【三菱銀行人質事件】梅川昭美の生い立ち、角田美代子との関係は? 社会

【三菱銀行人質事件】梅川昭美の生い立ち、角田美代子との関係は?

1979年日本全土を騒然とさせた大事件「三菱銀行人質事件」の犯人梅川昭美の生い立ちを徹底解説します。後半では三菱銀行人質事件の詳しい経緯や人質同士に性行為をさせたとの噂、尼崎殺人事件の主犯角田美代子と有名な極道鳴海清との三角関係の噂など詳しく紹介していきます。

目次

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三菱銀行人質事件とは?事件の概要は?

「三菱銀行人質事件」は1979年1月26日、大阪府大阪市にある三菱銀行北畠支店を梅川昭美という当時30歳の男が銀行強盗目的で襲撃し、4人を猟銃で撃って殺害、人質をとって立てこもるなどした事件です。

今回はこの事件の犯人である梅川昭美に焦点を当てますが、その前にまずは、梅川の起こした「三菱銀行人質事件」の概要について簡単に説明していきます。

1979年1月26日に三菱銀行で人質をとって立てこもる事件が発生

1979年(昭和54年)1月26日、大阪府大阪市住吉区万代にある三菱銀行北畠支店が猟銃を持った男に襲撃されます。男は梅川昭美という当時30歳の男で、猟銃を発砲しながら金を要求します。

しかし、梅川昭美の予想よりも早く現場に警察が到着したため梅川は逃走を断念、その場にいた行員と客を人質にとって立てこもることになります。

犯人の梅川昭美は銀行員と警察官を殺害

犯人の梅川昭美は襲撃した直後に非常電話で警察に通報しようとした男性銀行員を即座に射殺、その後、隙を見て逃げ出した客からの通報で現場にいち早く駆けつけた警察官も猟銃で射殺しています。

その後、さらに警察官1人を射殺し、銀行内に籠城を開始した梅川昭美は支店長を目の前に立たせ「素早く金を用意しなかったからこんな事になった」と激昂して至近距離で発砲射殺しています。

突入した機動隊により犯人が射殺されたことで解決した

その後、残った人質を盾に籠城を続けた梅川昭美でしたが、立てこもり開始から2日後の1月28日、梅川昭美の一瞬の隙をついて機動隊(特殊部隊)が突入し、梅川昭美に対して発砲、射殺し事件は解決となりました。

この事件の簡単な概要は以上になります。事件の詳細な顛末については、犯人梅川昭美の生い立ちや事件を起こすまでの経緯を紹介した後、改めて詳しく書いていきます。

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犯人・梅川昭美の生い立ち【幼少期】

「三菱銀行人質事件」は、現在まで語り継がれる有名な凶悪事件の一つです。犯人の梅川昭美は一体何故このような凶悪犯罪を犯すに至ったのでしょうか?

ここからは、その真実に近づくため犯人梅川昭美の生い立ちを紹介します。まずは梅川昭美の幼少期、誕生から小学校に入学するまでの経歴を追っていきましょう。

昭和23年に広島県で父親46歳母親42歳の時に生まれた

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梅川昭美は、昭和23年(1948年)3月1日、広島県佐伯郡小方村(現在の大竹市)で誕生しました。

父は新興人絹会社(現在の三菱レイヨン)の大竹工場に勤める配管工の梅川繁一(当時46歳)、母は同じく新興人絹会社に務めており、会社の独身寮の寮母として働く梅川静子(当時42歳)でした。

梅川昭美のこの両親は、2人とも再婚で職場で知り合っての結婚だったそうです。2人にとっては40代になってからできた待望の1人息子という事もあり、幼い日の梅川昭美をとても可愛がって育てたそうです。

小学生の頃は目立つ子供ではなく成績も中くらい

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昭和29年(1954年)4月梅川昭美は小方町立緒方小学校に入学します。

小学校の成績は中くらいで大人しい性格もあって目立つ子供ではなかったようですが、細面で可愛らしい顔立ちもあって近所の大人達からは可愛がられたという事でした。

負けず嫌いで近所の子供と喧嘩をしていた

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ただし、梅川昭美は、芯の部分ではかなり気が強く負けず嫌いな面があったようです。小学校3年生の時、梅川昭美は同じ社宅に住む子供と喧嘩になります。

もともと小柄で細身の体格であった梅川昭美は、腕力では叶わず負けてしまいますが、その後すぐに自宅へと駆け戻り、おもちゃの鉄の刀を持ち出して相手を殴りつけ怪我を負わせています。

普段から大人しい子供と見られていた梅川昭美の起こしたこの事件に、周囲の大人達はかなり驚いたとされます。

姉もいたが梅川が生まれる前に死亡している

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梅川昭美には実は姉がいたようですが、梅川昭美が生まれる前に亡くなっています。この事もあってか梅川昭美の両親、特に母親は、梅川昭美のことをかなり甘やかして育てたとも言われています。

昭和31年父親の椎間板ヘルニアが悪化し退職、極貧の中で過ごしていた

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幼少期は貧乏ながらもそれなりに幸福な家庭で育った梅川昭美でしたが、昭和31年(1956年)父の繁一が持病の椎間板ヘルニアとリューマチが悪化、休職を余儀なくされます。

その後、2年間で休職期間が切れ、繁一は長年勤めていた会社を退職することになり、それ以降、梅川昭美は極貧の幼少期を送ることになるのです。

父親は女癖が悪く闇金融に手を出すなど評判が悪かった

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元々、梅川昭美の父繁一の評判はあまり良いものではありませんでした。休職中の2年の間に頼母子講にハマりこみ、闇金融に手を出して社宅から集めた資金をかなり焦げ付かせるなどしています。

さらに、女癖も悪かったようで、情婦を抱え一時はその女の家に転がり込んで家を出てしまい、梅川昭美もその女の家で一時的に生活させられた事もあったようです。

昭和33年両親が離婚し梅川は父親に引き取られる

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父の繁一が会社を退職した後も、情けのような形でしばらくの間梅川家は社宅に住むことを許されていました。しかし、父繁一の評判の悪さもあって、ほどなくして正式に退去を迫られています。

梅川昭美の両親はこの頃には互いへの気持ちも完全に失っており、職も住むところも失われた2人は昭和33年(1958年)正式に離婚することとなります。

梅川昭美は父繁一に引き取られる事になり、父の実家である香川県引田町へ行く事になります。梅川昭美は駅で列車を待ちながら母の姿を探しますが、母は朝から仕事に行っておりついに現れなかったそうです。

父親の郷里の香川県へ連れて行かれ現地の小学校へ入学

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この時、梅川昭美は小学校5年生になっていましたが、母が駅にあわられなかった事で母との永久の別れかもしれないと感じたと言います。

その後、梅川昭美は父繁一に連れられ、父の故郷香川県大川郡引田町の実家へと向かいます。そこで地元の小学校に転入となりますが、よそ者である梅川昭美が地元の子供達に受け入れらることはなかったようです。

一緒に遊んでもらえないのはもちろんのこと、陰湿な嫌がらせや差別的な暴言なども受けたとされます。

父親は長男だったが家督を継がなかった為冷遇されていた

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父の繁一は両親に反目して若い頃家を出ており、実家の農家は弟が継いでいました。その弟一家や親戚らは突然帰ってきた繁一とその息子を歓迎せず、仕方がなく家の敷地の納屋を改装して父子を住まわせています。

弟一家(梅川昭美にとっては叔父一家)の子供達は毎晩両親とともにテレビを見て食卓を囲んでいるのに対して、梅川昭美は薄暗いランプの明かりの下で毎晩1人布団の中で漫画本を読んで過ごしていたそうです。

犯人・梅川昭美の生い立ち【母との生活】

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父に連れられ、あまりにも暗い少年期を送る事になってしまった梅川昭美は、その後母の元へと逃げ出す事になります。

続いては、梅川昭美の小学校卒業から高校入学にかけての数年間で次第に非行に走っていく時期について書いてきます。

梅川は父親との生活を嫌い大竹市に住む母親の元へ戻った

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父の故郷である引田町での生活に嫌気がさした梅川昭美は、昭和33年の暮れに父の財布から小銭を盗み出すと家出し、母の暮らす大竹市へと向かいます。

母は突然戻ってきた息子を暖かく迎えたようで、住み込みで働いていた寮を出て、その近くの離れを借りて母子水入らずの生活を始めています。

母親は工場の炊事婦として深夜まで働き放任されて育つ

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しかし、母の静子は相変わらず仕事が忙しく、独身寮の社員の食事の支度から掃除、洗濯までを全てこなしていたため、帰宅するのはいつも深夜でした。

当然、梅川昭美は深夜まで1人きりで母を待って過ごす事になり放任と言えるような生活を送る事になります。母はその事を負い目に感じてか、悪さをしても叱らないなど、ことさら息子を甘やかすようになったようです。

梅川の要求が受け入れられないと梅川は母親に暴力を振るった

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甘やかされた梅川昭美は、周りの友人たちが高度経済成長に支えられてどんどんと裕福になっていくのに、母子家庭である自分だけは貧しく、欲しいものが何も買ってもらえない事に不満を抱くようになります。

収入の少ない母を恨むようになり、要求が受け入れらないと母に対して髪の毛を掴んで引きずり回す、首を絞める、刃物を突きつけるなどの暴力を振るうようになります。

中学になると喫煙、暴行などで度々補導された

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中学になると梅川昭美の非行はさらにエスカレートしていき、喫煙や暴行などで補導される事が増え、母の鈴子も度々警察署の少年課に呼び出される事になったそうです。

それでも梅川昭美は中学の成績はそれほど悪くはなく、だいたい中くらいの成績を維持していたそうです。中でも国語や工作は得意で、優秀な部類に入っていたと言います。

広島工業大学附属工業高等学校へ入学するがオートバイを盗み逮捕

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中学卒業が近くなると、母の静子はなんとか高校には行かせたいとツテを求めて町の有力者を訪ねるなどしています。しかしその後、梅川昭美は県立の宮島工業高校を受験するものの失敗してしまいます。

滑り止めに受けていた広島工大付属工業高校へと進学しますが、この進学を契機にして梅川昭美の素行はさらに悪化していく事になるのです。

高校に入学するとすぐに梅川昭美は素行が荒れ始め、オートバイを盗む、トラックの荷台から品物を盗むなどを繰り返し逮捕されています。

高校入学から4ヶ月で退学

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そして、この逮捕が原因か高校入学からわずか4ヶ月で退学させられたとされています。

ただし、退学の原因は逮捕ではなく、梅川昭美は夏休みを境に学校に来なくなり、心配した教師が母を訪ねると母は「退学させて欲しい」とだけ言い、そのまま退学となったとの説もあります。

両親は復縁し梅川の更生を図るが梅川はすぐに家出

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梅川昭美が補導された時、母親に応対した少年係の警察官が「片親なのが非行の原因」と指摘しています。それを気に病んだ母は、父親と連絡を取り、再び息子のために同居する事に決め引田町へ移ります。

しかし、もはや梅川昭美はそんな事を求めてはいませんでした。わずか2、3日だけ両親と暮らした梅川昭美は、父の財布から有り金を盗むと家を飛び出し、再び大竹市の非行仲間の元へと舞い戻ります。

その後、梅川昭美は仲間の家を転々としながら生活し、兄貴と呼ばれ慕われている年長の建設作業員の家へと転がり込んでいます。この間梅川昭美はほとんど働かず、無為の日々を過ごしていたようです。

梅川昭美が最初に起こした事件

「兄貴」の元に転がり込んだ梅川昭美でしたが、兄貴は結婚し夫婦で岩国市内の狭いアパートに暮らしていました。

面倒見の良い「兄貴」は転がり込んだ梅川昭美を邪魔にする事なく面倒見てくれたようですが、梅川昭美は兄貴とその妻にとって自分は邪魔だろうなと気にするようになります。

かといって出ていくお金もない梅川昭美は、どこかから金を盗んで自立しようという考えを持つに至ります。ここではそんな梅川昭美が起こした最初の強盗殺人事件について書いてきます。

15歳の時に大竹市内の土建業者へ強盗目的で侵入

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どこかから金を盗んで自立しようと目論んだ15歳の梅川昭美は、以前兄貴についてアルバイトをした事がある土建業者社長の大竹市内の自宅へと強盗目的で押し入ります。

社長の義妹をメッタ刺しにし殺害金庫を奪い逮捕された

この時、この家には当時21歳の社長の義妹(社長の弟の妻)が1人で留守番をしていました。梅川昭美は社長に用があるふりをして家に上がりこむと、さりげない会話で他に人が誰もいない事を確認します。

そして、両手に握ったナイフを義妹の胸に力一杯突き刺し、倒れこんできた義妹をさらに複数回続けざまに突き刺します。さらに梅川昭美は、倒れこんだ義妹の上に馬乗りになると首を両手で締め付け殺害。

そして梅川昭美は、居間の押入れの中にあった、現金1万9千円、株券11枚、預金通帳などが保管された金庫を持ち出して逃走しますが、目撃者がいたことからその後すぐに逮捕されています。

少年法により山口の少年院へ1年程送致収容された

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18歳以上の者が犯した強盗殺人は死刑か無期懲役ですが、当時16歳未満であった梅川昭美は、少年法によって実刑に科せられることなく、中等少年院への送致が決定しています。

当初、岡山中等少年院に入れられた梅川昭美でしたが、脱走を試みて詰まったため特別少年院である新光学院へと移され、そこで役1年間ほど収容されています。

強盗殺人について「邪魔だから殺した」などと発言

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この強盗殺人の取り調べの時、梅川昭美は一切動揺することなく冷静な様子で受け答えしていたと言います。

そこで梅川昭美は「(被害者を)邪魔だから殺した」「他の奴ら、皆うまいこと金儲けしてるのに、俺だけいつもピィピィや、こんなの民主主義やない」などと供述したとされます。

梅川昭美が三菱銀行人質事件を起こすまでの経緯

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約1年で少年院を出所した梅川昭美は、それから大阪府に出て10年ほどキャバクラのバーテンダーやフロアマネージャーなどをしながら生活しています。この間には犯罪などは犯していません。

そして、30歳になった昭和54年(1979年)に三菱銀行人質事件を引き起こすことになるのですが、ここでは事件に至るまでの経緯を見ていきます。

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