有島武郎とは?「或る女」の作家が辿った不倫から心中の運命 社会

有島武郎とは?「或る女」の作家が辿った不倫から心中の運命

有島武郎さんは、華麗な家系に生まれ端正な容姿と類まれな才能に恵まれながら、愛人と非業の死を遂げた文豪です。ここでは、有島武郎さんの「或る女」「小さき者へ」などの作品、衝撃的な心中、オンラインゲーム「文豪とアルケミスト(文アル)」、記念館等をご紹介します。

目次

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有島武郎とは?​

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ここでは、有島武郎さんのプロフィール、小説家としての代表作、生い立ちや人物像などについてご紹介します。

有島武郎のプロフィール

有島武郎さんのプロフィールの概略をご紹介します。

  • 生没年月日:1878年3月4日-1923年6月9日
  • 東京都文京区出身
  • 学習院中等科卒業→札幌農学校(現・北海道大学農学部)卒業
  • ハーバード大学(歴史・経済学専攻)退学

有島武郎は大正時代に活躍した小説家

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有島武郎さんは、小説家・評論家として大正時代に活躍した「白樺派」の文豪です。同じ「白樺派」には志賀直哉さんや武者小路実篤さんがいらっしゃいます。

代表作は「カインの末裔」「或る女」、評論「惜しみなく愛は奪ふ」など

有島武郎さんの代表作には「カインの末裔」「或る女」といった小説、「惜しみなく愛は奪ふ」などの評論があります。

「カインの末裔」は人間の罪深さと信仰の重要性についてを、「或る女」は奔放な女性の半生を描いた小説で、有島武郎さんの息子の森雅之さんが出演された映画にもなっています。

「惜しみなく愛は奪ふ」では、人を愛するということがどういうことかについての有島武郎さんの思想が記されています。詳細は後ほどご紹介します。

良家に生まれ容姿端麗、作家でも成功したが恋に溺れた

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有島武郎さんは大蔵官僚として昇進を重ね、実業家としても成功ししている父のもとに生まれました。容姿も俳優のように端正で、芥川龍之介をも凌ぐ女性人気のある「白樺派」の作家でした。

キリスト教に傾倒したり社会主義思想に触れたりといった一面もあり、また父から譲り受けたニセコの広大な土地を小作人に無償で開放するといった人道的な活動もされています。

家柄も良く知的で、見た目も良く、おまけに奥様を亡くされて独身とあれば持てないはずがなく、かの与謝野晶子さんも有島武郎さんについて「光源氏のような」方だと喩えています。

女性編集者が職業として人気になるきっかけをつくった?

有島武郎さんは、生涯を通して非常に多くの男女に愛され、その多くと主にプラトニックな関わりを持ったことから、非常にモテるのに清潔なイメージが有り、女性人気は圧倒的なものがありました。

桁外れの人気であった有島武郎さんが雨の軽井沢で人妻の編集者である波多野秋子さんと情死した衝撃的な事件は、テレビがない時代の新聞で関東大震災が起こるまでの2ヶ月間、連日報道されました。

作家と密接に関わる編集者という職業も世に知られることとなりました。波多野秋子さんが所属していた中央公論社でも欠員が生じたため補充を募集しており、震災発生時も面接をしていたようです。

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有島武郎は人妻とともに心中した?​

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有島武郎さんは人妻である波多野秋子さんという女性編集者と軽井沢の別荘で首を吊って心中しています。ここではその心中事件についてご紹介します。

眉目秀麗な人気作家と誰もが息を呑むほどの美人人妻が雨の軽井沢で心中という話題性で世間の関心の高さは尋常ではなく、多くの資料が残されています。

大正11年に創刊されたばかりで2年目であった「サンデー毎日」に寄せられた事件についての感想文も3278通に上りました。メールなどで気軽に投稿ではない郵便の時代に、驚異的な投稿数です。

神尾安子と結婚し息子が生まれたが、1916年に妻を病気で亡くす

有島武郎さんは1909年、陸軍少将の神尾光臣氏の次女である神尾安子さんとお見合いにより結婚します。

しかしその後神尾安子さんは結婚からわずか5年ほどで肺結核を患い、1916年に27歳という若さで他界してしまいました。

奥様を亡くされた後の有島武郎さんは、その後も数々の誘惑はありましたが、生涯独身を貫きました。二人の間にできた息子の行光さんは、俳優の森雅之さんとして活躍しています。

1923年に人妻の波多野秋子に出会う

数々の誘惑があり、非常にモテた有島武郎さんが唯一陥落したお相手がいました。女性編集者の波多野秋子さんという女性です。

「銀座を歩くと誰もが振り返る」ような派手なタイプの美人で、当時は珍しいキャリアウーマンでした。また、人妻でもありました。

非常に多くの女性から言い寄られていた有島武郎さんは当初は波多野秋子さんについては特別な感情を抱いておらず、「滑稽じゃないか」と言っており、嫌っていたという説もあります。

2人の愛人関係が夫の波多野春房に知られ、脅迫される

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波多野秋子さんの夫は20歳近く年の離れた、丸の内日本連合火災保険協会の書記長を努められていた波多野春房氏でした。

もともと英語の個人教師と生徒という関係でしたが、生徒であった秋子さんのあまりの美貌に惚れ込んだのでしょう、春房氏は妻子を捨てて秋子さんを妻に迎え、学校まで出し編集者に育てました。

春房氏は有島武郎さんに「この女はくれてやる。だが金をかけ育てた女だ、代価をよこせ。さもなくば警察に突き出す。たとえ払ったところで死ぬまでタカってやるがな」と脅しました。

説得もむなしく2人は軽井沢の別荘で首を吊って自殺

波多野秋子さんの夫の春房氏に上のようなことを言われ、有島武郎さんは「愛する女を金に代えることなどできない。そんなことをするぐらいなら警察に出頭する」と言い、交渉は決裂しました。

死出の旅に出る1923年6月9日の朝、有島武郎さんは波多野秋子さんを連れ、学生時代からの友人で出版社経営の足助素一氏と会い、死ぬ意志を伝えて必死の説得を受けています。

二人はその後列車で軽井沢へ向かい、深夜に降り立った軽井沢駅から約3キロ離れた旧三笠ホテル至近の有島武郎さんの別荘まで雨の中を歩いて向かっています。

武郎と秋子は同日夜、新橋駅から金沢行きの急行列車に乗り、深夜、雨のそぼ降る軽井沢に着く。有島別邸で最後の愛を交わし、翌日未明、応接室の梁(は り)に女物の伊達巻としごき(腰帯)をかけ、首を吊(つ)って死んだ。

(引用:Tableau in mind …… Ⅱ)

数通の遺書と辞世の歌を遺した有島武郎

有島武郎さんと波多野秋子さんの二人は列車の中で、それぞれの大切な人達に宛てて数通の遺書をしたためています。

その中でもとりわけ有名なものが、最後まで有島武郎さんの死を食い止めようとした親友の足助素一氏に宛てた以下のものでした。遺書は鉛筆でしたためられていました。

…僕はこの挙を少しも悔ゐず唯十全の満足の中にある。秋子も亦同様。…

山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降ってゐる。

私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしてゐる。

森厳だとか悲壮だとかいへばいへる光景だが、実際私たちは戯れつゝある二人の小児に等しい。

愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかった。

恐らく私達の死骸は腐乱して発見されるだらう。

(引用:NAVER)

そして辞世の句もまた、有島武郎さんの東京の自宅に10首ほど残されていたのが発見されました。その中の一つが以下のものです。

修禅する人の如くに世にそむき静かに恋の門にのぞまむ

道はなし世に道は無し心して荒野の土に汝が足を置け

雲に入るみさごの如き一筋の恋とし知れば心は足りぬ 有島武郎

(引用:週間長野記事アーカイブ)

遺体発見まで1ヶ月もかかり、梅雨時だったため遺体の腐乱が激しかったという

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有島武郎さんが最期の場所として選んだ軽井沢は湿気の多いところで、季節も6月の梅雨時でした。二人は行き先も告げず軽装に風呂敷包み一つで出かけ、別荘の鍵を壊して中に入っています。

別荘には管理人がいましたが、空気の入れ替えのために訪れた別荘「浄月庵」に男女の下駄が脱ぎ捨てられているのを見て驚き、確認のために中へ入り、二人の遺体を発見しました。

一階の応接間のテーブルの上に椅子が重ねられ、天井の梁から吊るされた二人の亡骸は性別もわからないほど腐敗し、天井から床まで滝のように蛆が湧く光景は壮絶なものであったようです。

応接間の梁の上に伊達巻と腰紐、きつく縛ばられ、茫洋と柱のように垂れさがる二つの黒い人影。

ほぼひと月が過きて、蛆、べっとりと這い、腐乱した肉塊の激しい臭気、応接間に充満し、黒い人影はなお動かない。一つの人影が人気作家有島武郎、他の一つは人妻波多野秋子であった。

(引用:評伝 有島武郎)

有島武郎の代表作品集

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白樺派の代表的文豪として名を馳せた有島武郎さんの代表作品をご紹介します。

愛に生きる女の運命を描いた「或る女」

「或る女」は、有島武郎さんの1911年の長編小説で、同年1月に「白樺」で連載が開始し1913年3月まで16回にわたりこの小説の前半部が掲載されました。

当初の題名は「或る女のグリンプス」であったのを後半の描き下ろしの完成時には「或る女」として発表します。

この作品は後の1954年に映画化され、1960年台には2度のテレビドラマ化をされています。あらすじは以下のようなものです。

美貌で才気溢れる早月(さつき)葉子は、従軍記者として名をはせた詩人・木部と恋愛結婚するが、2カ月で離婚。その後、婚約者・木村の待つアメリカへと渡る船中で、事務長・倉地のたくましい魅力の虜となり、そのまま帰国してしまう。

(引用:新潮社)

北海道を舞台に、生きるために罪を犯す男を描いた「カインの末裔」

1916(大正5)年に妻の安子さんを病で失い、本格的に作家活動を開始した直後の1917年に発表された「カインの末裔」もまた、有島武郎さんの代表作品です。

キリスト教の宗教観をベースとした作品で、ブックレビューに多いワードが「因果応報」です。

2007年に奥秀太郎監督によって川崎を舞台としたストーリーに再構築されて映画化され、「暴力やセックスの衝撃的な描写や一貫した暗く重いトーンで異彩を放った」と言われています。

獰猛な欲望と生命力に突き動かされる農夫、仁右衛門。人間の前に立ちはだかり圧倒する自然の猛威。羊蹄山のふもと北の大地を舞台に、無知ゆえに罪を犯す主人公の焦がすような生のいとなみが描かれる。

(引用:アマゾン)

夢と現実の間で苦しむ若者を描いた「生れいづる悩み」

1918年に発表された「生れ出づる悩み」もまた、有島武郎さんによる小説です。あらすじは以下のようなものです。

“君”という語りかけで、すぐれた画才をもちながらも貧しさゆえに漁夫として生きなければならず、烈しい労働と不屈な芸術的意欲の相剋の間で逞しく生きる若者によせた限りない人間愛の書

(引用:アマゾン)

この作品に出てくる「君」にはモデルがあり、北海道出身の木田金次郎という実際に交友のあった人物です。

やりたいことがありながらも実際には生活に追われてなかなか思うようには時間が取れないという葛藤を抱える「君」には現代でも多くの人が共感し、励まされているようです。

子供達に向けて書き残した手記とも言われる「小さき者へ」

1918年に発表された「小さき者へ」は、妻の安子さんを結核でなくしたばかりの有島武郎さんが、自らの幼い3人の子供に向けて書いた作品であると言われています。

この作品の中では「お前たちが大きくなるまで生きているかわからない」と、自分が居なくなった後のことについても触れており、実際にその5年後に亡くなっています。

アマゾンのレビューは「皆が親の心持ちを知るためにこのように書き残されたものがあるといいと思います」「改めて子を想う親の気持ち(愛情)を再認識する」等非常に好評です。

父である「私」は、己の子供たちが自分を乗り越えていくことを願い、「行け。勇んで。小さき者よ」と鼓舞する――。

(引用:アマゾン)

自身の体験に基づいて創作された童話「一房の葡萄」

「一房の葡萄」は1920年に発表された、有島武郎さんの横浜英和学校での体験を基に書かれた最初の創作童話です。単行本は有島武郎さん自らが装幀・描画を手がけています。

横浜の外人居留区にある学校に通う「僕」は、絵が好きな内気な少年。ある日、どうしても出したい色を出すために、同じクラスのジムの絵の具を盗んでしまう。そんな「僕」に対してアメリカ人の女教師は……。

(引用:アマゾン)

小さな罪を犯してしまった「僕」を咎めるでもなく、優しく一房の葡萄を持たせた女教師の行動が不思議であると評判のため少し葡萄について調べてみました。

有島武郎さんはキリスト教のバックグラウンドをお持ちなので、聖書にも頻繁に出てくるイエスの象徴である葡萄を赦しと信仰のモチーフとして登場させた可能性があります。

有島武郎の作品が詰まった「有島武郎全集」

有島武郎さんの書き遺したもののすべてを網羅した全集も発売されています。全15巻別冊1巻セットで、少年期の習作から日記までを集めています。

別冊の内容は著作年譜や有島家の資料、追悼特集や追想を扱っており、この全集の監修は有島武郎さんの弟さんの里見弴さんらで、全集のお値段は12万3千円となっています。

このような全集が刊行されるほど、有島武郎さんが偉大な文豪であるということでしょう。

その真摯な芸術的・思想的営為の全貌を捉えるために、断簡零墨に至る全作品と膨大な日記・原稿・書簡を収録した決定版。

(引用:筑摩書房)

評論「惜しみなく愛は奪ふ」

1920年に発表された「惜しみなく愛は奪ふ」は有島武郎さんのこころの内をすべてさらけ出したかのような筆致で綴られており、内面の苦悩が見て取れます。

「私はあまりに自分を裸にし過ぎる。然しこれを書き抜かないと、(中略)本当は私も強い人になりたい。」という一説が胸を打ちます。

偽善者になりたくないという痛切な想いが伝わり、この煩悶が3年後に命を絶つことになることとの結びつきと無関係とは考えがたい印象を残します。

自身のキリスト教徒としての信仰生活を錯誤だったとする総括し、自らの「個性」へ回帰することを宣言している。また、人間の生活を「習性的生活」「智的生活」「本能的生活」の三段階に分け、真に個性を伸ばすことのできる理想的な生活である「本能的生活」に赴くべきと説いている。

(引用:アマゾン)

評論「宣言一つ」

1922年に発表された「宣言一つ」は、有島武郎さんの感じている無力感が伝わってきます。

ニセコの土地を小作人に開放したり、貧しいものに心を寄せてきた有島武郎さんですが、ご自身はそんな彼らとは正反対の立場にあることから葛藤を感じています。

「第四階級」と称せられる労働者の人々が覚醒し、社会運動家、社会学者の指導に疑いを持ち始め、自分たちの問題の根本的解決者は、自分たち自身であると自覚した事を説いた。(中略)有島は、インテリゲンチャとしての絶望的な敗北宣言をしたのだった。彼自身は裕福な家庭に育った。為に第四階級の実態というものを理解することはできない。その点で彼は、第四階級のために弁明し立論し、運動する資格が無い事を、痛切に感じていた。

(引用:小人閑居)

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