浅田真央の母親がすごい!現在は死去で死因は?苦労人だった? エンタメ

浅田真央の母親がすごい!現在は死去で死因は?苦労人だった?

元フィギュアスケーター選手の浅田真央は母の勧めでスケートをはじめ、世界で活躍する選手となりました。母は、娘が大会に参加中に倒れ、肝硬変のため帰らぬ人となりました。娘を支え続けた母親の生い立ちや、肝臓病と闘いと家族の思い出などをご紹介してまいります。

目次

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浅田真央の母親はどんな人?生い立ちが壮絶!

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浅田真央の母親の壮絶な生い立ちや、彼女がどんな人であったかをご紹介いたします。

浅田真央のプロフィール!

浅田真央と父親は宝塚のファンだったそうで、当時のトップスターであった大地真央の名をもらい、「真央」と名付けたそうです。

  • 本名:浅田真央
  • 愛称:真央ちゃん、浅田選手
  • 誕生日:1990年9月25日
  • 出生地:愛知県名古屋市
  • 星座:てんびん座
  • 身長:163 cm
  • 出身地:愛知県名古屋市
  • 学歴:中京大学
  • 血液型:B型
  • 職業:プロフィギュアスケーター、タレント
  • 事務所:IMG TOKYO
  • 家族構成:姉(浅田舞)

浅田真央の姉である浅田舞は2つ年上ですが、フィギアスケートと始めたのは同時期で、浅田舞が5歳、浅田舞は7歳の時でした。年の差もあり最初は姉の活躍が目立ちましたが、小学校6年生で逆転します。

3回転3を回続けるコンビネーションジャンプに挑み、一躍「天才少女」スケーターとして脚光をあびることになります。その後はジュニア大会で何度も優勝し、海外に拠点を移して世界に挑むことになります。

母とともに厳しい練習を積んだ浅田真央は、2005年の「グランプリファイナル東京大会」での優勝をはじめ、オリンピックや他の世界大会で活躍する憧れのトップスケーターになりました。

浅田真央の主な成績と活躍!

  • 2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト
  • 2014年ソチオリンピック日本代表(6位)
  • 2008年、2010年、2014年世界選手権優勝
  • グランプリファイナル優勝4回
  • グランプリシリーズ通算14勝
  • 2010年バンクーバーオリンピックにて、女子シングル史上初めての、1つの競技会中で3度の3回転アクセルを成功させる
  • 2014年のソチオリンピックにて、女子史上初となる6種8トリプルジャンプ着氷を披露

浅田真央は選手を引退した後は、プロフィギアスケートやタレントとして活動しており、アイスショーなどで世代を問わず、スケートの楽しさを伝えています。

教育熱心な母親として知られていた浅田真央の母

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浅田真央の母、匡子さんは教育熱心な母親として有名ですが、そこには自分と同じ「女」に生まれた二人の娘への「強く生きなさい!」というメッセージが込められているといわれます。

自分の命が残り少ないことを知ってか、自分が父や母を亡くしたあとに苦労したことを重ね、娘たちが自力で生きていく能力をつけるためにも、敢えて厳しく熱心に教育したといわれています。

浅田真央の母の生い立ちは?幼い頃父親を亡くしていた?

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浅田真央の母親である浅田匡子さんは、裕福ではありませんでしたが、両親と姉の4人で生活していました。しかし彼女が12歳の時に父親が他界し、生活は困窮しました。

母親も20歳の頃他界してホステスの道へ?ソープ嬢という説も

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何とか暮らしていた姉妹でしたが、浅田匡子さんが20歳の時に母親も他界してしまいます。両親を亡くして路頭に迷った彼女は、ソープ嬢として働くしかなかったといわれています。

一部ではホステスをしていたとも言われていますが、岐阜では有名な風俗街の「金津園にある『入船』」とういうソープランドで働いていたという具体的な情報がありますが、真偽は確認できませんでした。

浅田真央の母親の出身地はどこ?源氏名は留美子?

「源氏名」という言葉の由来はさておき、通常は水商売や風俗店で働く時につかう仮名のことを言います。

浅田匡子さんは、金津園の「入船」にいた時は『留美子』と名乗っていたという具体的な話もあるようです。また、全く同じ店か分かりませんが、金津園には「入船」という店が今も存在しているのも事実です。

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浅田真央の母親は現在死去?死因は肝硬変だった?

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浅田真央の母親の浅田匡子さんは、2011年に亡くなられました。死因は肝硬変で肝機能の悪化によるものとされています。

浅田真央の母親の死因は肝硬変?どんな病気なの?

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日本では重要な部分を「肝腎」などといいますが、これは肝臓と腎臓を表し非常に重要な臓器であることから由来しています。肝臓が弱ると体の解毒作用も弱り、免疫障害などにつながります。

また、肝臓は「沈黙の臓器」ともいわれ、症状が現れた時には手遅れと言う場合も多く、肝硬変というのはかなり進行した状況で、維持できても良くなる事は殆どありません。

肝硬変になった肝臓は硬くなって正常な肝臓機能ができなくなった状態です。すると、腹水や食道静脈瘤、黄疸や肝性脳症などになり、命の危険をともなうことになってしまいます。

浅田真央の母親は長らく肝臓を患っていた?

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肝硬変にはウイルスによる感染か、継続的なアルコール摂取などによるものがあります。どちらも症状が現れた場合には、現状維持さえ難しく投薬治療で時間を稼ぐか、臓器移植を考えるしかないでしょう。

また、肝硬変まで至ると医者も嫌がるほどの苦しみを伴う病気ですので、自分で病気の進行も分かります。かなり長い期間、苦痛に耐えながら娘と生活していたようです。

20年以上も肝臓を患っていたという情報もあり、浅田真央を出産したころから病気の兆候があったと考えられます。

浅田真央の母親の顔色が変わったのは黄疸のため?

肝機能が低下すると「黄疸」の症状が現れます。白目の部分や、皮膚が黄色くなってきます。皮膚は黄色味を帯びた後は、日焼けのように黒っぽく見えてくるのが特徴です。

浅田真央の母親である浅田匡子も、ある時期から顔が浅黒くなったと噂されたそうで、黄疸の症状が出ていたと考えられ、かなり身体の調子が悪いのではともいわれていたようです。

浅田真央の母親は肝臓の移植手術も受けていた

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肝臓移植は、肝機能障害を回復させる少ない方法の一つです。しかし、臓器移植に伴うリスクは大きく、適合する臓器が見つからなければ手術できませんし、上手くいくとも限りません。

但し、浅田匡子さんが実際に移植手術をしたという情報もあるようです。肝臓の場合には片方の臓器を提供してもらえれば移植が可能なので、他の臓器よりは移植はしやすいと言えます。

しかし、移植をするほどまで進行していたとすれば状態は末期とも思われ、深刻な状況であったことがうかがわれます。

浅田真央の母親は娘からの移植を拒否

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臓器移植では適合する臓器を探しますが、浅田匡子さんに最も適合したのは浅田真央の姉である浅田舞の臓器でした。そして医師の勧めもあり、浅田舞も了承したそうです。

仮に浅田舞の肝臓を移植しても浅田舞に死の危険はありません。時間の経過で肝臓も再生すると考えられます。ところが手術直前で浅田匡子さんが移植を拒否したといわれます。

「大事な娘の身体にメスはいれられない」

(引用:orionfdn.org)

母親の愛なのでしょうが、これで移植が成功する可能性はかなり下がります。最後は、危険を承知で、適合性が薄い夫の浅田敏治さんの肝臓を移植することになったそうです。

浅田真央は母の死に間に合わなかった

やはり医師の予想通り、夫の肝臓は適合しなかったようで様態は急変し、最悪の事態になってしまします。浅田真央は母親の急変を聞き、大会中でしたが棄権して急遽帰国しました。

しかし、浅田真央の帰国の直前に、浅田匡子さんは名古屋市内の病院で息を引き取り、娘は母の死に立ち会うことはできませんでした。2011年11月9日のことでした。

浅田真央が母親の死去に際し発表したコメントは?

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浅田真央は大会中に会場を去る際に、日本スケート連盟フィギュア強化副部長の小林芳子に気丈に挨拶して帰国の途にむかったそうです。

「回復したという連絡があれば出たいと思っていたけど、かなわなかった。ご迷惑をお掛けします」

(引用:orionfdn)

しかし、浅田真央の願いはかなわず、母親の最期を見届ける事はできませんでした。

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浅田匡子さんの葬儀は、名古屋市内において近親者のみで執り行われたそうです。そして浅田真央は次のようなコメントを発表しました。

応援してくださっている皆さん、スケート関係、及びマスコミの皆さんへ

この度は、大変ご心配をおかけするとともに、試合直前の欠場となり、大変ご迷惑をおかけしました。

最初ケベックで連絡を受けたときは、今すぐに帰りたい、という気持ちと、試合を欠場しても良いのか?という思いで複雑でしたが、すぐに帰国して良かったと思っています。

帰る飛行機の中では、色々な事を考えましたが、きっとお母さんは自分が帰ってくるのを待っていてくれると信じて、ずっと祈っていました。

しかし、成田空港に到着してすぐにメールを確認すると、「ママは頑張れなかった」というお父さんからのメールを見て、涙が止まりませんでした。

それでも、もしかしたら、と思い、名古屋の病院に駆けつけ、何度も「真央だよ!」と叫びましたが、やすらかな顔をしたお母さんは、やはり目を開くことはありませんでした。

でも、充分頑張ったし、もう、痛い思いをしないで済むんだ、と思うと、少しホッとする部分もあります。

この半年、容態が良くない時が時々あり、名古屋を離れる時は、いつもこれが最期かも、と思いながら出発していました。

まだ、信じられない気もしますが、お母さんに今までより近くで見守られている気がします。

私たち姉妹にたくさんの愛を注いでくれたお母さんに、何度「ありがとう」と言っても足りません。

生前、家族で約束した通り、今後も自分の夢に向かって、やるべき事をしっかりやることが、お母さんも喜んでくれる事だと思い、今まで通り練習に励みたいと思います。

皆さん、今後とも応援よろしくお願いします。

浅田真央

(引用:orionfdn)

浅田真央が悲しみに打ちひしがれるなか、どのような思いでこのコメントをかいたのかは想像できませんが、母親からの娘に強く生きるようにという思いは十分に伝わったようです。

浅田真央の母親の訃報に対するのコメントは?

山田満知子元コーチは、浅田姉妹が幼少の時から母親の浅田匡子さんとも付き合いがあり、匡子さんの訃報を聞いて次のようにコメントしています。

言葉が見つからない。特に親子の絆が強かったから真央のことが心配。ママは頑張り屋さんだった。真央の将来のためにやりたかったことがあったはず。真央はまだ21歳。スケートだけでなく今後の人生にお母さんが必要だったのに…。

(引用:orionfdn)

コーチにとっても浅田匡子さんの死は受け入れがたいものであり、まだ21歳の浅田真央を心配する気持ちが伝わってきました。

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浅田真央と母親の絆がすごい!

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浅田真央と応援する母親の、かたい絆をご紹介します。

幼い頃から母親に多くの習い事をさせられていた浅田真央

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浅田真央は3歳くらいからたくさんの習い事をしています。これは殆どが浅田匡子さんからの勧めで始めたようで、バレエ、体操、ピアノほか、合わせて9つの習い事をしていたといいます。

これも母親の浅田匡子流の子育て法で、子供の可能性を広げるための手段だったといいます。そして、本人たちもやる気になり、最後まで残ったのが「フィギュアスケート」だったそうです。

浅田真央がフィギュアを始めたのは、バレエのためだった?

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浅田匡子さんは、バレエダンサーになりたかったそうで、その叶わなかった夢を娘たちに託したようです。

フィギュアスケートを習い始めたのも、バレエのために足首などをを鍛えるためだったそうですが、途中から浅田真央はフィギュアスケートの方に夢中になっていきました。

それを見ていた匡子さんは、子供にはやりたいことをさせようとフィギュアスケートへの転換を決意して、自分の夢を押し付けることはやめたということです。

浅田真央の母は娘のために一生懸命フィギュアを勉強

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しかし、浅田真央の母親の浅田匡子さんにはフィギュアスケートの知識が全くなかったため、本を購入して一人でトレーニング方法などを学んだといいます。

周囲の人からは「素人が何を」というバカにしたような目で見られたこともあったようですが、全く意に介さず長野オリンピックの「タラ・リピンスキー」の映像を繰り返し見て研究したそうです。

浅田真央の母がすごい!娘のために日本人嫌いのコーチも説得

今では「浅田真央と歩んだことは私の誇り」と語るロシアのタラソワコーチですが、最初は大の日本人嫌いだったといいます。前に指導した日本人と揉めたようで、日本人は2度と教えないと豪語していたそうです。

しかし、そのタラソワコーチに教えを乞いたいと考えたのは浅田真央の母の匡子さんで、修復不能となで言われたタラソワコーチのもとに自らおもむきました。

どうやって交渉したのかは分かりませんが、匡子さんは直接交渉によってコーチを承諾してもらっています。これにはスケートやIOCの関係者までが驚いたといいます。

浅田真央の練習も側で見守り続けた

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浅田匡子さんの姿は、いつも浅田真央のすぐそばにありました。浅田真央が周囲から大きなプレッシャーを受けるのを防ぐ役目もかってでたようです。

また、よきコーチでもあり、浅田真央が現役のころは1日20時間の練習する事もありましたが、ずっとそばで見守り、練習のあちは覚えたマッサージで娘の筋肉をほぐしていたそうです。

浅田真央の母はスパルタ教育でも有名!毒親認定も?

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そんな優しい一面を見せる浅田匡子さんですが、浅田真央の練習ではスパルタなことでも有名な人でした。食べ盛りの浅田真央にこう言っていたそうです。

『3回転ジャンプが飛べないと今日はご飯抜きだからね!』

(引用:orionfdn.org)

このような特訓で、彼女は素晴らしい演技を会得したようです。

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また、バンクーバーオリンピックでは、浅田真央とキム・ヨナに、「お母さんは怖いですか」と同じ質問をしていました。キム・ヨナが「いいえ」と答えていますが、浅田真央は「はい!」と言っています。

また、浅田家では学業よりも「スケート」を優先させており、出席日数が足りなくて呼び出されても、母親は頑なにスケートにこだわったそうです。

学校をはじめ周囲からは、毒親とか非常識とも言われたようですが、信念を曲げることはありませんでした。

浅田真央の母が子供達に厳しかった理由は?

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浅田真央の母である浅田匡子さんは、自分の病気が進行している事を知っていたといわれます。肝臓の病気は症状が出るまでは全く気づきませんが、症状が現れると進行はハッキリと自覚できます。

自分の残された時間が少ないことを知った匡子さんは、出来る事を今日のうちにと必死になったため、必然的に厳しくなってしまったのではといわれています。

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