

【北九州監禁殺人事件】松永太の現在は?息子はテレビに出演?
北九州監禁殺人事件は、主犯の松永太が共犯・緒方純子や被害者を次々と洗脳支配し、自らは手を下さずに子供2人を含む7人を死亡させた凄惨な事件です。『話術の天才』松永太の生い立ちや事件の詳細、そして死刑囚となった松永太やその息子は現在はどうしているのかご紹介します。
目次
[表示]- 01.
マインドコントロールの達人・松永太が起こした北九州監禁殺人事件とは
- 01.1.
北九州監禁殺人事件の加害者松永太とは?写真はある?
- 01.2.
被害者を拷問、マインドコントロールし殺害や死体処理を行わせる
- 01.3.
第一審で検察側に「鬼畜の所業」と言われた
- 01.4.
事件発覚後、報道機関はあまりの残酷さに報道を自主規制
- 01.5.
あまりにも悲惨でネットでも騒然
- 02.
松永太の生い立ちや性格は?過去の犯罪歴
- 02.1.
1961年生まれ、実家は畳屋で松永が7歳の時に柳川市へ転居
- 02.2.
裕福な家庭で育ち母親と祖母に甘やかされて小学校で成績優秀だった
- 02.3.
中学一年生で弁論大会で優勝し部活ではキャプテンを務めていた
- 02.4.
小学生・中学生の頃から自分よりも弱い人間に対しては横暴だった
- 02.5.
虚言壁があったため教師からの信用は低かった
- 02.6.
久留米市の私立高校へ編入し「暴力団員と繋がりがある」と同級生に言っていた
- 02.7.
高校時代実家に女性を連れ込んでいた
- 02.8.
高校2年生の時に家出した女子中学生を家に泊め不純異性行為で退学
- 02.9.
高校を卒業後福岡市のお菓子店に就職するが10日で退職
- 02.10.
女性にはかなりマメに連絡をとり女性の扱いが上手で食事代も出させていた
- 02.11.
1980年に結婚し男の子ができるが1992年に離婚
- 02.12.
松永と純子が知り合ったのは純子が19歳の時で関係を持ったのは20歳だった
- 02.13.
1981年5月に父親の会社を受け継ぎ翌年布団訪問販売店「ワールド」を興す
- 02.14.
布団販売店で詐欺商法を繰り返していた
- 02.15.
1985年に実家があった場所に自宅兼事務所を新築
- 02.16.
1988年に同居していた家族を追い出す
- 02.17.
1992年詐欺商法で指名手配される
- 02.18.
布団販売員時代に知り合った女性の証言
- 03.
松永太の現在や家族・息子の現在
- 03.1.
死刑判決後、純子との間にできた息子と面会
- 03.2.
息子に「署名を集めて」と頼んだ
- 03.3.
松永は福岡留置所に収監されており死刑は執行されていない
- 03.4.
松永は今も無罪を主張している
- 03.5.
松永と純子の息子は出生届けが出されていなかった
- 03.6.
事件現場から5分ほどの場所で二人だけで暮らしていた
- 03.7.
二人の住むアパートには監視カメラが設置されていた
- 03.8.
息子たちの食事は純子が運んでいた
- 03.9.
食事は松永の命令で一日食パン一枚
- 03.10.
二人の面倒は脱走したA子が見ていた
- 03.11.
事件発覚後、二人の息子は養護施設で暮らした
- 03.12.
息子たちは学校へ行くと死刑囚の息子と白い目で見られた
- 03.13.
息子は事件後里親に引き取られるも上手くいっていなかった
- 03.14.
殺害現場を見ている為、今も逃げ場のない明るい部屋が苦手
- 03.15.
息子は現在結婚しているが子供はいない
- 03.16.
息子は現在も肉体的にも精神的にも苦しんでいる
- 04.
北九州監禁殺人事件の詳細と経緯まとめ【虎谷父娘監禁及び殺人編】
- 04.1.
1993年に小倉に転居した際に知り合った不動産会社の虎谷久美雄に出会う
- 04.2.
松永は虎谷へ競馬予想のビジネスを持ちかけ仲良くなる
- 04.3.
虎谷は内縁の妻と別居し娘のA子を引き取る
- 04.4.
その後A子に「父親に性的イタズラをされた」と嘘の証言をさせ虎谷を奴隷状態へ
- 04.4.1.
弱みを握り「書面化」し、弱みを「実体化」させる
- 04.5.
虎谷は通電などの虐待や借金をさせられていた
- 04.5.1.
金銭の要求に応じなければ虐待されていた
- 04.6.
A子も松永に虐待されていた
- 04.7.
1996年2月衰弱した虎谷が死亡
- 04.7.1.
死亡3か月前には精神的に異常をきたしていた
- 04.8.
純子とA子に遺体の処理を命じた
- 04.8.1.
煮込んだ「もの」は、海・公衆便所へ捨てる
- 05.
北九州監禁殺人事件の詳細と経緯まとめ【狙われた主婦編】
- 05.1.
虎谷の友人の妻にエリートと虚言を吐き近づく
- 05.2.
言葉巧みに誘惑し夫と離婚させ金を貢がせるように
- 05.3.
虐待をするが主婦は窓から飛び降り逃げ出すことで死を逃れた
- 06.
北九州監禁殺人事件の詳細と経緯まとめ【緒方純子一家監禁・殺人編】
- 06.1.
金に困った松永は純子に金の工面をするよう命じた
- 06.1.1.
松永太は過去に緒方家の資産状況を調査していた
- 06.2.
純子が逃げ出したと勘違いした松永が緒方一家に接触し嘘を吹き込む
- 06.2.1.
緒方純子が虎谷久美雄を殺害したと緒方一家に説明する
- 06.3.
父譽、母、静美、妹、理恵子は騙され純子は北九州に呼び戻される
- 06.3.1.
松永太は押し入れに隠れていた
- 06.4.
その後純子を最下層に置き虐待をはじめる
- 06.4.1.
A子は上位になり、松永太の従順な奴隷となっていた
- 06.5.
松永は純子の両親、妹夫婦が互いに不信感を抱くようにした
- 06.5.1.
緒方家の血縁がない主也を取り込み、家族を引き離す
- 06.5.2.
妹・理恵子と主也、義父母と主也の関係が悪化
- 06.6.
純子の姪、彩(10歳)甥の優貴(5歳)も小倉に呼び寄せる
- 06.7.
一家が完全に北九州に移ると虐待が始まった
- 06.7.1.
緒方家の親族が警察に相談するも、一家は失踪
- 06.7.2.
緒方一家は北九州に移り住み、連日虐待を受けた
- 06.8.
家族は松永に気に入られる為家族を裏切り密告するようになった
- 06.8.1.
家族の心の交流を遮断し、憎しみ合うように仕向ける
- 06.9.
1997年12月通電などの虐待により純子の父が死亡
- 06.9.1.
純子とA子が指示し、緒方一家が死体解体を行った
- 06.10.
1998年1月純子の母を殺害
- 06.10.1.
妹夫婦が殺害に加担する
- 06.11.
同年2月理恵子を殺害
- 06.11.1.
緒方純子と妹の夫・主也、長女・彩で話し合う
- 06.11.2.
妹・理恵子の殺害を決心し、実行する
- 06.11.3.
理恵子は松永太の子供を妊娠していた?
- 06.12.
同年4月理恵子の夫が死亡
- 06.12.1.
飢餓状態の主也を外食に連れ出す
- 06.12.2.
缶ビールを飲ませ衰弱死させた
- 06.13.
同年5月優貴を彩と純子に殺害させる
- 06.13.1.
長女・彩の懇願も叶わず、弟・優貴は絞殺された
- 06.14.
同年6月彩を純子に殺害させる
- 06.14.1.
彩は30分もの通電を受けた後、自ら死を選択した
- 06.15.
2002年3月6日17歳のA子がマンションから逃げ出し助けを求めた
- 06.15.1.
1度逃亡に失敗するも諦めなかった
- 07.
松永太と緒方純子が起こした北九州監禁殺人事件のその後と裁判
- 07.1.
松永太は死刑判決を受けたが最高裁に上告
- 07.2.
2005年9月28日死刑判決が下された
- 07.3.
松永は無罪を主張しており即控訴
- 07.4.
最高裁へ上告したが2011年12月12日に死刑判決が確定
- 07.5.
松永は北九州市内のカラオケ店従業員の女性を狙っていた
- 07.6.
松永と純子はカラオケボックスで働く女性のもとへ頻繁に来店
- 07.7.
松永は医師、純子は看護師長と言っていた
- 07.8.
松永は女性に「好きだ」と言って飲みに誘っていた
- 07.9.
純子は「先生はすごい人」と後押しをしていた
- 07.10.
二人が逮捕されたことでこの女性は被害に合わなかった
- 08.
北九州監禁殺人事件をまとめた動画も
- 09.
松永太の子供が「ザ・ノンフィクション」に出演
- 10.
北九州監禁殺人事件を題材にした作品
- 10.1.
書籍化「消された一家-北九州・連続監禁殺人事件」
- 10.2.
「闇金ウシジマくん」で北九州監禁殺人事件をモデルにしたストーリーがある
- 10.3.
「やりすぎコージー」で北九州監禁殺人事件が紹介された
- 11.
サイコパスとは?松永太は頭脳明晰なサイコパスだった!
- 11.1.
【サイコパス】の特徴とは
- 11.1.1.
他者を操ろうとし、刺激を求める
- 11.2.
松永太はサイコパスだった!
- 11.3.
『通電装置』が松永太のサイコパスを深めていった
- 11.4.
性的乱交を繰り返す
- 11.5.
逃亡者を追う異常な執念深さをもつ
- 12.
死刑囚・松永太は死刑執行を免れるために必死にあがいている
マインドコントロールの達人・松永太が起こした北九州監禁殺人事件とは
北九州監禁殺人事件は、主犯の松永太が共犯として逮捕された緒方純子を暴力と言葉によりマインドコントロールし、知人や緒方純子の家族を監禁し被害者同士で殺し合いをさせた事件です。
この事件の特徴は、主犯の松永太自身が一切殺害に手を染めることなく、洗脳した被害者たちが自らの意思により「殺す」という答えを出すよう心身ともに追い詰め・導いたという点です。
2002年3月に、監禁されていた少女A子が逃亡に成功し、祖父母宅に逃げ込んだことにより事件が発覚すると、その後一連の狂気に満ち溢れた事件の全貌が明るみとなっていきました。
北九州監禁殺人事件の加害者松永太とは?写真はある?
この写真は事件が発覚し逮捕された後の松永太です。逮捕当時は40歳で、現在は58歳になっています。
残虐な事件の主犯とは思えないほど表情は穏やかで、心なしか余裕さえも感じる程です。とても一連の事件に関して反省しているようには見えません。
被害者を拷問、マインドコントロールし殺害や死体処理を行わせる
松永太は、被害者が自身に心を開き信頼を得ると、相手の弱みを見つけ責め立てたり、嘘を事実のように擦り込むなどし、それぞれの被害者が疑心暗鬼に陥っていくように仕向けていきました。
又、食事やトイレ、睡眠の制限などで肉体的・精神的に被害者たちを追い込み、更には順位付けすることにより自分への忠誠度を高めるという恐ろしい洗脳を続けました。
マインドコントロールされた被害者たちは、自分たちの手により殺害を実行するばかりか、死体の処理までもさせられたのです。
第一審で検察側に「鬼畜の所業」と言われた
北九州監禁殺人事件の裁判では、第一審の際に検察側が、松永太と緒方純子に対し「鬼畜の所業」と言い非難しています。
松永太は、自身が気にならないことをしたり、機嫌が悪いだけの理由で内縁の妻・緒方純子をはじめ、亡くなった被害者、更には自身の息子にまで拷問をする、まさに「鬼畜」だったのです。
事件発覚後、報道機関はあまりの残酷さに報道を自主規制
事件発覚当初は、少女A子に対する20日間の監禁や暴行の容疑で逮捕されたため、各マスコミが事件を一斉に取り上げました。
しかし、その後の少女A子の供述などから事件の詳細が明らかになってくると、あまりの残虐・残酷さから報道規制がかけられました。
日本史上稀に見る凶悪犯罪でありながら、この事件があまり世間で騒がれることがなかったのは、当時報道の自主規制があったからでしょう。
あまりにも悲惨でネットでも騒然
北九州監禁殺人事件の詳細が時の流れとともに世間に周知されるようになると、ネット上ではそのあまりの悲惨さが話題となりました。
松永太の人を巧みに操作する天性の才能と、とことん追い込まれた被害者たちが自身の親兄弟を殺害・解体する異常な事件に、皆が騒然となったのです。
松永太の生い立ちや性格は?過去の犯罪歴
被害者の遺体を残すことなく、そして自らの手を一切汚さずに6人もの殺害を犯した松永太とは一体どのような人物なのでしょう。
人の懐に入りむ天性の才能と、巧妙な話術、そして鬼畜な人物へと変貌を遂げた松永太という人格がどのようにして作られていったのかは、やはりその生い立ちに関係があるのでしょうか。
そしてこの事件以外にも過去に多くの犯罪を犯していた松永太には、立件することが出来なかった事件や犠牲者が数多くいたことも判明しています。
1961年生まれ、実家は畳屋で松永が7歳の時に柳川市へ転居
松永太は1961年4月28日に北九州市小倉北区で生まれました。松永太の両親はこの地で畳屋を経営しており、松永太はこの畳屋の長男として誕生しています。
そして松永太の父親の実家が、福岡県柳川市で「松永商店」という布団販売業を営んでおり、松永太が7歳の時に父親が実家の家業を継ぐため柳川市に転居しました。
裕福な家庭で育ち母親と祖母に甘やかされて小学校で成績優秀だった
裕福な家庭で育った松永太は、母・祖母に甘やかされて育つお坊ちゃまで、幼少期は何の苦労もせずに育ったようです。
地元・柳川市の公立小学校に入学した松永太は、特に勉強熱心だったわけではないが成績は優秀で、通知表は常に「オール5」だったといいます。
具え持った記憶力・計算力がこの頃から発揮されていたのでしょう。優等生で目立つ存在だった松永太は、学級委員長なども務めていたそうです。
中学一年生で弁論大会で優勝し部活ではキャプテンを務めていた
その後地元の中学校へと進学した松永太は、中学生になっても成績は常に優秀で、中学1年生の時には校内で開かれた弁論大会に出場し、上級生を抑えて優勝しています。
また頭脳明晰であるだけでなく、スポーツも万能だったという松永太は、その体格の良さを活かしバレーボール部に入部し、後にキャプテンとなり部を統率・牽引しています。
人を惹きつける語り口調や文武両道で、”長”を任されることにより「人よりも秀でた自分」にこの頃すでに自惚れのような『自信』を持ち始めていたのかもしれません。
小学生・中学生の頃から自分よりも弱い人間に対しては横暴だった
一見すると非の打ち所がない優等生のような松永太ですが、小・中学校の同級生の話によれば、皆からは好かれていなかったようです。
松永太は、自身より強い存在の人物に対しては大人しいにも関わらず、弱い人物に対しては横暴な態度を取りいじめを繰り返していたのです。
背の低いクラスメイトに対し「早く飲んで見せろ」と言い、無理矢理牛乳を飲ませるようなこともしていたと当時の同級生は証言しています。
虚言壁があったため教師からの信用は低かった
松永太自身は、完璧な優等生を演じていたつもりだったのでしょうが、教師たちは本当の松永太がどういう人物なのかを知っていました。
裏では、自分よりも弱い相手をいじめて配下に置き、自分の代わりに悪い事をやらせるなどし、教師たちには自分は何もしていないと虚言を並べ話術で切り抜ける、そんな少年だったのです。
嘘と言い訳を並べる松永太を教師は信用せず、自他共に認める優等生だった松永太ですが、実は教師たちの間での評判は悪いものだったのです。
久留米市の私立高校へ編入し「暴力団員と繋がりがある」と同級生に言っていた
高校2年生の時に久留米市の公立高校を退学処分となり、同市内の私立の男子高校に編入した松永太は、それまで以上に強烈な嘘をつくようになりました。
編入先の学校の同級生に対し、『暴力団員と繋がりがある』『手を出すと酷い目に合う』と吹聴していたのです。同級生はその嘘を信じたといいます。
実際に松永家には、暴力団の”フロント企業”に務める人物が出入りしていたようなので、そこにヒントを得た松永太は、編入先の学校で「舐められないように」虚勢・予防線を張ったのかもしれません。
高校時代実家に女性を連れ込んでいた
中学校を卒業した松永太は、久留米市の公立高校へと進学しました。眉目秀麗な松永太は不良じみた言動もあり、高校生になると急にモテるようになったそうです。
松永太の実家は両親の干渉がなく、女性を連れ込んでも特に注意されることはなかったといいます。
当時の松永太と仲が良かった同級生は、松永太がよく同級生や下級生を部屋に連れ込んでは、見境なく体の関係を持っていたと証言しています。
高校2年生の時に家出した女子中学生を家に泊め不純異性行為で退学
当時から女好きで見境なしに身体の関係をもっていた松永太の初めての失態ともいえるのが、松永太が高校2年生の時に、家出した女子中学生を実家に泊めたことでしょう。
これが学校にもバレる事態となり、校則である「不純異性交遊」に反する行為と見なされ、松永太は退学処分を受け私立男子高校へと編入することとなりました。
奇しくも、松永太はこの時期に風紀委員に立候補・当選しており、風紀委員が他の生徒たちに先立って風紀を乱す行為をしてしまったことになります。
高校を卒業後福岡市のお菓子店に就職するが10日で退職
1980年に私立男子高校を卒業した松永太は、大学へ進学することなく福岡市内のお菓子店に就職しました。
しかし、僅か10日という短期間で退職に至っています。この時点で松永太は人に使われることや、社会のルールに自分が合わせて行動することが無理だということに気づいたのかもしれません。
幼いころから学校では常に目立つポジションに身構え、口の上手さで自身に有利になるように物事を進めてきた松永太にとって、新入社員として最下部に置かれることも気に入らなかったのでしょう。
女性にはかなりマメに連絡をとり女性の扱いが上手で食事代も出させていた
学生時代から実家に女性を次々と連れ込んでいた松永太は、当時から自身が狙った女性の扱いがとても上手だったといいます。
それは社会人になってからも変わらず、意中の女性に対しては非常にマメに連絡をとり、紳士的に振舞うなどすることで女性を自分に夢中にさせるのです。
そして言葉巧みに女性を持ち上げ楽しませ・喜ばせながら、食事代は女性に払わせるように仕向けていたといいます。
1980年に結婚し男の子ができるが1992年に離婚
松永太は、この事件で共犯者として逮捕された緒方純子と同名の「ジュンコ」と1980年に結婚します。1982年には第一子となる長男を授かっています。
一見すると若い男女が結婚し子供を設け、幸せな人生を歩んでいるようですが、実は松永太の妻は結婚する以前から暴力を振るわれていたのです。それは子供が生まれてからも続きました。
妻は松永太から逃げ出すために警察に駆け込みDV被害を訴え、子供と共に身柄を保護してもらいます。行方を追う松永太から警察・役所と連携を取り逃げ切り、1992年に離婚しました。
松永と純子が知り合ったのは純子が19歳の時で関係を持ったのは20歳だった
松永太が公立高校に進学した際、同じ高校に同級生として通っていたのがこの事件で松永太の共犯として逮捕された緒方純子です。学生時代はほぼ接点のなかった2人は、松永太の悪ふざけにより再会します。
社会人となった松永太が退学処分を受けた公立高校の卒業アルバムを見たときに、当時恋人だった「ジュンコ」と同名の緒方純子に思いつきで電話し、当時短大生の緒方純子と外で一度会っています。
その1年後に再び再会すると、松永太は緒方純子に自身が会社を経営していることや音楽の才能を評価されていると事実に嘘を織り交ぜアプローチし、緒方純子が20歳のときに肉体関係を結びました。
1981年5月に父親の会社を受け継ぎ翌年布団訪問販売店「ワールド」を興す
社会人となりお菓子店に就職したものの僅か10日で退社した松永太は、その後実家や親戚の家業を手伝うことはあったが再就職をすることのない生活を続けていました。
しかし1981年5月に父親営む布団販売店を受け継ぎます。若干20歳の息子に家業を受け継がせた経緯については、松永の親族一同が一貫して取材拒否をしているため不明です。
家業を受け継いだ松永太は、その翌年1982年になると布団訪問販売会社「ワールド」を設立します。事業改革に打って出た松永太はここから『帝国』を築き上げていくのです。
布団販売店で詐欺商法を繰り返していた
実直に家業を営んできた祖父、父とは違い、若干20歳で家業を受け継いだ松永太はそれまでの営業方針を大きく転換させ、収益アップのために詐欺商法を繰り返します。
まずは高校時代の同級生で松永太が懐柔している2名を会社幹部に据え置き、その2名の友人・知人などに『会社が倒産しそうだ』と泣き落とし、土下座してでも布団を売るよう強要します。
この時の布団の販売価格はシングルが25万円、ダブルが30万円と破格の値段でした。原価はたった数万円だったというので、如何に法外な価格で販売していたのかがわかります。
1985年に実家があった場所に自宅兼事務所を新築
安価な布団を高額で売りつける詐欺商法を繰り返しながら、事業拡大を展開する松永太は1985年になると、実家のあった場所に自宅兼事務所の3階建ての自社ビルを新築します。
この時、祖父・父は松永太の提案に反対したようですが、松永太はそれを押し切り銀行から5千万円を借り入れ自社ビル建設を敢行しました。
その翌年となる1986年には、それまで有限会社として運営していた会社ワールドを、資本金500万円を投資し株式会社へと移行させています。
1988年に同居していた家族を追い出す
松永太は1988年になると同居していた家族を自宅から追い出します。それまで一緒に暮らしていた両親を何故追い出すことになったのか、はっきりとした理由は不明です。
しかしワールドの従業員たちは、入社するとすぐに会社の敷地内にある『監禁部屋』に収容され、ここで悪徳商法の詐欺手法を暴力によって叩き込まれています。
販売実績が悪い社員には顔面への鉄拳制裁も木刀で腕を殴るなどすると同時に、北九州監禁殺人事件で日常的に使われていた『通電』もしていたことから、両親にバレることを恐れ追い出したのかもしれません。
1992年詐欺商法で指名手配される
松永太は会社社長となって以降、粗悪な布団セットを高額で売りつけたり、闇金融から金を借入れ・業者から商品を買い込んで雲隠れするという『パクり行為』を続け、1億8千万円を荒稼ぎしました。
しかし遂に脅迫・詐欺罪で指名手配を受けると、共犯の緒方純子とともに石川県に夜逃げし逃亡を図ります。そして逮捕されることなく、脅迫・詐欺罪については時効を迎えました。
また常に自転車操業を繰り返していた松永太の会社は、夜逃げ前になると多くの不渡りを計画的に出しています。そしてワールドを計画的に破産させたのです。
布団販売員時代に知り合った女性の証言
学生時代から女癖の悪かった松永太は、社会人になり結婚してからも常に愛人がおり、しかも愛人は現在進行形で複数人いて、松永太にとって『女』は大事な金づるでもあったようです。
松永太が会社社長として布団販売業を営んでいるころ、勤務先のクラブで知り合ったという当時19歳の女性も、松永に金を無心され消費者金融から100万円以上も借入れた被害者です。
この女性は松永太に誕生日を口実にデートに誘われて以降、交際が始まったようです。金は用立てましたが肉体関係になる前に、松永太が地元の暴力団に詐欺の件で詰め寄られ逃亡したことで難を逃れています。
松永太の現在や家族・息子の現在
北九州監禁殺人事件で逮捕される以前から、脅迫・詐欺など数々の悪事を働いていた松永太は現在どのように過ごしているのでしょうか。
前妻との間に1男を授かっている松永太には、内縁の妻で共犯の緒方純子との間にも息子2人を授かっています。死刑囚・松永太の家族や息子の現在も気になるところです。
実は、緒方純子との間に生まれた息子(長男)は事件後保護されて以降の長い沈黙を破り、2017年10月に放送された番組に出演し、現在に至るまでの半生について赤裸々に語っていました。
死刑判決後、純子との間にできた息子と面会
松永太が死刑判決を受けた後、息子は『確定面会』という形をとり、父親である松永太に会いに行っています。
収監されている父親を見て「小さくなった」と感じたそうですが、笑顔の父親の目は笑っておらず「昔のままの親父だ」と感じたそうです。
両親を断罪する息子は、被害者・世間、そして自分たち息子に対する謝罪を父・松永太に求めましたが、松永太が謝罪することは一切なかったといいます。
息子に「署名を集めて」と頼んだ
息子からの謝罪要求に一切応じることのない松永太は、反省するどころか自身は何もしていないの一点張りで、面会に訪れた息子に対しても遠回しに「無罪」だと訴えます。
「署名を集めて」と息子に頼む父・松永太に対し、息子は「最高裁が終わり死刑判決が確定したのに今更それをして何になるのか」と父親の頼みを跳ね返しました。
自分の頼みを受け入れず、謝罪を要求する息子に対し松永太は『帰ってくれ』と一蹴したといいます。
松永は福岡留置所に収監されており死刑は執行されていない
2011年に最高裁での上告棄却の判決を受け死刑が確定した松永太は、現在福岡拘置所に収監されています。
未だ死刑は執行されておらず、松永太は死刑囚として刑の執行される日が来るまで、刑務所の中で同じことの繰り返しが続く日々を送っているはずです。