市川一家4人殺人事件とは?犯人関光彦の生い立ちと死刑判決について 社会

市川一家4人殺人事件とは?犯人関光彦の生い立ちと死刑判決について

皆様は市川一家4人殺人事件という少年犯罪事件をご存知でしょうか?暴力団とのトラブルが元で4人一家を殺害し、被害者の少女を強姦した事件で加害者は当時未成年であるにも関わらず実名報道がされました。今回は加害者である関光彦とこの事件の現在をまとめてみました。

目次

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関光彦が起こした市川一家4人殺人事件とは?

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市川一家4人殺人事件は1992年に関光彦が起こした強盗殺人及び強姦事件のことです。

この事件は加害者である関光彦が暴力団に要求された200万円を工面するために起こした殺人事件です。

しかしなぜ比較的ありふれた強盗殺人がここまで語り草になるのでしょうか?事件を詳しく見ていきましょう。

市川一家4人殺人事件は1992年に発生した殺人事件

市川一家4人殺人事件は先に述べたように1992年の3月5日夕刻から3月6日朝にかけて起きた強盗殺人、強姦事件の総称です。

この事件は千葉県市川市幸2丁目に存在するマンションで引き起こされた強盗、殺人、強姦を含む少年犯罪でした。

平成に入ってからの少年犯罪としてはそのやり口が非常に残忍な物であったために世間を震撼させました。

暴力団絡みの金銭トラブルで被害者宅に押し入る

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この事件の原因になったのは加害者である関光彦が抱えていた金銭トラブルによるものでした。

この金銭トラブルの元は女性関係のトラブルで、パブで働いていた女性を監禁し、その女性が働いていたパブの関係者に訴えたようです。

そしてパブの関係者が暴力団に落とし前を付けさせる依頼をしたために関光彦は多額の金銭を要求されました。

生き残った少女を除き、両親・妹・祖母が犠牲となった

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この市川一家4人殺人事件では家族の内生き残った少女を除く両親、少女の妹とその祖母の4人が殺害されました。

この犠牲となった家族は周囲から見ても慎ましくも平穏であたたかな家庭であったと言われていました。

また、死亡した父親はベルギーにペンションを持って暮らしたいとも語っていましたが、その夢は断ち切られることになってしまいました。

犯人関光彦は犯行当時未成年だった

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市川一家4人殺人事件を起こした加害者関光彦は犯行当時19歳であり、未成年でした。

そのため関光彦は自身を死刑からは程遠い存在であり、長めの懲役刑で済むだろうとも語ったそうです。

自身の犯した罪に対する反省の姿勢すら見せず、終始不遜な態度を取っていたと記録されています。

裁判の結果、関光彦には死刑判決が下される

しかし、関光彦加害者の目論見は大きく外れ、1994年の第11回公判にて死刑判決が下されます。

少年犯罪における死刑判決は非常に珍しく、1990年の永山則夫連続射殺事件以来でした。

この判決が不服だった関光彦とその弁護団は即日控訴しますが、後の2001年12月3日最高裁で正式に死刑が確定しました。

犯行現場となったマンション

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犯行現場のマンションは千葉県市川市幸2-5-1 行徳南スカイハイツC棟806号室というマンションです。

いたって普通の分譲マンションであり、今でも多くの人が住んでいます。しかしながら事故物件扱いされているのも事実です。

市川一家4人殺人事件に関する記事はこちら

関光彦の生い立ちと犯行に至るまでの経緯

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市川一家4人殺人事件という平成の少年犯罪史上に残る残虐かつ凶悪な事件を引き起こした関光彦加害者でした。

この関光彦はいったいどのような生い立ちで、なぜここまでの犯行をするに至ったのでしょうか?

どうやら生い立ちを見ていくとその生活にも様々な問題があったようで、そこから人格のゆがみが起きてもいたようです。

1973年、元サラリーマンの父、実家がうなぎ加工販売を営む母の元に生まれる

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関光彦は1973年1月30日にサラリーマンの父親と祖父がうなぎの加工販売を営む母親の元に生まれました。

両親は非常に教育熱心で、関光彦をスイミングスクールに通わせたり、ピアノや英会話を習わせていました。

しかし、父親は生活が落ち着いてくると同時に遊び人の本性を見せ始めます。

小学2年の時、都内のマンションへと移住する。幼い頃は裕福な生活をしていた

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関光彦は小学2年生の時に祖父の援助で購入した東京都江東区にある高級マンションに両親と弟と共に移住します。

その時に当時通っていた小学校からも転校しており、江東区立越中島小学校に転入します。

このことから祖父の援助あってのものとはいえ幼少期は裕福な生活を送っていたと思われます。

有名漫才師や社長が住む高級マンションへと引っ越す

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引っ越した先の高級マンションでは有名企業の社員や医者、実業家といった高所得者が暮らしていました。

また、関光彦は住んでいたマンションの真上に住んでいた有名漫才師の事をとても気に入っていました。

その漫才師の息子とも仲良くなり、お互いの家を行き来するほどの仲になっていたようです。

両親は不仲になり、関や弟へも理不尽な暴力に晒される

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しかし、父親が祖父から経営していた鰻屋の内一件の経営を任せられるようになってから生活が悪化します。

父親は日銭が入るようになったため、生来の遊び人気質が悪化し、ギャンブルや女遊びが増えました。

その結果両親が不仲になり、父親が家庭内暴力を振るうようになります。その暴力は関光彦自身やその弟にまで及びました。

父親が膨大な借金を作り、暴力団に追われる様になり後に両親は離婚。

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このように遊びがひどくなった父親は次第にサラ金どころか闇金にまで手を出すようになります。

その借金の総額は約3億円にも及んだようで、関光彦と母親と弟は夜逃げ同然で家を出ることになります。

その後に両親は離婚しています。しかし借金を返済するのが原因で祖父に絶縁されてしまいます。

苗字が変わるなどして学校ではいじめを受けていた関光彦

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離婚以降は祖父からの支援を受けられず、極貧の生活を送っていた関光彦とその一家でした。

小学校には一着しか持たない服を毎日着続けて登校していたため臭い、汚いなどといじめを受けていました。

また、離婚が原因で名字が変わったためにそれもいじめの原因となっていたようです。

週末や長期休みは祖父の家へと逃げるが母親からも虐待を受けるように

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関光彦は両親の離婚前にもすでに家庭内暴力の影響から家に居場所がないと感じていたようです。

そのことから週末や長期の休みの間は逃げるように祖父の家に入り浸っていました。このころは関光彦は祖父を非常に尊敬していたとも語っています。

また、夫からの家庭内暴力からくるストレスに耐え兼ね、ついに母親からも虐待を受けるようになっていきます。

中学入学後は運動で頭角を現すと同時にシンナーなどにも手を出す

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関光彦はこのように悲惨ともいえる幼年期を過ごしてきました。しかし、中学に入ってから転機になりえたことが訪れていました。

関光彦は中学に入学してから同年代と比べて体格良く成長し、元より優れていた運動神経と相まって野球のエースとして活躍していました。

しかしそれも長く続かず、2年生に進級してから不良とつるむようになり、シンナーをはじめとした非行をするようになります。

高校へ進学するも、喧嘩に明け暮れるようになる

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関光彦は当時野球の強豪校である日本大学第一高校・岩倉高校への進学を希望していました。

しかし受験は失敗に終わり、結局は堀越高等学校普通科大学進学コースに進学します。

その高校生活の中でも「高校の程度が低い」と感じたことから不登校状態になり喧嘩に明け暮れた生活をしていました。

入部した軟式野球部では理不尽なしごきがあった模様

また、堀越高等学校普通科大学進学コースに進学したあと軟式野球部に入部しています。

その軟式野球部では先輩による理不尽なしごきがあったとされています。

そのしごきが原因で怪我をすることも多く、自身の身体能力に自信があった関光彦は挫折を味わったのではないかとも言われています。

関の暴力の矛先は母や弟に向けられるようになり警察に相談した事も

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このように喧嘩や暴力の毎日を過ごしていた関光彦ですが、その暴力の矛先はとうとう家族にも向いてしまいます。

高校入学後には母親から気に入らないことを言われると容赦なく母親と弟に暴力を振るうようになります。

また、その暴力の苛烈さから母親は何度も警察を訪ねて相談するようになりました。

高校入学後1年で自主退学し彼女と遊びながら職を転々とする

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高校入学後にとうとう喫煙や恐喝、暴力などが学校側に知られ、自宅謹慎の罰を受けます。

しかし関光彦はこれに対し反省の色を全く見せず、同じような境遇にあった少女と遊びまわるようになります。

自宅待機していなければならない時間にいなかったことなどから母親側から高校に対し退学の申し入れが為されて退学します。

飲酒喫煙は当たり前で親に彼女と別れらせられた腹いせにナイフで脅し書類送検

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高校中退後は様々なアルバイトを転々としていました。しかしどのアルバイトも1週間と続かなかったようです。

また、少女との交際は続いており、夜遊びや金の抜き取りを繰り返したことで両親に交際をやめさせられます。

しかし、交際をやめさせられたことに逆上した関光彦は彼女の家に押しかけ父親をナイフで脅します。それが原因で書類送致されます。

可愛がってくれた祖父の店も半年足らずでやめてしまった

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関光彦はその後祖父の鰻の店の手伝いをするようになります。その動機も「仕事が面白いものかどうか興味を持った」というものでした。

職務態度や仕事自体も「手伝いの真似事」程度のものであったと言われており、お世辞にも褒められて者ではなかったそうです。

また、店の売上金を抜いたり無断欠勤を繰り返すうち、関光彦は鰻屋を半年程度でやめてしまいます。

祖父の顔面を蹴り、失明させた事もある

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関光彦は鰻屋で働いているときに祖父から店の金庫の金を抜いたのではないかと疑われたことがあります。

このことは母親伝に関光彦に伝えられたことであり、それに覚えのない関光彦は激昂しました。その後祖父の家に向かいます。

過労により就寝中であった祖父の顔面を蹴り上げ左眼球破裂の重傷を負わせて失明に追い込む事件も起こしています。

1991年10月には傷害事件も起こしている

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関光彦は市川一家4人殺人事件の前、1991年10月19日にも傷害事件を起こしています。

それは関光彦が車を走らせていた時に前を走行する車が遅いと立腹し、運転手の男性に対して暴行に及んだ事件です。

関光彦は赤信号で停車した前の車の運転席側に駆け寄り、エンジンキーを回して停車させ、車を降りた男性を殴りつけました。

1991年10月31日、フィリピン人女性と結婚するも翌年1月に妻は帰国

その後鰻屋の同僚とともに言ったフィリピンパブで出会ったマニラ出身女性と交際を始めます。

その女性から結婚を持ち掛けられ、結婚する気になった関光彦ですが、両親から反対されます。

反対を押し切って関光彦は結婚手続きを取ります。しかし女性は故郷の姉を心配して帰国してしまいました。

事件後妻は子供を出産、日本に来る事はなかったとされる

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帰国した関光彦の妻である女性は1992年に妊娠していたことが発覚しています。

その子供を出産したもののその後日本に帰国することはなかったそうです。

妻の帰国中である2月6日市川市内のフィリピンパブで働く女性を自宅に連れ込み監禁

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妻が帰国した後、関光彦は妻の不在から鬱屈した気分になり、新しい女性を引っ張り込もうと考えるようになります。

そして1992年2月6日に市川市内のスナックバーに務めるフィリピン人のホステスを見せに無断で連れ出します。

その後その女性と性的関係を持ち、自宅アパートにて監禁、負傷させます。

2月8日、女性が店に戻り事件が発覚。激怒した店は暴力団に落とし前を依頼

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その翌々日である1992年2月8日、被害にあった女性が店に戻り監禁の事実を店に伝えます。

そのことに激昂した店側が暴力団に対して「落とし前」を関光彦に対してつけさせるように依頼します。

これによって関光彦は暴力団から追われる身になったわけです。

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