上申書殺人事件の概要は?死刑執行を延長するための告発だった? 社会

上申書殺人事件の概要は?死刑執行を延長するための告発だった?

目次

[表示]

平成12年後藤は斎藤正二を仲間の小野寺宣之と共謀し暴行

Ella_87 / Pixabay

平成12年(2000年)7月30日の未明、後藤良次は茨城県常陸太田市在住の人材斡旋業斎藤正二さん(当時33歳)に対して面子を潰されたという抽象的な理由で激怒します。

そして、後藤良次は元暴力団員の舎弟、小野寺宣之(当時33歳)と共謀して斎藤正二さんに暴行を加えます。

両手足を縛り那珂川に投げ込み殺害

andrejcook / Pixabay

その後後藤良次は、暴行を受けてぐったりとする斎藤正二さんの両手両足をテープなどで縛り上げ(簀巻き状態にしたとの資料も存在)そのまま那珂川に橋の袂から投げ込んで溺死させてしまいます。

知人の小堀展史の自宅へ侵入し

jplenio / Pixabay

さらに同年8月20日、後藤良次は栃木県宇都宮市に住む知人の自動車販売業小堀展史さん(当時37歳)の自宅マンションに、4人の舎弟を引き連れて押し入ります。

後藤良次は小堀展史さんに対して不義理を働いたというまたしても抽象的な理由で因縁をつけます。

小堀さんら4人を縛り監禁

PIRO4D / Pixabay

そして、後藤良次ら5人はその場に居合わせた4人の両手両足を縛って監禁状態にしてしまいます。

4人に高濃度の覚醒剤を投与し女性薬物中毒で死亡

qimono / Pixabay

後藤良次らは、4人に高濃度の覚せい剤を注射するなどし、そのうちの1人当時24歳の飲食店従業員小林潤美さんを急性薬物中毒にして死亡させます。

残り3人は刃物で刺し自宅に放火

さらに、残りの3人に対しては刃物で胸などを複数回刺すなどした後、現場に灯油を蒔いた上に放火し、その場から逃走します。

後藤らが逃走後、被害者男性が消火し3人は重軽傷を負った

ronjohns2 / Pixabay

後藤良次らの逃走後、生き残っていた3人のうちの1人がなんとか拘束を解いて脱出し、部屋の消火に成功したため焼死はまぬがれますが、3人とも重軽傷を負っています。

平成15年2月24日後藤に死刑判決が言い渡される

TPHeinz / Pixabay

その後、後藤良次らはこの事件で逮捕され、平成15年(2003年)2月24日、後藤良次に対して死刑判決が言い渡されます。

この一審判決を不服として後藤良次は控訴しますが、2004年7月6日東京高裁がこの控訴を棄却します。後藤良次はこれも不服として上告しています。

この上告中のタイミング2005年に、後藤良次は「上申書殺人事件」での3件の告発を行なっています。

平成19年9月28日後藤の死刑が確定

Free-Photos / Pixabay

そして、2007年9月28日、最高裁判所は一審判決を支持して後藤良次の上告を棄却し死刑判決が確定する事になります。

ここでの死刑判決は上申書提出後も覆らなかった

mohamed_hassan / Pixabay

後藤良次がどういったことを狙って、三上静雄と共謀して行なった3件の凶悪事件を上申書を利用して告発したのかは不明ですが、この上申書提出後も後藤良次の死刑判決は覆りませんでした。

もっとも、新たに自分が犯した凶悪犯罪を告白した以上、罪が重くなることを覚悟の上での行動なのは明白であり、その時点で後藤良次が自分が死刑になる事を半ば受け入れていたのだと考えるのが自然でしょう。

共犯の小野寺は無期懲役で現在も服役中

Ichigo121212 / Pixabay

ちなみに、宇都宮殺人事件の共犯者である小野寺宣之はこの事件え無期懲役の判決が確定しており、現在も服役中です。また、後藤良次の死刑も2019年7月現在未だ執行されていません。

後藤良次の生い立ち

Pexels / Pixabay

ここまで見てきたように数々の極悪非道な事件を起こしてきた後藤良次とはどのような人生を送ってきたのでしょうか?これまでの後藤良次の生い立ちを見ていきましょう。

後藤良次の画像

まずは後藤良次の顔画像を紹介します。解像度の低い写真しか出回っていないため、はっきりとはわかりませんがパンチパーマにヒゲを生やし、昭和期の典型的な極道者という雰囲気があります。

昭和33年に栃木県で3人兄弟の次男として生まれる

louisredon / Pixabay

後藤良次は昭和33年(1958年)7月24日に栃木県宇都宮市の簗瀬町に3人兄弟の次男として誕生したと言われています。

14歳の頃から窃盗、暴力行為など犯罪を犯し度々少年院に収監されていた

Fifaliana-joy / Pixabay

後藤良次は幼少期から乱暴で粗暴な性格だったようで、幼少期から問題行動を繰り返していたとされます。14歳の頃には窃盗や暴力行為(傷害)などを繰り返し、度々少年院に収監されていました。

後藤良次を直接取材した新潮45の元記者宮本太一さんは後藤良次を「善悪の判断力や倫理の規範が欠けた筋金入り犯罪者」と評しています。

16歳の頃に暴力団組員となり器物損壊などで再び少年院に収監

WenPhotos / Pixabay

札付きのワルとして少年時代を送った後藤良次は、指定暴力団稲川会系の幹部の知り合いができ、そのツテで16歳にして暴力団組員になっています。

この頃、器物損壊罪や窃盗罪などで捕まり、再び少年院へ送致されています。

その後も恐喝や殺人、覚醒剤などの犯罪を繰り返した

nidan / Pixabay

後藤良次はさらに、19歳で器物損壊で特別少年院へ、20歳で公務執行妨害および傷害で逮捕され久里浜の特別少年院へと送致されますがそこで職員とトラブルを起こして乱暴を働き懲役1年4ヶ月の判決を受けます。

22歳でまたもや、住居侵入、窃盗、器物損壊の罪で逮捕され懲役10ヶ月の判決を受け水戸刑務所に服役しています。その他にも覚せい剤など、後藤良次は生まれついての凶悪犯と言えるような少年期を送っています。

23歳の時に稲川会系の暴力団組織の組員となり、28歳で組支部長へと昇格しています。この間はしばらく逮捕などされておらず、組に所属した事である程度落ち着いた生活を送っていたものと思われます。

31歳の頃に対立する暴力団組長を射殺

Alexas_Fotos / Pixabay

しかし、31歳の頃に所属暴力団の敵対関係にあった住吉会系の諏訪組の組長を襲撃して射殺し、自ら出頭して逮捕されています。この事件は証拠不十分という事で処分保留、不起訴となっています。

事件は不起訴になるが後藤は暴力団組長となる

Vitabello / Pixabay

この事件が所属組織内での出世につながったのか、2年後の33歳の頃に前橋市に戻って住吉会総長の直参になったとされます。

そのさらに2年後の35歳頃、後藤良次は「後良組」という組みを新たに構え、直参の組長の1人となっています。この時点までは、暴力団組織の中では順調な出世だといえます。

しかし、後藤良次は元々の凶暴な性格から暴力団関係者からも何をするかわからない男として危険視されており「大前田の殺し屋」などと呼ばれて距離を置かれていた様です。

福島刑務所で4年間服役後39歳の時に仮出所

Rock77 / Pixabay

こうした凶暴な性格が災いしてか、「後良組」を構えてすぐに暴力事件を起こし、銃刀法違反、火薬類取締法違反、覚せい剤取締法違反などで逮捕されて懲役刑を受け、福島刑務所に服役します。

4年間服役した後、39歳で仮出所となり、これを機に生まれ故郷の栃木県宇都宮市に戻り「後藤組」と組名を改めて再興を目指しますが上手くいきませんでした。

この頃から、後藤良次は暴力団の世界でも出世コースから外れてしまったと言えるでしょう。

茨城県に移り住みここで三上と出会う

cocoparisienne / Pixabay

宇都宮市に戻った年、後藤良次は自動車の駐車違反でキップを切られた際に、女性巡査を脅して違反キップを奪い取りそれを破り捨てたとして、公務執行妨害で逮捕状が出てしまいます。

これから逃れるために後藤良次は宇都宮市を離れることになり、内縁の妻の実家があり、かつての暴力団仲間のいる栃木県水戸市へと流れることになります。

そして、この頃に後藤良次は不動産関係の仕事をしていた三上静雄と知り合い、堅気に戻りたいから自分を使って欲しいと頼み込み、以降「先生」と慕う様になります。

後藤には内縁の妻がいた

Free-Photos / Pixabay

この頃、後藤良次には内縁の妻がおり、その内縁の妻の実家は茨城県水戸市にありました。この内縁の妻との縁を後藤良次は逮捕後に既にきっています。

後藤良次は逮捕後、とてもこの内縁の妻を案じており、自分のどうしようもない人生に巻き込みたくないという理由で、この内縁の妻からの面会を頑なに断り、差し入れなども拒否しています。

上申書を提出する際内縁の妻と身元引受指定を解除

さらに、後藤良次は上申書を茨城県警に提出する前に、この内縁の妻との身元引き受け人指定を解除します。

これは、後藤良次が上申書を提出することで、メディアなどの取材が内縁の妻にまで及び迷惑をかける事を避けたかったためだそうです。

こうした点からは、後藤良次は罪のない人間の命を多数奪った極悪人でありながら、極道として一定の筋を通すタイプであった事が推測できます。

拘置所の面会も断り完全に縁を切った

Tumisu / Pixabay

また、内縁の妻は親身になり、拘置所内の後藤良次に度々面会に訪れ、差し入れも入れようとしますが、これを後藤良次は頑なに断っています。

こうして後藤良次は内縁の妻との関係を完全に縁を切る様にしています。自分のどうしようもない人生にこれ以上巻き込みたくないという思いからの行動だったとされます。

後藤が40歳の時に三上に出会った

TeroVesalainen / Pixabay

話が前後してしまいますが、後藤良次が三上静雄と出会ったのは40歳の頃だとされています。

この頃から後藤良次の金回りが急に良くなり、内縁の妻に80万円から100万円とも言える高額な生活費を毎月渡していたとされますが、これは三上と共謀した極悪犯罪の結果得た金だったのでしょう。

後藤は不動産について勉強するため三上と親密になった

Free-Photos / Pixabay

当初、後藤良次は不動産業を勉強して暴力団の世界から足を洗い堅気に戻ろうとしていた様です。そのために三上静雄を先生と仰いで不動産業の教えを請うたのだそうです。

しかし、実際には三上静雄は後藤良次以上の極悪人でした。最低限の義理人情を持ち合わせていた後藤良次に対して三上静雄は一切の情も持ち合わせない非道な悪魔の様な人物でした。

この出会いが、後藤良次をさらなる地獄へと導いってしまったことは間違い無いでしょう。

47歳の時に「新潮45」の記者に三上を告発する内容の取材を依頼した

Alexas_Fotos / Pixabay

そして、ここまでにも書いてきた様に後藤良次は三上静雄の指示のもとに凶悪な犯罪を繰り返していきます。その後、それとは別件で逮捕される事になります。

その裁判で死刑判決を受け、拘置所の中で何が後藤良次の胸に去来したのかはわかりませんが、後藤良次は三上静雄への復讐を決め上申書を用いた告発を行うため動き始めます。

そして、後藤良次は47歳の時なんとかこの事実を世に出したいと考え、ツテをたどって「新潮45」の記者である宮本太一さんにコンタクトを取り、三上の告発への取材を依頼したのでした。

三上静男の生い立ち

webandi / Pixabay

続いては、後藤良次が告発した事で明るみに出た世紀の極悪犯罪者三上静雄の生い立ちについても見ていきましょう。この悪魔の様な人物は一体どの様な人生を送ってきたのでしょうか?

三上静男の画像

まずは三上静雄の画像をチェックしていきます。一見するとごく普通の赤ら顔の初老の男性に見えます。この男が、自分の利益のためだけになんの恨みもない多数の人間を殺害したとはとても信じられません。

しかし、このごく普通の風貌で、三上静雄はまともな人間には決してできない凶悪犯罪を平然と繰り返していたのです。

飼っていた鳩やニワトリの首を絞め殺す事を楽しんでいた

Estefano / Pixabay

後藤良次は、三上静雄が動物虐待を繰り返していた事を告発しています。

後藤良次が言うには三上静雄は飼っていた鳩を蹴り上げたり、ニワトリの首を絞めて殺したりする事を恍惚とした表情浮かべながら楽しんでいたそうです。

NEXT:茨城県で無免許で不動産取引を行っていた
3/5