

内田裕也の死因は肺炎?樹木希林の死?経歴や怪我・病気について!
2019年3月にロック・ミュージシャンの内田裕也さんが亡くなりました。独自の夫婦関係で長らく連れ添った樹木希林さんが亡くなったショックが大きかったとも噂される内田裕也さんですが、直接の死因は何だったのでしょうか?生前に発症した病気も含めて紹介していきます。
目次
[表示]- 01.
内田裕也の死因は肺炎?樹木希林の死で精神的な病気に?
- 01.1.
内田裕也のプロフィール
- 01.2.
2019年3月17日、内田裕也が死去!死因は肺炎だった
- 01.3.
妻・樹木希林の死で精神的な病気に?精神的衰弱死という説も
- 01.4.
後追い死だった?コミュニケーション能力不足が原因?
- 01.5.
本木雅弘が明かした内田裕也の最期は?
- 01.6.
所属事務所のコメントは?芸能人からの追悼コメントは?
- 01.7.
2019年4月3日に「お別れ会」が行われている
- 01.8.
内田裕也の死についてネット上では
- 01.9.
関連する記事はこちら
- 02.
内田裕也は生前から病気や怪我が多かった?
- 02.1.
大麻取締法違反や銃刀法違反などで逮捕されていた内田裕也
- 02.2.
怪我や病気は?都知事選に出馬も?
- 02.3.
2017年に脱水症状を起こしてからは車椅子生活だった
- 03.
内田裕也の死後にトラブル?内縁の妻がいた?
- 03.1.
内田裕也には内縁の妻がいた?看病を却下
- 03.2.
遺影でもめたことも?
- 04.
樹木希林は内田裕也の死を見越していた?
- 04.1.
樹木希林が生前手続きをしていた?夫の死を見越したとも
- 04.2.
相続税がかからないように財産を遺していた⁉︎
- 05.
内田裕也の経歴と生前の活躍
- 05.1.
1959年、ロック歌手としてデビュー
- 05.2.
1970年代には「日本語ロック論争」勃発
- 05.3.
1973年から打倒NHK紅白歌合戦としてオールナイトコンサート開催
- 05.4.
俳優としても活躍!出演映画は?脚本を担当することも
- 05.5.
ボランティア・政治への関心もあった
- 06.
内田裕也の生涯はまさにロックだった
内田裕也の死因は肺炎?樹木希林の死で精神的な病気に?
内田裕也さんの直接の死因は肺炎と報道されましたが、樹木希林さんが亡くなってから様子がおかしかったとの話もあります。
亡くなる前の内田裕也さんの様子や、義理の息子の本木雅弘さんのコメントなどを含めて内田裕也死因について紹介していきます。
内田裕也のプロフィール
- 生年月日 1939年11月17日
- 没年 2019年3月17日(享年79歳)
- 血液型 B型
- 出身地 兵庫県西宮市
- 身長 174cm
- 著名な家族 故・樹木希林(妻)、内田也哉子(娘)、本木雅弘(義理の息子)、内田伽羅(孫)、UTA(孫)
内田裕也さんは1959年に渡辺プロダクションに入り、同年に音楽フェスティバル「日劇ウエスタンカーニバル」に出演。
1963年には映画『素晴らしい悪女』で銀幕デビューをし、同時に音楽活動でもビートルズなどの影響を受けてロック色を強めていきました。
その後は『コミック雑誌なんかいらない!』や『魚からダイオキシン!!』といった映画で脚本も手掛け、19991年には東京都知事選にも立候補して話題となりました。
2019年3月17日、内田裕也が死去!死因は肺炎だった
2019年3月17日、東京都内の病院で内田裕也さんが息を引き取りました。
死因は肺炎とされ、2017年にも脱水で入院するなど亡くなる前には病気続きだったため、体力が低下していたことも原因と考えられています。
妻・樹木希林の死で精神的な病気に?精神的衰弱死という説も
内田裕也さんが亡くなる半年前に、妻の樹木希林さんも乳がんによって永眠されています。
樹木希林さんの葬儀には内田裕也さんも参列したものの憔悴しきった様子で、このことから内田裕也さんも生きる気力を失くしてしまったのではないかとも言われました。
樹木希林さんの闘病生活も癌が次々と転移して体を蝕むという壮絶なものであったため、内田裕也さんも精神的なダメージが相当蓄積していたと考えられているのです。
後追い死だった?コミュニケーション能力不足が原因?
内田裕也さんだけではなく既婚の男性一般に言えることなのですが、妻に先立たれてしまった夫は精神的な支柱を失くして、心身ともに弱ってしまう傾向にあると言われています。
女性と比べて高齢の男性は肩書の関係ない集団に飛び込むのが苦手な人が多く、コミュニケーション能力が不足しているために気持ちが切り替えられず、妻の死から立ち直れないケースが多いのだそうです。
このような点から、内田裕也さんが肺炎という病気に耐えることができなかったのは樹木希林さんを失ったショックが大きかったとの見方もあります。
本木雅弘が明かした内田裕也の最期は?
内田裕也さんの最後について、義理の息子である本木雅弘さんは「眠っているように安らかな最期だった」と語っています。
また内田家と裕也さんは複雑な関係であったために、家族がつきっきりで看病をするといったことができなかった、もっと何かできることがあったのではと後悔を示していました。
そして樹木希林さんが晩年、内田裕也さんに対し「私が片づけないと」と語っていたことを明かし、これ以上裕也さんが苦しまないように、希林さんが迎えに来たのかもしれないと話していました。
所属事務所のコメントは?芸能人からの追悼コメントは?
内田裕也さんが亡くなったことに対して、2019年3月18日に所属事務所の内田裕也オフィスは以下のようなコメントを発表しました。
内田裕也、2019年3月17日、5時33分、肺炎のため、永眠いたしました。ここ数年、闘病の日々でした。
それでもユーモア、ウィットを忘れず、時には世の中を憂い、怒り、常に自分の出来る事を模索しておりました。
多くの友人知人、家族に支えられてRock\’n\’Roll人生を全うすることが出来ました事をここに心よりお礼申し上げます。
(引用:スポニチ)
またプライベートでも親交があり、内田裕也さんが成功した日本人ロックンローラーとして認めた数少ないアーティストの1人でもある矢沢永吉さんからも、追悼コメントが寄せられました。
裕也さんがいなくなるってさみしいですね。じいさんになっても、よぼよぼになっても、もっと生きてほしかったです。心よりご冥福をお祈りいたします
(引用:スポニチ)
同様に内田裕也さんが高く評価していた布袋寅泰さんも、インスタグラムに以下のような追悼のコメントをアップしています。
きっと天国でロックンロールの先駆者たちから盛大な歓迎会を受けていることでしょう。素敵なパートナーと手を繋ぎ踊ってください。ロックンロールとは『頑張ろうぜ!』の合言葉。僕も死ぬまでロックンロールします。ありがとうございました
(引用:スポニチ)
他にも高橋幸宏さんや泉谷しげるさんらミュージシャン仲間から多数のコメントが寄せられ、内田裕也さんが愛されていたことを窺わせました。
2019年4月3日に「お別れ会」が行われている
内田裕也さんは生前から自身の葬儀は賑やかに、盛大に行って欲しいと話していたそうで、この意向を受けて2019年4月には「内田裕也 Rock\’n Roll葬」と銘打ってお別れ会が開かれました。
この葬送会では堺正章さんや映画監督の崔洋一さんらが弔辞を読み、内田裕也さんとのエピソードを語り、涙と共に笑いを誘う様子も見られたと言います。
謝辞は娘の也哉子さんが担当し、「これまで両親が迷惑を掛けました」と述べた後に以下のように締めくくりました。
「Fuckin\’ Yuya Uchida, don\’t rest in peace just Rock\’n Roll!!!」
(引用:映画ナタリー)
このお別れ会には、北野武さん、岩城滉一さん、浅野忠信さんや秋元康さんといった著名人が足を運び、一般参加者も含めた参加者総数は1700名にものぼったと言います。
内田裕也の死についてネット上では
内田裕也さんの訃報に対して、ネットではショックの言葉と共に「天国で樹木希林さんと仲良く」といったものが多く寄せられました。
また、萩原健一さんや津川雅彦さんといった昭和を代表する芸能人が相次いで亡くなっていたことから、「時代が終わったんだなあ。悲しいな」と訃報を悲しむ声もあがっていました。
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内田裕也は生前から病気や怪我が多かった?
晩年の内田裕也さんは健康状態が思わしくなく、入退院を繰り返していたとも言われています。生前の内田裕也さんの病気や怪我、話題となった逮捕歴について紹介していきます。
大麻取締法違反や銃刀法違反などで逮捕されていた内田裕也
内田裕也さんには3度もの逮捕歴があり、逮捕された罪状と時期は以下のものです。
- 1977年9月 大麻取締法違反
- 1983年6月 銃刀法違反
- 2011年5月 強要未遂と住居侵入
特に内田裕也さんらしいと言われるのが1983年に起こした銃刀法違反で、包丁を携えてコンサートの運営などを行うウドー音楽事務所に乗り込んで逮捕されたという事件を起こしました。
この時、内田裕也さんは「外人ばかり使うな!日本人ミュージシャンを使え!」と泥酔状態で事務所内で暴れたとされ、被害者が出なかったこともありお騒がせ事件として話題になりました。
怪我や病気は?都知事選に出馬も?
1991年に内田裕也氏は突然、東京都知事選出馬の意思を見せて話題となりました。上の動画が当時の政見放送なのですが、あまりの破天荒さに今でも伝説扱いされている程です。
自由人の印象が強い内田裕也さんですが、2000年以降は度々怪我や病気に悩まされ、2003年に網膜中心静脈閉塞症、2016年に尾てい骨を打撲、2017年に右足甲を骨折とトラブルに見舞われていました。
2017年に脱水症状を起こしてからは車椅子生活だった
内田裕也さんは2017年に脱水を起こして病院に緊急搬送されたことがあり、11月という時期も相まって「なんでこの時期に?」「他の病気なのでは?」と話題になりました。
部屋の暖房をつけっぱなしにして乾燥した状態で寝てしまったことが原因とされますが、この後に車椅子姿が『ザ・ノンフィクション』で流されたため、心配する声が多数寄せられました。
内田裕也の死後にトラブル?内縁の妻がいた?
生前は女性関係が派手だったことでも知られる内田裕也さんですが、実は内縁状態にあった女性がいたとの話が出てきています。
内田也哉子さんや本木雅弘さんとも因縁があったとされる内縁の女性とは、どんな人物なのでしょうか?
内田裕也には内縁の妻がいた?看病を却下
内田裕也さんと樹木希林さんといえば、一緒に暮らしたのが1年半しかないという不思議な夫婦生活を続けていたことが有名ですが、別居後の内田裕也さんには内縁の妻がいたそうです。
内縁の妻の女性は内田裕也さんの所属事務所の社長をしていた女性で、病状が危うくなった際に也哉子さんと本木雅弘さんが自宅に連れ帰りたいと申し出た際に、これを拒んだとの話もあります。
そのために也哉子さんは内田裕也さんの最期を看取ることができず、本木雅弘さんも後に取材で「もっと何かしたかった」と語っていたのだと見られています。
遺影でもめたことも?
内田裕也さんの内縁の女性は事務所の社長でもあったため、葬儀にももちろん関係していました。
葬儀当日に事務所側は取材陣に対して出棺や遺影を撮影できるとアナウンスしていたのですが、本木夫妻はこの話を聞いていなかったようで、「近所迷惑になる」との理由で急遽NGに。
この内縁の女性の対応について、周囲からは「内田裕也さんを支えてきた自負があるのはわかるけれど、遺族の気持ちも考えた方が」との意見があがっていました。
樹木希林は内田裕也の死を見越していた?
樹木希林さんは生前に内田裕也さんの死後のことも考えて、不動産の整理などを行っていたそうです。夫の死を予期していたとも指摘される、樹木希林さんの行動について紹介していきます。
樹木希林が生前手続きをしていた?夫の死を見越したとも
樹木希林さんは投資用の不動産は複数所有しており、所有不動産の資産価値は合計で10億円は下らないとされます。
しかし樹木希林さんがご存命の時点で、この不動産の名義はどれも也哉子さんら子孫のものになっており、これは遠からず夫も他界するということを見越して手続きをしていたものと見られているのです。
相続税がかからないように財産を遺していた⁉︎
樹木希林さんは自分の遺産が一度内田裕也さんが相続をして、その後也哉子さんの元に行くようになると相続税が2回徴収されてしまうことから、節税のために生前に名義変更をしたと見られています。
生前に樹木希林さんはこのことを内田裕也さんに相談して決めているはずですから、内田裕也さんも父として、祖父として自分よりも子孫を優先していたと考えられるでしょう。
内田裕也の経歴と生前の活躍
知名度の割に内田裕也さんの芸能活動の内容はあまり知られていませんよね。ここでは、内田裕也さんの芸能活動を振り返っていきます。
1959年、ロック歌手としてデビュー
意外ではありますが、内田裕也さんはもともと優等生タイプの少年であったそうで、エルヴィス・プレスリーとの出会いで音楽に傾倒、学校も中退して音楽活動にのめりこんだのだそうです。
そして1959年に「日劇ウエスタンカーニバル」に出演して、歌手としてのデビューを飾りました。
1970年代には「日本語ロック論争」勃発
1971年に発売された『ニューミュージック・マガジン』の誌上の企画が発端となり、勃発したと言われている「日本語ロック論争」。
はっぴいえんどが日本語でもロックは成立するという主張に対して、内田裕也さんらがロックは英語で歌わないと合わないと反発したことが議論を呼びました。
しかし、この後の1972年に矢沢永吉さん率いるキャロルが登場して、日本語と英語を混ぜた歌詞でロックを歌うという流れが誕生し、議論は自然消滅的に収束していきました。
1973年から打倒NHK紅白歌合戦としてオールナイトコンサート開催
内田裕也さんは1973年から年越しの音楽イベント「オールナイトコンサート」を毎年開催しています。
打倒紅白として始まったイベントでしたが、このイベントは年末の恒例行事となり、2019年現在も「ニューイヤーズロックフェスティバル」の名称で続いています。
俳優としても活躍!出演映画は?脚本を担当することも
石原慎太郎氏の『僕たちの失敗』を原作とした映画『素晴らしい悪女』で、1963年に俳優としての活動を開始した内田裕也さん。
その後も『戦場のメリークリスマス』『座頭市』『ブラック・レイン』といった作品に出演をしています。
役者としてだけではなく制作にも関わっており、1986年に公開された『コミック雑誌なんていらない!』や1992年に公開された『魚からダイオキシン!!』では脚本も担当しています。
ボランティア・政治への関心もあった
1991年に都知事選出馬した以降も、内田裕也さんは度々政治に関する発言をしていました。
また、2011年の東日本大震災の際には4月に食料を大量に積んだ車で石巻市に駆けつけており、炊き出しを行うとともに、被災者を元気づけたいとミニライブも敢行しました。