附属池田小事件の概要や宅間守の生い立ちは?逃げた教師もいた? 社会

附属池田小事件の概要や宅間守の生い立ちは?逃げた教師もいた?

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些細な事で母親を殴り家庭内暴力を繰り返した

宅間守を出産することを嫌がっていたという母親ですが、産後も母乳を与えることすら嫌がり、宅間守はネグレクトの状態にあったと言われています。

そのせいか成長した宅間守は家庭内暴力も酷く、気に入らないことがあると母親に手をあげていたそうです。

小学6年生の時に中学校の受験を希望するも、成績の問題で受験できず

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宅間守は小学校6年生時、大阪教育大学附属池田中学校の入学試験を受けたがったそうです。

国立であることから学費の心配はさほどなかったものの、息子の成績では合格できるわけがないとして、両親からは受験の許可も出ませんでした。

高学歴、高収入のエリートに対し嫉妬を抱いていた

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宅間守は幼少時から、高学歴・高収入のエリートへの妬みや歪んだ憧れを持っていた考えられています。

このことが後に凶行の舞台として、将来有望な子供が通っていた大阪教育大学附属池田小学校を襲った動機ともなっています。

「もっと頭のいい人間に産まなかった親が悪い」と親を恨む

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成功をしている人間に憧れて自分も努力するといった考えが宅間少年にはなく、それどころか自分を賢く生まなかった親が悪い、と自身の親を逆恨みしていたそうです。

弱いものにしか強く出られない、自分に無いものを持っている人をひたすら妬んで恨む、附属池田小事件を起こすきっかけとなった宅間守の考え方が、少年時代には出来上がっていたことが分かります。

事件の犯人・宅間守の生い立ちは?中学・高校時代

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少年時代から後に世間を恐怖に陥れるような犯罪を起こす片鱗が見られていた、宅間守。中学、高校と進学していくと問題行動もエスカレートしていきました。

ここでは宅間守の中学、高校時代はどのような様子であったのかを紹介していきます。

地元中学へ進学し、その後工業高校へ進学

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大阪教育大学附属池田中学校に通うという夢がかなわなかった宅間守は、学区内の公立中学校である伊丹市立北中学校に進学しました。

高校は兵庫県立尼崎工業高校へ進学。しかし、ここでも問題をおこすこととなります。

中学生になっても弱いものいじめを継続していた

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中学生になっても自分よりも弱い相手を見つけては、いじめを繰り返していたという宅間守。

動物虐待も相変わらず続いており、中学の教室で飼育していた金魚をストーブで燃やす、猫を殺すという残虐かつ悪質な行為を繰り返していました。

好意を抱いていた女子生徒の弁当に精液をかけた事も

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中学生になって思春期に差し掛かった宅間守は、片思いをしていた女子の弁当に精液を入れるという奇行を見せていたことが、本人の証言で明らかになっています。

他にも、好意を持った相手の食事に唾を垂らすということも行っていました。

工業高校は教師を殴り40日ほどで退学、定時制高校へ編入

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中学卒業後は兵庫県立尼崎工業高校へ進学した、宅間守。しかし、高校2年時に教師に暴行を加えて退学となっています。

ちなみに兵庫県立尼崎工業高校では同学年に松本人志さんが在籍していたとされ、事件時には学生時代に交流はあったのかと話題になりました。

定時制高校をすぐに退学しガソリンスタンドでアルバイトを始める

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兵庫県立尼崎工業高校退学後は、定時制高校に編入。しかし、全く登校しなかったことから自然除籍の扱いとなっています。

16歳の時に中型自動二輪の免許を取得、バイクに乗っていたこともあり、2つの高校を退学した後はガソリンスタンドでのアルバイトを開始しました。

事件の犯人・宅間守の生い立ちは?事件を起こすまで

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小学生の頃から、学歴や生まれに関係なく、出世のチャンスが与えられている自衛隊に憧れを持っていたという宅間守。

しかし、せっかく入隊した自衛隊も自分の軽率な行いで除隊させられてしまいます。ここでは、高校退学後、社会人になってからの宅間守の様子を紹介していきます。

1981年18歳の時に航空自衛隊に入隊

1981年の秋、宅間守は18歳で航空自衛隊へと入隊しました。パイロットを志し、入隊後は山口県防府市に位置する航空自衛隊第一航空教育隊で、基礎教育を受けました。

そして愛知県小牧市にある第一輸送航空隊に配属されて、航空機整備の仕事に就きました。

1983年1月に除隊

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所属中に普通自動車免許と大型自動車免許を取得するなど、希望して入った航空自衛隊で真面目に勤務していた様子であった、宅間守。

しかし1982年に問題を起こし、それが明るみに出て1983年1月に航空自衛隊を除隊させられたのです。

除隊理由は家出少女を下宿させ性交渉したため

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自衛隊を除隊させられた理由は、家出中の少女を下宿に連れ込んで性交渉をおこなっていたことでした。

このことは、後に少女が保護された際に青少年保護条例違反で寝場所を提供していた宅間守が事情聴取を受けてことで明るみに出て、自衛隊側が懲戒免職をさせたのです。

除隊後は運送会社、運転手などを数十社転職を繰り返す

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自衛隊除隊後、実家に戻った宅間守は何をするでもなくゴロゴロ過ごしていたことから、見かねた父親が運送業を勧め、トラック運転手などの職に就きました。

しかしすぐに辞めてしまい、引っ越し屋に就職したり不動産屋に就職したりと、短い期間に職を転々としたと言います。

精神的に荒れて高速道路を逆走、家庭内暴力をする

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パイロットになる、航空自衛隊で出世をするという目標が奪われたために宅間守は精神的に荒れていき、家庭内暴力も激しくなっていきました。

また迷惑をかける相手は家族だけにとどまらず、高速道路を逆走するといった危険行為にも出るようになったと言います。そしてこの時は20歳を過ぎていたことから、逮捕をされています。

1993年30歳の時に市営バスの運転手、小学校の用務員などを務めた

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宅間守は30歳で何故か非常勤の地方公務員になっています。この時点で既に逮捕歴もあったことから、どういうコネで公務員になったのかと、附属池田小事件には数々の憶測が飛び交いました。

採用された経緯は不明瞭ですが、伊丹市市バスの運転手、清掃局の職員、伊丹市立池尻小学校の用務員として勤務したとされます。

しかし後に子供を殺害するような男ですから、用務員としての勤務態度は酷いもので、児童に唾を吐きかけるなどの問題行為を起こしていました。

バスの運転手をしている際に乗客とトラブルを起こし懲戒処分を受けた

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伊丹市市バスの運転手として勤務し始めるも、香水のにおいを理由に女性の乗客と口論に。後日女性から伊丹市交通局あてに苦情が入ったため、懲戒処分を受けました。

また、このトラブルの前にも業務中に、給油中に腕が当たったことで激昂して同僚に殴りかかるという事件を起こしています。

私生活では4回結婚と離婚

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宅間守は、26歳の時に19歳年上の看護師の女性と結婚。しかし、職業を医師と偽って結婚したために結婚から12日後には離婚を叩きつけられています。

その後はなんと小説家の小松左京氏の実の妹と結婚。小学校の恩師だったとのことですが、彼女とも30歳の時に離婚。33歳の時に3度目の結婚をするも、35歳で相手に調停を起こされて離婚が成立。

35歳で2歳年下の女性と妊娠を機に結婚し、その5ヶ月後に離婚と、10年の間に4回の結婚と離婚を繰り返しました。

40歳以上年の離れた女性と養子縁組を結んだ

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さらに宅間守は、31歳の時に勤務先の伊丹市交通局で知り合った当時75歳の女性と養子縁組をしています。

金銭が主な目的と見られていますが、この養子縁組を機に養母宅で生活をするように。また、養子縁組時は名字が変わっていたことから、新しい名字を手に入れることが目的だった可能性も示唆されています。

しかしあまりの宅間守の素行の悪さから、この女性との縁組は1年と少しで解消されました。

宅間の家族について

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生い立ちを追っていくと、幼少期から宅間守は問題行動が多かったことが分かりますが、彼の家族はどのように接していたのでしょうか?ここでは、宅間守の家族について紹介していきます。

宅間の父は家族全員に対し暴力を振るっていた

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宅間守の父親は小学校を出てすぐに働いており、自分の腕一本で家族を養ってきたことにプライドを持っている、典型的な頑固親父タイプであったと言います。

家族に対して暴力をふるうことを習慣にしており、それを恥じ入る様子もなく、これは宅間守の祖父が子供を暴力でしつけるのは当然という考えであったことに起因するようです。

しかし、躾のためとは言えない程の度を越した暴力が日常的に行われていたようで、宅間家の壁には血の跡が滲んでいたとも言われています。

宅間は父親を憎み、就寝中に包丁で殺そうと思った事も

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宅間守は父親を激しく憎み、何度も寝ている父親を殺してやりたいと思ったと証言しています。

後に附属池田小事件の裁判の際にも、父親を殺しておけばよかった、そうすれば違う人生を歩めたはずだったといったことを供述していました。

自衛隊を退職後から親子関係はさらに悪化

子供の頃からあまり関係の良くなかった宅間守と父親ですが、宅間守が自衛隊を除隊されて実家に戻ると、その関係は一層悪化しました。

親子は掴み合って喧嘩をすることも増え、父親がレンガで宅間守を殴打することもあったと言います。

宅間は事件後父親に対し「全て人のせいにする」と評している

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附属池田小学校事件の後、宅間守の父親は、息子のことを「嫌なことは全て他人のせいにする性格」と語っていました。

事実、自分が努力するよりも幸福な人を妬むという非生産的な感情を優先することが多々見られ、宅間守には父親が指摘するような傾向があったと言えます。

しかし、子供のためと言うよりも自分の思い込みから幼い子供に手をあげてきた宅間守の父親の教育が良いものであったかと言うと、疑問が残るでしょう。

宅間の母は家事、育児が苦手で家事は父親が担当していた

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暴力的な父親が幼い息子に手をあげている間、母親は何をしていたのでしょうか?宅間守の母親は育児も家事も苦手だと言い張り、家の一切を夫に任せていたようです。

幼稚園入園前、一時期宅間守は祖父母の家に預けられていたようですが、祖父母には懐いており、両親の待つ家に帰るのを嫌がったというエピソードもあります。

母乳をあげる事も嫌がり母はネグレクト状態にあった

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母親は夫が息子達に体罰を与えていても止めることをせず、宅間守と7歳年上の兄はネグレクトの状態にあったと言えます。

母親は息子に母乳を与えることさえ嫌がったという話もあるため、0歳の頃からずっと、宅間守は母親の愛情を受けることがなかった可能性も考えられます。

宅間を身ごもった際「おろしたい」と言っていた

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母親は、第二子を妊娠していることが分かった時、夫に対して堕胎したいと話していたそうです。

しきりに「産んだらあかん」と言ってようですが、これは母親の勘がそう言わせていたのか、それとも元々子供を可愛がる女性ではなかたったため、単に生むのが面倒だった故の発言だったのかは不明です。

中学受験の際には「生まれてこなければよかった」と罵詈雑言を浴びせた

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大阪教育大学附属池田中学校を受験したいと宅間守が言った時、母親は「生まれてこなければよかった」と宅間守の存在を全否定するような発言をしていたそうです。

これは、事件後に警察が押収した宅間守のノートから判明したことです。

宅間には兄が一人いたが宅間の存在と起業の失敗により首を切って自殺

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宅間守の7歳年上の兄は、度重なる弟の奇行と劣悪な家庭環境に精神を蝕まれていき、40代前半で頸動脈を切って自殺をしています。附属池田小事件が起こる前年のことでした。

事業の失敗も自殺の原因の一つとされていますが、自殺する前月には兄は離婚をしており、問題の多い弟の存在が兄の生活にも影を落としていた可能性は十分に考えられるでしょう。

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