大久保清連続殺人事件とは?犯人の生い立ちは?家族やドラマについて

大久保清連続殺人事件は、戦後最大の連続殺人事件とも言われ、たった41日間で8人の女性が犠牲になっています。この実話をもとにテレビドラマともなり、凶悪な殺人鬼をビートたけしが演じました。この事件の詳細を確認し、犯人の生い立ちや家族なども見てまいりましょう。

大久保清連続殺人事件の概要は?

大久保清連続殺人事件は、昭和最凶とか戦後最悪などと揶揄される、気代稀に見る恐ろしい事件です。その事件とはどういうものであったのか、見てまいります。

1971年3月から5月までの2ヶ月間で8人の女性が殺害された事件

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昭和を代表する極悪非道の殺人事件は、1971年3月から5月の間に起きており、実質的には41日の間に8名の女性が殺害されています。

殺人鬼と呼ばれた犯人の名をとり「大久保清連続殺人事件」呼ばれたこの事件は、都心近くの群馬県で起きており、被害者はみな16歳から21歳までの若い女性でした。

「絵のモデルになってほしい」と誘い肉体関係を拒絶されたら殺害した

犯人の大久保清(当時26歳)は、地元の群馬県を中心で行動し、手当たり次第に若い女性に声をかけ続けました。俗にいうナンパで女性を誘い関係を迫るのが常套手段です。

自分は「絵描き」であり、「絵のモデルにならないか」などと声をかけ、自身も高級車に乗って画家の出で立ちを装い巧妙に誘うのでした。

しかし、関係を迫り拒絶されると大久保の態度は一変します。また、大久保の嘘を見抜いた女性にも態度を変え、そうした女性を次々に殺害しました。

大久保清は昭和を代表する連続殺人鬼だった

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昭和に於ける殺人事件でも最も凶悪であり、歴史上類を見ないとも揶揄される特異で異常ともいえる残忍な事件で、犯人の大久保清は「昭和を代表する連続殺人鬼」と呼ばれました。

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大久保清の生い立ちと犯罪歴(結婚前まで)

昭和の連続殺人鬼「大久保清」の生い立ちや、結婚前までの犯罪歴などを見てみましょう。

大久保清のプロフィールは?イケメンだった?【画像アリ】

  • 本名:大久保清(おおくぼ きよし)
  • 生年月日:1935年1月17日
  • 出身地:群馬県碓氷郡八幡村(現:高崎市)
  • 死没:1976年1月22日(41歳没)東京都葛飾区小菅(東京拘置所)
  • 死因:絞首刑
  • 有罪判決:殺人罪・死体遺棄罪ほか
  • 判決:死刑(前橋地方裁判所)
  • 殺人詳細:犠牲者数8人
  • 犯行期間:1971年3月31日–1971年5月10日
  • 逮捕日:1971年5月14日

1935年1月に、群馬県高崎市に生まれた大久保清は、母の父がロシア人で所謂「クオーター」であり、容姿は良く今で言う「イケメン」だったと言われます。

兄弟は3男5女。7番目の3男として育ち両親に溺愛された

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大久保清は群馬県碓氷郡八幡村(現:高崎市八幡地区)で、1935年(昭和10年)1月17日、に3男5女の7番目の三男として生まれています。

なお、大久保清の長兄は生まれてすぐに他界しており、次兄は両親から好まれなかったらしく、三男の大久保清を、両親は大久保が幼少の時から特別に可愛がっていたと言われます。

ロシア人の血が混ざっているため大久保清はいじめを受けた

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戦後間もないこの時期には混血児は珍しく、ロシア人の血が流れる大久保清も見た目から「アメリカ人の血が混じっている」とか「アイノコ」などと罵られ、いじめられていたといいます。

また、学業は苦手だったようで、卒業した小中学校での評価も良くありませんでした。

小学6年生の時に幼女にわいせつ行為をするも母親は息子を擁護していた

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大久保清は、1946年(昭和21年)には小学6年生になっていますが、恐ろしい行為に及びます。麦畑に幼女を連れ込み、石を性器に詰め込むというイタズラではすまない事をしでかします。

被害にあった少女の親が抗議に来ますが、大久保清を溺愛していた母親は全く認めようとしなかったと言います。

「ボクちゃんがそんなことをするはずがない」

「お医者さんごっこに目くじらを立てることはない」

(引用:candy)

いつも大久保清を「「ボクちゃん」と呼んで甘やかしていた母親は、「強制わいせつ」とも言える行為をした大久保清を必死に擁護していたそうです。

近所では要注意人物として知られており友達に恵まれていなかった

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大久保清は学業の成績は芳しくなかったものの、口が上手く要領は良かったといいます。しかし下級生を平気で騙し嘘をつくことも多く、友達と呼べる人間には恵まれなかったようです。

また、幼少期から近所の女の子を追いかけまわしたりするので、周囲から「要注意人物」として広く知られていました。

中学生の頃、父親の闇屋を手伝い卒業後は農業を手伝い高校へ進学

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大久保清は中学生の時は、闇屋をしていた父親の手伝いをしていたそうです。中学を卒業すると県立高崎商業高校の定時制に進学しますが、この時も農業をたまに手伝っていたと言います。

授業料未納・出席も少なかったため短期間で退学となる

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大久保清は1952年に入学した群馬県立高崎商業高等学校定時制課程を半年で退学しています。出席日数が少ない上に授業料が未納のため、入学から6か月後に除籍処分となりました。

退学後は電器店で住み込みで働くも銭湯で女風呂を覗き逮捕&解雇

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高校を退学した大久保清は、東京で就職します。板橋区にある電器屋で住み込みで働くことになりました。しかし、近所にあった銭湯の女湯を覗いているのが見つかり現行犯で逮捕されます。

せっかく見つけた就職口でしたが、この事件で電器屋を解雇されました。

姉の夫が大久保清を引き取り電機学校へ通う

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就職口に困った大久保清を見かねたのか、姉の夫が大久保を引き取ることになり、姉の嫁ぎ先である横浜の電器店に就職し、神田の電器学校にも通わせてもらいます。

通学しつつ赤線にも通い始め娼婦とトラブルを起こし帰郷

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姉夫婦から、将来を考えてもらい就職も学校も面倒見てもらっていた大久保清ですが、東京の学校に通うと赤線にも頻繁に行くようになり、娼婦とトラブルになり実家に帰ることになります。

1953年4月親の出資でラジオ修理販売店「清光電器商会」を開店するも苦労が続く

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帰郷した大久保清は、1953年4月から親のお金で、ラジオ修理販売店「清光電器商会」を実家で開業しました。しかし、知識や技術が伴わないことで客とのトラブルも頻繁にあったといいます。

経営も行き詰まり、部品の調達さえままならくなっていきました。

同業者から部品を万引きし逮捕されるも父親が代償し示談!電器店は閉店へ

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1953年7月から翌年1月にかけて大久保清は、電器店を継続するためか高崎市内の同業者から電器部品を8回にわたって万引きし逮捕されます。
これが大久保清(当時19歳)の最初の公式な犯罪記録です。

大久保の父親が損害を弁償してくれた事で、示談が成立して不起訴処分となりますが、この逮捕が原因で親のお金で開業した電器店を閉じることになります。

1955年に女子高生を強姦し最初の強姦事件を起こす

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大久保清が最初の強姦事件を起こしたのは、1955年(昭和30年)7月12日の20歳の時でした。大久保清は大学生に成りすまし、伊勢崎市に住むA子さん(当時17歳)に声をかけます。

最初は丁寧な言葉を使いベンチで話していましたが、大久保は突然、A子さんをベンチの上に押し倒して強姦し、すぐに逮捕されました。

この時は、初犯であったことが考慮され、執行猶予3年がついた「懲役1年6か月」の判決を受けます。

同年中強姦未遂を起こし3年6ヶ月の懲役で松本少年刑務所に収監

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執行猶予中の大久保清は、タガが外れたようにすぐに次の事件を起こします。1955年12月26日のことで、最初の強姦事件から半年も経過していません。

今回の強姦事件は、相手を負傷させてしまい「強姦致傷」に問われ、執行猶予中であったことからも実刑判決が下ります。

この事件だけでは「懲役2年」の実刑判決を受けますが、初犯の刑期も加えられ「3年6ヶ月の懲役」となり、長野県の松本少年刑務所に収監されました。

模範囚により半年早く仮釈放されるも女子大生に強姦未遂を起こす

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大久保清は、1957年2月に松本刑務所に入所していますが、1959年12月15日には出所しています。大久保は刑務所内で模範囚となり、刑期満了まで6か月を残して仮釈放となりました。

しかし、一度外れたタガはもとに戻らず、大久保の犯行は続きます。出所から半年も経過しない1960年(昭和35年)4月16日には、全学連の活動家に扮した大久保清は20歳の女性を襲います。

女性は、前橋市在住の女子大生で、大久保が自宅に連れ込み襲った際に大声をあげたため、大久保の両親が気付き未遂に終わりました。この事件も示談が成立して不起訴となっています。

大久保清の生い立ちと犯罪歴(結婚後~事件前まで)

殺人鬼・大久保清の生い立ちと、結婚後から戦後最悪といわれた連続殺人事件までの犯罪歴をご紹介します。

1962年5月犯歴を隠し1年間交際した女性と結婚

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大久保清の結婚は1962年(昭和37年)5月のことで、今までの犯罪歴を伏したまま行われました。妻と知り合ったのは1年前の1961年で、この間の交際を経て結婚に至っています。

大久保清は、偽名と虚偽の経歴を言って交際していたため、結婚の時には本名などの素性は伝えていますが、犯罪歴だけは言えなかったのか、内緒のまま結婚しています。

また、結婚後には二人の子供を授かり、一男一女をもうけます。

翌年に長男誕生。「谷川伊凡」というペンネームで詩集の「頌歌」を自費で出版

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結婚した翌年の1963年には長男が誕生しています。中学しか卒業していない大久保清ですが、その年に「谷川伊凡」というペンネームを使い、詩集『頌歌』を自費で出版しています。

1964年9月自宅に牛乳販売店を開店させる。懸命に働いた

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大久保清は、1964年(昭和39年)9月に牛乳販売店を開業します。店舗は自宅で、販売店の権利は妻の親族を通じて手に入れており、開店当初は熱心に働いていたそうです。

1965年6月3日牛乳の空き瓶2本を盗もうとした少年の兄を恐喝し恐喝未遂罪で逮捕

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ところが、開店から2年になろうとした1965年(昭和40年)6月3日に牛乳瓶2本を盗もうとした少年を見つけます。

そこまでは良かったものの、少年の兄を脅して2万円を奪い、後になって無理やり示談書まで書かせます。これが表沙汰となり、恐喝および恐喝未遂罪で逮捕されました。

以前よりガールハントをし強姦事件を起こしており懲役4年6ヶ月の刑に

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恐喝では執行猶予付きの判決が言い渡されましたが、妻に犯歴がバレた事からか大久保清の暴走がまた始まります。結婚してからも外出してはガールハントを続けていましたが事件は起こしていませんでした。

しかし、大久保清は開き直ったように犯罪を行います。被害者は高崎市の女子高生(当時16歳)で、1966年(昭和41年)12月23日にナンパしたあとに車に乗せ、停めた車内で強姦しています。

大久保清は翌年の1967年にも、同じ手口を使った強姦事件を起こしています。この事件が発覚し逮捕された大久保清は、懲役3年6か月の判決を受け、合わせて「懲役4年6ヶ月」の刑を宣告されます。

妻に隠していた犯歴がバレる。長女が誕生するも牛乳屋は不振に陥った

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牛乳瓶の恐喝事件により、大久保清の今までの犯歴が妻の知ることとなり、軌道に乗りつつあった牛乳屋も不振に陥ることになりました。この年は長女が誕生しており、本当は目出度いはずの時でした。

そして、妻が大久保清の全貌を知ったあとに大久保は強姦事件を起こし、逮捕されて刑に服する事になります。

服役中妻が離婚を申し出るも止め模範囚となり1971年に仮釈放

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懲役3年6か月の判決を受けた大久保清は、恐喝事件の執行猶予も取り消されるとともに、執行猶予中の刑期も追加され「懲役4年6か月」の実刑となり、府中刑務所に服役します。

今回も大久保清は模範囚として行動し4回も所長から表彰されています。しかし、大久保の本当の姿を知った妻は離婚の決心をしましたが、大久保は出所まで待ってくれと嘆願しました。

大久保清は模範囚であり、本気であったのか「室内装飾品販売を起業する更生計画」まで作成したこともあって、また刑期を残して1971年(昭和46年)3月2日に仮釈放となりました。

実家に帰っていた妻に同居を望むも受け入れられなかった

大久保が刑務所暮らしの間は、妻と子供は妻の実家で生活しており、大久保は復縁を希望しましたが、妻の気持ちは固く同居は受け入れられませんでした。

また、両親の住む実家に帰宅しますが、仮釈放後の家族はよそよそしく振る舞い、大久保はそれにも腹を立てていました。

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