オノヨーコとは?ジョンレノンと死別後、現在の活動は?認知症? エンタメ

オノヨーコとは?ジョンレノンと死別後、現在の活動は?認知症?

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いつまでも活動を続ける姿は、世間に新たな価値観を投げかけている

オノヨーコさんの活動については様々なバッシングがありますが、それを跳ねのけて表現していく強さは多くの人にインパクトを与えています。

現在は病気と闘いながらTwitterやFacebookから世界中の人々にメッセージを送り続けています。

「ヨーコは、Twitterをどのように使えばいいのか、しっかりと理解しており、自身のスピリチュアルな思想について、頻繁に発信している。「夢」「踊る」は、お気に入りのキーワード」

(引用:ハピズム)

オノヨーコの家系図がすごい!?

オノヨーコさんについてはその家系図がすごいと話題になっています。オノヨーコさんは実は「超」が付くほどのお嬢様で、ジョンレノンさんと結婚しなくても裕福な暮らしをしていたといいます。

そんなオノヨーコさんの家系について見て見ましょう。

父親は日本興業銀行総裁・小野英二郎の息子

オノヨーコさんの父親である小野英輔さんは東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)の前身である横浜正金銀行の常務でした。父方の祖父である小野栄次郎さんは元日本銀行の第4代総裁を務めています。

母親は安田財閥の祖・安田善次郎の孫

またオノヨーコさんの母方の家系も錚々たる顔ぶれです。母親の磯子さんの祖母はなんと旧4大財閥の一つである安田財閥の家系で、磯子さんの祖父が財閥の創業者である安田善次郎さんです。

安田善治論さんは安田銀行を設立し、現みずほファイナンシャルグループ、損保ジャパン、明治安田生命などを発展させています。オノヨーコさんは安田財閥の創始者、安田善次郎さんのひ孫にあたります。

妹の小野節子もすごい?世界銀行で成し遂げた偉業とは?

オノヨーコさんの家系は錚々たる顔ぶれでしたが、オノヨーコさんの妹に当たる小野節子さんもすごい経歴を持っています。

なんと小野節子さんは日本人女性として初の米州開発銀行の業務局長に1992年に就任するという偉業を成し遂げています。

小野節子さんは1941年生まれでオノヨーコさんとは8歳離れています。大学は聖心女子大学を卒業し、スイス・ジュネーブ大学付属高騰国際問題研究大学院で博士号を取得しました。

超難関の世界銀行に入行する

そして1976年委100倍以上の狭き門であるという国際機関、世界銀行に入行します。面接では「世界銀行の公務員がどんな悪いことをしたか」という非難の内容を話して見事合格したそうです。

小野節子さんの初任地は西アフリカのモーリタニアでした。そこで砂漠に川を作るプロジェクトを考案しますが、140億円の資金が必要なため、上層部から猛反対を受けます。

しかし小野節子さんは国際会議に出席してプレゼンし、13の国や基金から賛同を得ました。

現在では彫刻家として活躍している

世界から認められた小野節子さんは2001年にはアドバイザーとして世界銀行の組織開発基金の管理を担当しています。

世界銀行で偉業を成し遂げた小野節子さんは、現在では世界銀行を退職し彫刻家として活動しています。

親類にも著名人が多い

オノヨーコさんの一族の華麗な顔ぶれを見てきましたが、これだけではありません。オノヨーコさんの親類の顔ぶれも錚々たるものです。

伯父である安田周三郎さんは画家、同じく伯父・安田岩次郎さんは彫刻家、叔母・小野アンナさんは白系ロシア人ヴァイオリニストの小野アンナさんです。

また従弟には地理学者の小野有五さん、画家の石井茂雄さんがいます。外交評論家の小野英明さんはオノヨーコさんの従兄にあたります。

オノヨーコとジョン・レノンの出会いから結婚まで

それではここでオノヨーコさんとジョンレノンさんの出会いから結婚までを見ていきましょう。

出会いは1966年11月、ロンドンのインディカ・ギャラリー

ジョンレノンさんとの運命の出会いは1966年11月9日、ロンドンのインディカ・ギャラリーで開催されていたオノヨーコさんの個展、「未完成の絵画とオブジェ」の開催前日の日でした。

オノヨーコさんの個展の情報を手に入れたのはポールマッカートニーさんで、ジョンレノンさんはそこに展示されていた作品に心を惹かれたそうです。

ジョン・レノンは「天井の絵」の「YES」に感銘を受けた

ジョンレノンさんが気に入った作品というのが「天井の絵」の「YES」という作品です。

この作品は天井に貼ってある小さなキャンパスを虫眼鏡で覗くと小さくYES、と描いてあるものでした。ジョンレノンさんは当時この作品を見た時のことをこう語っています。

「もし”No”とか『インチキ』みたいな意地の悪い言葉が書かれていたら、すぐに画廊を出て行ったよ。でも”YES”だったから僕は『これはいけるぞ、心温まる気持ちにさせてくれる初めての美術展だ』と思ったんだ」

(引用:Wikipedia オノヨーコ)

オノヨーコのパトロンになり、恋人として同棲も始める

ジョンレノンさんは美術学校時代に、東洋文化を専攻していた友人がいたそうでその友人を通じて日本文化や東洋文化に興味を持っていたそうです。

ジョンレノンさんは禅や空の概念に強い関心を持っていて、オノヨーコさんの作品の中にもそのような傾向があることから強く心を惹かれたようです。

ジョンレノンがオノヨーコに出資する

オノヨーコさんの作品を気に入ったジョンレノンさんはオノヨーコさんの個展に出資するなどして、いわゆるオノヨーコさんのパトロンのような関係として交際を始めています。

この時二人はお互いに伴侶を持っていましたが、強く惹かれ合いほどなく同棲をしています。

「Two Virgins」を発売、ヌードジャケットが話題になる

1968年5月19日に当時ジョンレノンさんの妻であったシンシアさんの旅行中にジョンレノンさんはオノヨーコさんを自宅に招き入れます。

そして翌日明け方にかけて前衛音楽のアルバム「Two Virgins」の制作に着手しています。

本作を録音中にジョンレノンさんはオノヨーコさんと初めて肉体的に結ばれたと語っており、宣伝にも利用していました。

以来二人は常に行動を共にする

このことがきっかけとなりジョンレノンさんとオノヨーコさんは常に行動を共にするようになったそうです。

このアルバムで有名になったのはその内容ではなく、ジョンレノンさんとオノヨーコさんが全裸で映ったジャケット写真でした。

過激なジャケットが物議を醸しだした

写真は当時二人が同棲していたアパートで撮影されたものでしたが、ジョンレノンさんとオノヨーコさんのオールヌードで局部が映し出されていました。

このジャケットは物議を醸しだし、一部のレコード会社は発売を拒否しています。アメリカ版は二人の顔のみが印刷された茶色のカバーに入っています。

1969年に結婚、新婚旅行で「ベッド・イン」というパフォーマンスをする

1969年にオノヨーコさんとジョンレノンさんはジブラルタルにて結婚をします。当時オノヨーコさんは36歳、ジョンレノンさんは28歳でした。

二人は新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」というパフォーマンスを行っています。

「ベッド・イン」は平和を宣伝するために行った

当時はベトナム戦争の真っ最中で、自分たちの結婚が大々的にマスコミに取り上げられるなら「平和を宣伝するために利用しよう」との考えからパフォーマンスを行ったそうです。

このパフォーマンスは二人が記者を招き入れてベッドの中から平和について語り合うというものでした。このパフォーマンスは数日間にわたって行われています。

翌年のビートルズの解散をオノヨーコのせいだと非難される

オノヨーコさんと結婚して間もなくの1970年にビートルズが解散したことからオノヨーコさんは「ビートルズを解散させた女」として大々的に非難されるようになります。

ジョンレノンさんとの上記のような前衛的活動をしたことでアイドルだったジョンレノンさんが変わってしまった、変えたのはオノヨーコさんだとの非難が殺到したのです。

ポール・マッカートニーとの不仲も噂された

またオノヨーコさんはビートルズのメンバーであるポールマッカートニーさんとの不仲も噂されていました。

争点の一つとなっていたのは、ビートルズの楽曲のクレジットに関する問題でした。

ビートルズの曲はジョンレノンさんかポールマッカートニーさんのどちらが書いても、すべて二人の名義が「レノン=マッカートニー」と記載されるようになっていました。

楽曲のクレジット問題で確執が生じる

stevepb / Pixabay

しかしジョンレノンさんの死後、ポールマッカートニーさんはこれを変更しようとしたことから二人の間で確執が生じたのです。

その後、1995年にオノヨーコさんはポールマッカートニーさんと広島原爆投下五十周年を記念する曲を共同で製作し、現在では和解しています。

オノヨーコはジョン・レノンの前妻の死の際にも世間から批判されている

ジョンレノンさんはオノヨーコさんと結婚する前にシンシアさんという女性と結婚しています。このシンシアさんの晩年は癌との闘いであったそうで、2015年4月1日にスペインの自宅で息を引き取っています。

訃報を受けオノヨーコさんは追悼の意をFacebookから発表していますが、この追悼文に批判が相次ぎました。

「黙れヨーコ。いいからジュリアンにジョンの遺産をやれよ」
「こんなコメントをするヨーコの神経が信じられない。彼女もジョン・レノンもひどいヤツだった。ジュリアンのために祈ります」
「ヨーコはジョンが結婚していることを知っているのに身を引かなかった。クソみたいな女だ」

(引用:女性自身)

ショーン・レノンの誕生とジョン・レノンの死

それでは次に二人の間に生まれたショーンレノンさんとジョンレノンさんの死について見ていくことにしましょう。

1973年に別居、翌年ふたたび同居する

1973年にジョンレノンさんはロサンゼルスに活動拠点を移しています。二人は別居生活に入り、それぞれの活動をしていました。

翌年ジョンレノンさんがニューヨークで開催されたエルトンジョンさんのコンサートに出演したことがきっかけになり、二人は1975年に再び同居を開始しています。

息子のショーン・レノンが誕生

同年、1975年の10月9日に二人の息子であるショーン・レノンさんが誕生しています。その日はくしくも父親であるジョンレノンさんと同じ誕生日でした。

ショーン・レノン誕生後、ジョン・レノンは仕事をしばらく離れる

ショーンレノンさんが誕生後、ジョンレノンさんは音楽からしばらく離れています。1977年以降には家族そろって来日もしており、一家で歩く姿が目撃されています。

1980年12月8日、ジョン・レノンが射殺される

Comfreak / Pixabay

そして1980年12月8日に悲劇が起こります。22時50分にスタジオから二人が自宅であるダコタハウスに戻ってきた時のことです。

その場に待ち構えていたマーク・チャップマンという男にジョンレノンさんが呼び止められています。

「ミスター・レノン?」振り返ると、五、六ートルの距離のところに男がいた。男は、射撃姿勢だった。ジョンが答える間もなく、男の手に握られた銃がすぐさま火を吹いた。発射された弾丸は五発。うち四発が、ジョンに命中した。
(引用:ジョン・レノン06)

ジョンレノンは病院で絶命する

ジョンレノンさんはすぐに病院に運ばれますが、出血性ショックにより23時過ぎに40歳という若さで息を引き取っています。

殺害計画はオノヨーコさんも狙われていましたが、幸いオノヨーコさんは無事でした。

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