はソロ活動を始めます。

1975年、日本で初となるCM曲のレコード化を行う

大瀧詠一さんは1975年に日本では初となるCMソングのレコード化を行っています。

その楽曲とは1973年に三ツ矢サイダーのCMソングとして制作された「Cider ’73」という楽曲で、作詞は伊藤アキラさん、作曲は多羅尾伴内が手掛けています。

この「Cider ’73」は1975年5月30日にリリースされたアルバム「NIAGARA MOON」のSIDE2に収録されています。

1981年、アルバム「A LONG VACATION」がミリオンヒット!

その後大瀧詠一さんはスタジオ・アルバムの制作を続けますが売り上げは低迷しており、レコード会社からの契約破棄なども経験されています。

しかし、1981年3月21日にリリースされたスタジオ・アルバム「A LONG VACATION」がミリオンヒットします。これは大瀧詠一さん自身では初のミリオンセールス作品でもありました。

オリコンチャートでも最高2位を記録し、当時は知名度の低かった大瀧詠一さんの名を世間に知らしめる一枚にもなりました。

1997年、「幸せな結末」がドラマ主題歌に!大ヒットを記録

その後も作曲活動を続け、歌手としての活動も続けていきますが、独自の音楽理論の構築もあって1984年に歌手としての活動は休止します。

歌手活動を休止した後も作曲やプロデューサー業は続けますが、1985年の「フィヨルドの少女」以降シングルCDはしばらく出ませんでした。

そして1997年、実に12年ぶりに発表したシングル「幸せな結末」がドラマ主題歌になり、これもミリオンセラーを記録します。

松田聖子のアルバム「風立ちぬ」などをプロデュース!

大瀧詠一さんは1981年10月21日にリリースされた歌手の松田聖子さんのアルバムである「風立ちぬ」の一部をプロデュースしてもいます。

大瀧詠一さんがプロデュースしたのは「風立ちぬ」のSideAに収録されている楽曲群であり、大瀧詠一さん独特の作風が強く出ています。

また、このプロデュースにおいて大瀧詠一さんは松田聖子さんにかなり厳しく指導をしていたようですが、最終的にその完成度において松田聖子さんを称賛したそうです。

森進一「冬のリヴィエラ」、小林旭「熱き心に」など楽曲提供も

大瀧詠一さんは松田聖子さんの楽曲以外にも、森進一さんの「冬のリヴィエラ」や小林旭さんの「熱き心に」などを作曲されています。

大滝詠一さんは1980年代には演歌系のジャンルの作曲を行っていました。

また森進一さんは「冬のリヴィエラ」のことを大滝詠一さんの突然死に際し「宝物のような楽曲」とコメントされています。

2003年新曲「恋するふたり」が最後だった?

大瀧詠一さんは2000年代に入ってから昔の楽曲のリマスタリング作業や音源の復刻監修を再開し、ラジオ番組の新シリーズを始めたりといった活動を始めます。

この間大瀧詠一さんはしばらく自身のシングルを発表しませんでした。そして2003年にシングル「恋するふたり」を発表、自身が発表したシングルとしてはこれが最後になりました。

しかし、楽曲としてはその後に竹内まりやさんが発表したアルバム内の「恋のひとこと」という楽曲が最後の作品となります。

2013年、坂崎幸之助のラジオにゲスト出演

大瀧詠一さんは2013年9月20日にミュージシャンである坂崎幸之助さんがパーソナリティを務めるFM NACK5内のラジオ番組「K’s TRANSMISSION」にゲスト出演されています。

この番組内では大瀧詠一さんはいたって元気な様子をしており、それ故に周囲を驚かせた突然死だったのでしょう。

また、坂崎幸之助さんは後の2014年1月10日に同番組にて大瀧詠一さんの追悼番組を放送しています。

大瀧詠一の代表的な楽曲

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ここまで大瀧詠一さんの経歴についてご紹介してきました。伝説ともいえるミュージシャンにも苦労の時があったことがうかがえます。

ではそんな大瀧詠一さんが手掛けた楽曲の中でも特に有名な、代表的楽曲をご紹介していきます。

「君は天然色」

「君は天然色」は1981年3月21日に発売されたシングルの表題曲です。作詞は「はっぴいえんど」のメンバーでもあった松本隆さんが手掛けています。

この曲の歌詞は松本隆さんの早逝した妹をモチーフにしたとされています。

「風立ちぬ」

「風立ちぬ」は1981年10月7日にリリースされた松田聖子さんのシングル表題曲です。

作詞を松本隆さん、作曲を大瀧詠一さん、編曲を多羅尾伴内さんが手掛けています。

また、大瀧詠一さんご本人も自身のコンサートにて「一度きり」と宣言したうえでセルフカバーしています。

「恋するカレン」

「恋するカレン」は1981年6月21日に発売された大瀧詠一さん自身のシングルの表題曲です。

「君は天然色」と同じく作詞を松本隆さんが手掛けています。

また、この曲は曲自体の完成度には満足したものの、ボーカルに満足がいかずにお蔵入りの危機もあった曲だったそうです。

「熱き心に」

「熱き心に」は1985年に発売された小林旭さんのシングルレコード楽曲です。作詞は阿久悠さん、作曲を大瀧詠一さんが行っています。

大瀧詠一さんは小林旭さんの大ファンであると語っており、小林旭さんのヒット曲「さすらい」、「惜別の唄」を掛け合わせて作ったとも語っています。

また、味の素ゼネラルフーヅのタイアップ曲としても使用されていました。

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