力道山の死因の真相は?刺殺事件の経緯や医療ミス・寿司で死亡説など タレント

力道山の死因の真相は?刺殺事件の経緯や医療ミス・寿司で死亡説など

力道山は暴力団の村田勝志に殺害されました。その後病院で手術を受けるも腹膜炎で死に至ります。しかし力道山の死因には諸説あって医療ミス説や寿司酒が死因説、ショック死から闇組織による暗殺説まであります。今回は力道山刺殺事件にまつわる様々な噂を深掘りします。

目次

[表示]

力道山の死因は刺殺だった!?力道山刺殺事件の詳細は?

KELLEPICS / Pixabay

プロレスに興味がない人でも力道山という名前を聞いたことがない人はいないでしょう。それくらい昭和の日本を代表するプロレスラーでした。外国人レスラーを倒し戦争で傷ついた日本人に勇気を与えたのです。

そんな力道山でしたが、ある日暴力団員の村田勝志という男とのトラブルによって突然の死を迎えます。それが「力道山刺殺事件」です。大スターの死は当時のテレビや新聞で大きく報道されました。

力道山は1963年、39才の若さで亡くなった

力道山が突然の死を遂げたのは1963年12月のことです。冬の夜の出来事でした。1963年といえば翌年に迫った東京オリンピックに向けて日本中が盛り上がりを見せていた年です。満39歳という若さでした。

日本中を熱く興奮させたプロレスターの死は多くの日本人の心に衝撃と悲しみを残しました。

力道山の死因は?暴力団の組員・村田勝志に殺された!

当時のメディア情報によると、力道山の死因は刺殺とされています。力道山を刺し殺した相手の名前は村田勝志という人物で、住吉組の傘下にある大日本興業の構成員でした。

村田勝志は学生時代から「カミソリ」と呼ばれるほど素行が悪く周りからも危険人物としてみなれる存在でした。

力道山刺殺事件の概要は?

村田勝志が力道山を刺したのは1963年12月のことです。ナイトクラブで力道山に因縁をつけられ喧嘩になった際、持っていたナイフで力道山を刺しました。

その後力道山は病院へ運ばれ一時は回復するも一週間後の1963年12月15日に死に至ります。力道山刺殺事件の衝撃はすさまじく、当時はメディアで大々的に報じられました。

力道山は赤坂のナイトクラブで村田勝志と足を踏んだ踏まないの口論に

thommas68 / Pixabay

村田勝志と力道山は事件より以前から何度もトラブルを起こしていました。この日も赤坂にあるクラブのトイレで足を踏んだ踏まないと応酬が始まり、お互い感情のブレーキが効かなくなりました。

晩年の力道山は肉体の衰えを隠すために興奮剤を服用して試合に挑み、その足で飲みに出かけるので飲み屋で客とトラブルを起こすことがたびたびあったといわれています。

力道山は村田勝志が仲直りを拒否したため馬乗りで殴打

口論の末しばらくすると力道山も興奮が冷めてきたのか仲直りを持ちかけます。ところが村田勝志の方はそれを拒否します。再び頭に血が昇った力道山は村田勝志を力づくで引き倒し馬乗りで激しく殴りつけます。

プロレスラーの腕力は一般人の力以上に武器になってしまいます。たとえ相手が喧嘩慣れした暴力団員とはいっても、何度も顔や体を殴られたらそれだけで凶器と化してしまいます。

村田勝志が力道山の脇腹をナイフで刺した!

繰り返される激しい攻撃に命の危険を感じた村田勝志は、身を守るために日頃から持ち歩いている登山用のナイフを取り出して力道山の脇腹を突き刺しました。村田勝志にしてみれば「正当防衛」でした。

村田勝志はこれより以前にも他のレスラーと喧嘩になっており、その時には丸腰で一方的にやられたことから、レスラーの腕力を恐れて護身用にナイフを持っていたといいます。

力道山は出血がひどくなり病院へ!応急処置で帰宅?

刺された力道山はその後もしばらくはバーで酒を飲み続けました。それでも容体は悪化し病院へ搬送されることになりました。診察を行なった医師は緊急手術が必要と判断、聖路加病院で外科手術になります。

ただしこの時の手術はあくまで応急手当のみで、その後力道山は何事もなかったように自宅に帰ったと伝えられています。村田勝志の証言でも刺した直後は衣服に血は染み出ていなかったといいます。

力道山は2日目に症状が悪化して入院するも手術は成功

一度は帰宅した力道山でしたが、事件から2日後に再び症状が悪化して山王病院で入院することになりました。そこへ外科の専門医に十数針を縫う大手術を受けます。手術は無事に成功しました。

刺されてから7日目、腹膜炎による腸閉塞で再手術するも死亡

力道山の周辺のスタッフは専門病院への入院を勧めますが、力道山本人は頑なに拒否します。そのまま退院しますが、7日目にまたしても症状が悪化して病院へ逆戻りします。

検査の結果腹膜炎による腸閉塞を起こしていることが分かって手術をすることになりました。この時も手術は成功と一時は伝えられましたが、およそ6時間後の21時50分に死亡が確認されました。

看取った者の証言によると、最期の言葉は「俺は死にたくない」でした。

力道山の正式は死因は穿孔性化膿性腹膜炎だった

marionbrun / Pixabay

刺されたその日から何度も繰り返し病院へ運ばれ手術を繰り返すも死に至った力道山の死因は、病院側の発表によると穿孔性の化膿性腹膜炎となっていますが、死因に関しては他にも諸説あります。

穿孔性の腹膜炎は通常はガンなどが胃を破って引き起こされる病気で、刺されてから一週間も経過して症状が悪化したことに不自然さを抱く声も多く出ています。

穿孔性化膿性腹膜炎とは?原因は?

1662222 / Pixabay

力道山の死因とされている穿孔性の化膿性腹膜炎とはどのような症状なのでしょうか?穿孔性腹膜炎は腹部が突然の激痛に襲われる病気で、歩くことも難しくなるといいます。

大抵は胃や腸にできたガンが破裂した際に引き起こしやすく、力道山のように刺されたことが原因で発症するのは稀なケースでした。

力道山刺殺事件の背景には、暴力団同士の抗争があった?

事件の背後には当時から住吉組と力道山の後ろ盾になっている東声会との抗争が指摘されていました。プロレスイベントと興行屋との関係は強い結びつきがあったとされています。

利権をめぐるトラブルがあったと考えられるので、力道山が敵対する住吉の村田勝志に刺されたとの一報が流れた直後から住吉と東声の抗争が絡んでいるとの噂が囁かれていました。

力道山の本当の死因とは?刺殺ではなく外科医の医療ミス?

DarkoStojanovic / Pixabay

力道山が村田勝志に刺されてから一週間という時間をかけて死に至っていることに関して、事件当初から死因に不審を抱く声は根強く出ています。力道山刺殺事件は今なお不可解な点が多すぎるのです。

力道山が刺された直後も飲食をしていたり、一時帰宅できた状態であることから、本当の死因は刺されたことではなく別に理由があるのではないかと考える人も多いといいます。

力道山の死因には謎が多い!死因には諸説ある?

力道山の死因には不自然な点があまりにも多すぎることから、病院側が発表した死因とは別に原因があるのではないかと未だに議論になっています。

手術を担当した外科医による医療ミスとの説もあれば、手術後に寿司や酒を飲食したことによる自業自得説から出血多量によるショック死説、さらには大きな勢力による暗殺説など噂はさまざまです。

力道山の解剖担当医の見解は?麻酔をした外科医の医療ミス?

skeeze / Pixabay

力道山の死から程なくして病院側のミスが死因ではないかと疑いの声が方々からあがります。発表に納得できない遺族は力道山の遺体の解剖を慶応病院に依頼しました。医療ミスはあったのでしょうか?

その結果、手術では衛生面を保つことが必要不可欠ですが力道山の場合は傷口の洗浄がうまくされていなかった点と麻酔を必要以上に投与されたことが死因との見解を示しています。事実なら医療ミスです。

力道山の死因は寿司や酒等の飲食のためという説も

Standpoint / Pixabay

手術をした後も力道山は飲み食いを辞めなかったと言われています。食事は医師によって制限をかけられていましたが、寿司や酒に目がない力道山がそれを破って飲食を繰り返したとされています。

これにより手術を受けたばかりの胃が傷つき病状が悪化して死因に繋がったとの説や食中毒説も浮上しています。これが事実なら力道山の死は自業自得だったことになります。

力道山の死因はショック死だった?

また当初の報道では力道山の死因は、手術を受ける際に出血が止まらず大量出血によってショック死したと報じられていました。実際に大量出血が原因でショック死するケースはあります。

しかし力道山の場合は一度は手術に成功し回復に向かっていたとみられる点から、その後に容体が急変してショック死に至るケースというのは珍しいです。

力道山は見えない力に排除された?暗殺?

力道山が刺殺された当時、祖国朝鮮半島では北と南が戦争によって分断されたものを一つにまとめようとする動きがありました。力道山は朝鮮半島の南北統一を強く望んでいたといわれています。

しかし南北統一の実現は日本にとっては外交上防衛上マイナスに作用します。そのため日本の大きな勢力によって力道山が暗殺されたと主張する声も一部で出ていますが、発想が飛躍し過ぎとの指摘もあります。

力道山死去のその後!村田勝志はどうなった?

cocoparisienne / Pixabay

「力道山刺殺事件」で力道山を刺したことによって、住吉組に所属する村田勝志の名前も一躍世間に知れ渡ることになりました。村田勝志をよく知る人物や彼を取材するライターの手記も数多く出版されました。

村田勝志は力道山を殺した国民の敵という扱いを受けます。力道山を刺した後、村田勝志はどのような行動を取ったのでしょうか?そして事件後の村田勝志の人生はどのようなものだったでしょうか?

村田勝志は東声会に謝罪へ

事件当夜は身を守ろうとする必死の思いから持っていた登山用ナイフで力道山の脇腹を突き刺してしまった村田勝志でしたが、事件直後はすぐに力道山の背後にある東声会に謝罪に出向いています。

当時村田勝志の所属する住吉組と力道山の関わる東声会との間は抗争状態にありましたが、力道山刺殺事件はあくまで組織は関係なく村田勝志の個人的な意思で決行したために謝罪したということのようです。

住吉連合会と東声会の報復合戦が危惧されたものの和解

SCY / Pixabay

いくら謝罪されたからといって、日本中に影響力を持つ力道山に死なれたことは東声会にとっても最大の痛手でした。そのことから住吉と東声の間で報復合戦が繰り広げられる可能性も高まっていました。

しかし抗争はそれ以上長引くことはありませんでした。住吉トップと東声トップの間に山口組が仲介役として名乗りを上げ、三者の間で和解が成立したのです。

力道山を刺した村田勝志の判決は懲役7年

succo / Pixabay

力道山刺殺事件は結局死因に煮え切らないものが残る中での裁判が始まり、力道山をナイフで刺した村田勝志には懲役7年の判決が言い渡されました。英雄・力道山を殺した男の判決に日本中が注目しました。

その後村田勝志は刑期を終えると住吉に戻り、村田組の組長として残りの生涯を過ごします。学生時代から「カミソリ」の異名を持つ村田勝志にとって事件後も闇の世界でしか生きる術はなかったようです。

その後、村田勝志は74歳で死去

力道山刺殺事件からおよそ半世紀が経った2013年4月、力道山を刺した男として世の注目を浴びた村田勝志は人生の幕を閉じます。74歳でした。死因は長年患っていた糖尿病だったと言われています。

村田勝志の死の報せを知った力道山の弟子グレート小鹿は、お悔やみの言葉を述べるとともに、力道山を死なせたことへの恨みは一生消えないとも語っています。

村田勝志は毎年、力道山の命日の翌日に墓参りをしていた?

村田勝志は事件後も闇の世界で生き続けますが、身を守るためとはいえ力道山を死に追いやってしまった後悔の念から、毎年欠かさず力道山の墓参りを続けていたといいます。

力道山の命日には毎年多くのファンや報道陣が殺到します。もしも村田勝志が姿を見せたら大きな騒ぎになるでしょう。遺族に迷惑をかけないために村田勝志は一日ずらして墓参りをしていました。

力道山の死去後のプロレス界は?

Myriams-Fotos / Pixabay

戦後の荒廃した日本にあって力道山だけが唯一の希望だったと語る日本人は当時は少なくありません。力道山見たさに誰もがモノクロテレビに釘付けだった時代です。その力道山はもういません。

力道山なき後、プロレス界はどうなっていったのでしょうか?力道山の後を引き継ぐ形で戦後の日本を盛り上げた2人の大物プロレスラーが台頭していきます。

力道山の死がプロレス界に与えた影響は?プロレスも終わり?

力道山の死が伝えられると日本中に悲しみが拡がりました。力道山の葬儀は池上本門寺で行われましたが、大勢のファンが寺の周辺を取り囲み、今では考えられないほどのパニック状態だったといわれています。

一部メディアでは力道山が世を去ったことでプロレス人気は下火になるだろうとの予測記事を書いていました。実際多くのプロレスファンが、力道山目当てにテレビの前に釘付けだったのです。

また日本プロレスのその後を支えていくはずの次期社長の豊登という人物が、競馬や競輪などに会社のお金を不正に使い込むなどしたために、日本プロレスは窮地に立たされます。

プロレス界はジャイアント馬場やアントニオ猪木が受け継いだ

ところがプロレス人気の火が消えることはありませんでした。当時アメリカでプロレス修行をして現地でも英雄となっていたジャイアント馬場が日本のプロレス界を救うべく急遽日本に帰国したのです。

それに続いてアントニオ猪木も登場します。ジャイアント馬場とアントニオ猪木の大活躍によって下火になりつつあった日本のプロレス界は再び息を吹き返します。

力道山亡きあとも、2人の登場によってうまく世代交代することに成功したのでした。プロレス人気は彼らの築き上げた功績によって現在も若い世代に受け継がれています。

力道山のプロフィールと経歴

  • リング名:力道山
  • 本名:金信洛
  • 日本名:百田光浩
  • 身長:176cm
  • 体重:116kg
  • 生年月日:1924年11月14日
  • 没年月日:1963年12月15日
  • 所属団体:日本プロレス

力道山というのは元々力士時代の四股名で、本名は金信洛(きん・しんらく)。朝鮮人です。日本名は百田光浩と名乗っていました。身長176cmの巨体を武器に力士でもプロレスでもファンを湧かしました。

日本のみならず祖国朝鮮でも高い人気を誇り、日本プロレス界の父と謳われますが、東京オリンピックの前年1963年12月15日に村田勝志に刺されたことにより還らぬ人となってしまいました。

NEXT:1940年に力士としてデビュー
1/2