附属池田小事件の概要や宅間守の生い立ちは?逃げた教師もいた? 雑学・ライフスタイル

附属池田小事件の概要や宅間守の生い立ちは?逃げた教師もいた?

附属池田小事件は2001年に大阪教育大学附属池田小学校で発生した、宅間守による無差別殺人事件です。この事件では児童を放置して犯人から逃げた教師がいたことも判明し、議論を呼びました。無抵抗の児童を狙った附属池田小事件とはどのような事件だったのか紹介していきます。

目次

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附属池田小事件とは?事件の概要は?

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日本の犯罪史上、類を見ないほど卑劣で残虐な事件とされる附属池田小事件。ここでは、安全なはずの白昼の学校で児童たちが殺人の被害者となった、附属池田小事件の概要を紹介していきます。

2001年6月8日に大阪府池田市の小学校で発生した無差別殺傷事件

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2001年6月8日、大阪市にある小学校に出刃包丁を持った男が小学校に乱入、次々と児童に襲い掛かって殺傷するという無差別殺人事件が起こりました。

この事件が附属池田小事件であり、犯人の宅間守は教員らに取り押さえられたうえ、駆けつけた警官に現行犯逮捕をされました。

現場となったのは大阪教育大学附属池田小学校

宅間守が狙ったのは、国立小学校である大阪教育大学附属池田小学校でした。

後にこの学校の児童をターゲットにした理由について、エリートの子供を殺害した方が死刑になる確率があがるからといった供述をしています。

児童8人が死亡した

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附属池田小事件では、小学1年生の児童が1名、2年生の児童が7名命を落としました。

また児童13名と教員2名の合計15名が怪我を負い、その他の児童にもPTSDが、宅間守を取り押さえた教員らにサバイバーズ・ギルドと呼ばれる激しい後悔の念が残ったことが判明しています。

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附属池田小事件の詳細・事件発生時の状況

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報道時、事件の詳細を聞いた人の誰もが耳を疑ったほど、異色かつ残虐な印象を与えた附属池田小事件。ここでは事件がどのように発生したのか、時系列で附属池田小事件を追っていきます。

2001年6月8日附属池田小学校に宅間が刃物を持ち侵入

2001年6月8日の午前9時40分前後に、無断駐車をしていた白い乗用車が猛スピードで駐車場を出ていく姿が目撃されました。

鬼気迫る様子であったことから、目撃者は「何か問題を起こすに違いない」と不安を感じたと言います。後に、この乗用車を運転していた男は宅間守であった可能性が浮上。

そして宅間守は同日の10時15分前後に大阪教育大学附属池田小学校に到着すると、校庭を横切って東端に位置する2年東組に出刃包丁を携えて侵入しました。

校舎1階の1年生、2年生の教室に入り児童を襲撃

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宅間守は2年東組に侵入すると児童4名を無言のまま出刃包丁で刺し、続いてテラスを使って隣の2年西組に移動。

ここでさらに児童に襲いかかり、今度は廊下から奥にある2年南組に入り5名の児童を襲い、体育の授業で不在であった教室を飛ばして1年南組に侵入したのです。

事件直後、学校側は状況判断が出来ず避難誘導などを怠る

附属池田小学校が起きた後の現在でこそ、学校内に不審者が入り込むことへの警戒心が芽生えたものの、事件当時は学校の敷地内は安全という認識がありました。

そのため、事件発生直前に校庭で宅間守を見かけた職員も、父兄と思い込んで会釈しかしておらず、事件発生後も何が起きているのか現場に居合わせた教員にしか分かりませんでした。

しかも被害があった2年西組の教員は、校内放送を用いることを思いついて教室から逃げ出したものの断念しており、そのせいで避難誘導に大幅な遅れが出たのです。

教師からの指示が無かった為子供がパニックになった

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「トイレに逃げて、鍵をかけてろ!」「校庭に行け!」と児童に指示を出した教師もいましたが、附属池田小事件では、混乱する中で児童全員を専任で避難誘導できる教師が存在しませんでした。

そのためにまだ幼い1年生と2年生という児童は自分達で避難先を考えなければいけなくなり、早く逃げることのできなかった児童が次々に襲われるという悲劇を招いたのです。

宅間は逃げ出す児童を無言で刺した

宅間守は特定の児童を狙って追いかけることはせず、近くにいた児童に襲い掛かっては切りつけていきました。

そのため、侵入時に窓やドアの近くにいた生徒や逃げ遅れて状室内に取り残された生徒が、次々に襲われていったのです。

そして、児童たちを切りつける際に宅間守は一切言葉を発することなく、機械的に犯行を行ったとされます。

教師が椅子を投げつけ宅間は校庭側のテラスへ逃げた

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襲撃を受けた2年東組の担任であった佐藤教諭が椅子を投げつけると、宅間守はテラスに逃亡。

そこから校舎の外に逃げるかと思いきや、今度はテラスを伝って隣の2年に西組に侵入していきました。そして2年西組では、この事件で最多となる被害者を出したのです。

宅間は2年西組へ乱入し児童8人が死傷

2年西組の教室へ入った宅間守は、ここでも8名もの児童を刺していきました。宅間守が侵入した時、担任の女性教員は黒板を向いていたため、異変に気付かなかったと言います。

さらに宅間守が児童に包丁を振り上げている姿を目撃しながら、悲鳴を上げて自分だけ教室の外に逃げ出したのです。

この女性教員が対応が取り沙汰された岩崎真希という教員なのですが、彼女の動向については後ほど詳細に紹介していきます。

男性教諭2人が教室へ向うが一人刺されて大怪我を負う

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続いて休み時間で教員が不在であった2年南組に、宅間守が侵入。児童の悲鳴を聞きつけた担任の田辺教諭が急いで戻り、宅間守を追ってきた2年東組の佐藤教諭と合流、2人で取り押さえようと奮闘しました。

しかし田辺教諭が胸を刺されてしまい、宅間守を逃してしまうのです。

背中を切られた教師が宅間の右手をつかみ顔を切られる

1年南組の児童は音楽室に移動していたため、1階で何が起きているのか知らないまま教室に戻ってきました。

切りつけられた児童を目撃すると担任の河上教諭は、まだ廊下にいた児童らに教室に入らずに逃げるように指示し、自分は宅間守を取り押さえに向かいました。

河上教諭は背中を切りつけられながらも宅間守の右手を掴み、続いて顔も切られましたが、懸命に格闘を続けたと言います。

副校長が加勢し包丁を取り上げ取り押さえた

そこに矢野副校長が駆けつけて加勢、2人がかりで宅間守から包丁を取り上げて、脚を押さえつけたうえで身柄を拘束しました。

この時、時刻は10時25分前後。僅か10分程度の時間で、宅間守はこれだけの惨劇を起こしたのです。

宅間は最後の一人を刺すと「あーしんど」と呟いた

副校長の話によると、取り押さえられる前に宅間守は1年南組で最後の被害者となる児童を刺した後、「あー、しんど(疲れたという意味)」と呟いたと言います。

犯行の中で、宅間守が言葉を発したのはこの一言だけでした。

附属池田小事件の詳細・被害者について

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学校に乱入してきた見ず知らずの男に突然襲われるという信じがたい経験を負わされてしまった、附属池田小事件の被害者たち。

ここでは児童や教員らの被害者について、救助の問題点も含めて紹介していきます。

児童8人が殺害され、児童13名、教諭2名が傷害を負った

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附属池田小事件では1年南組の児童1名、2年西組と南組の生徒があわせて7名、合計で8名の児童が死亡、13名の児童が重軽傷を負いました。

さらに宅間守と格闘した2年南組の田辺教諭と、1年南組の河上教諭が重傷を負いました。

校庭、トイレなどへ逃げ逃げられなかった子が襲われた

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附属池田小事件では、身の危険を感じた児童たちがトイレや校庭などに逃げ出していきました。

しかし、転倒したり恐怖で動けなくなってしまった児童も存在し、そのような逃げ遅れた子供たちが宅間守に襲われたのです。

死亡した8名の児童は20分も放置された

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児童の中には学校付近のスーパーに助けを求めて逃げ込んだ子供もいたうえ、現場にいた教師たちも宅間守を取り押さえることに尽力していたために、誰がどこに逃げたのかが把握できませんでした。

そのため附属池田小事件で宅間守に殺害された児童8名は全員、刺された当初は重傷であったものの一命をとりとめていたにも関わらず、20分もの間放置されたことで失血死してしまったのです。

児童8名は即死ではなく、救命活動の遅れによる失血死が死因

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救助が遅れて失血死をさせてしまっただけにとどまらず、学校側もパニックになっていたことから負傷した児童の緊急搬送に教員が付き添わず、被害者児童の保護者への連絡も遅くなりました。

さらには事件の連絡を受けて駆け付けた保護者が自分の子供を探して構内を駆け回り、救助が遅れたために亡くなってしまった我が子と対面するという悲劇も起こりました。

事件の犯人・宅間守の生い立ちは?幼少〜小学校時代

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附属池田小事件を起こした当時、宅間守は37歳でした。自分の子供であってもおかしくないような6歳から8歳の子供達に次々に手をかけるという凶行に及んだ背景には、一体何があったのでしょうか?

ここでは、附属池田小学校事件の犯人である宅間守の生い立ちについて紹介していきます。

宅間守の画像

上の画像が事件当時の宅間守の写真です。目つきは鋭いものの、事件時には白いシャツを着用してネクタイもしめていたと言い、児童の保護者に間違えても不思議ではない風貌であったのかもしれません。

1963年11月23日に生まれ、幼少期は度々問題を起こした

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1963年11月23日、伊丹市の工場街で宅間守は生まれました。父は工員をしており、母と兄の4人家族であったと言います。

宅間守は幼少時に既に問題行動が目立ち、母親は妊娠時から「この子を産んではいけない気がする」といったことを夫に話していたそうです。

3歳の時に三輪車で国道の中央を走る

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3歳の時には、三輪車で国道の中心を走るという問題行動を起こして大人達を悩ませていたという宅間守。3歳といえば、もう身の危険が及ぶことはやらないといった分別がつく年齢です。

それでもこのような危険な行為を行って交通渋滞を引き起こし、周囲の大人が困る様子を面白がっていたと言います。

小学校では同級生を奴隷と名指しし「宅間様」と呼ばせた

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小学校に入ると問題行動はエスカレートし、自分よりも強い人間には媚びる一方で、力の弱いものには自らを「宅間様」と呼ぶように強要。

まるで奴隷のように扱い、気に入らない行動が見られると暴力を振るっていたそうです。

女子生徒が横切ると唾を吐きかけ、動物虐待も行っていた

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学校では女子生徒に対して唾を吐きかけるなどの嫌がらせもしていたと言う宅間守ですが、校外では動物虐待まで行っていました。

虐待の方法も、捕まえた猫を火のついたドラム缶に入れる、逃げられないように布団で巻いて川に沈めると言った残虐性の高いもので、後の凶行の片鱗が見られます。

乱暴な性格で小学校の時のあだ名は「ゴン太」

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学校では典型的ないじめっ子であった宅間守は、同級生からゴン太というあだ名をつけられていました。

犬のようで可愛らしいあだ名にも感じられますが、関西地方では我が儘やいたずらの酷い子供を指してゴン太と呼ぶと言い、同級生も宅間少年の扱いに手を焼いていたことがうかがえます。

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