丹波慎也の死因は?高校野球での実力は天才?上地雄輔との関係は?

高校野球界において、伝説の名投手と語り継がれる丹波慎也さんをご存知でしょうか?横浜高校野球部に在籍中、17歳の若さでこの世を去りました。丹波さんの野球の実力や死因、人物像やチームメイトであった上地雄輔さんとのエピソードなどご紹介します。

丹波慎也の死因は?急性心筋梗塞?

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1995年8月17日に丹波慎也さんは亡くなりました。死因は心臓肥大による急性心筋梗塞で、寝ている間に亡くなったそうです。前日まで変わりなく生活していたので、いわゆる突然死でした。

丹波慎也のプロフィールは?イケメンで高身長?

丹波慎也さんのプロフィールを紹介します。

  • 名前:丹波慎也(たんばしんや)
  • 生年月日:1978年生まれ
  • 身長体重:184㎝・体重82㎏
  • 出身高:横浜高校
  • 兄弟:丹波幹雄(兄・元プロ野球選手)

イケメンであり高身長だった丹波慎也さんは、学校全体だけでなく、他校の女子からも人気の的でした。

丹波慎也は17歳で突然死!心臓肥大による急性心筋梗塞?

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丹波さんは亡くなる前日まで、普通に生活し野球の練習もしていました。周囲にも病気を抱えていると思わせる事はなく、17歳の少年の、あまりにも早い突然死でした。

死因は心臓肥大による急性心筋梗塞でした。

急性心筋梗塞とは、冠動脈内血栓が急に形成され閉塞した結果、心筋に血液が届かなくなり、心筋が壊死に陥る状態です。

(引用:葉山ハートセンター)

前日まで試合や練習をしていた

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丹波さんは亡くなる直前まで父親とトレーニングしたり、兄である丹波幹雄さんとキャッチボールをしたり、亡くなる2日前には、春の甲子園予選で試合をし、ノーヒットノーランを達成していたようです。

丹波慎也の死去を受けて部員全員で泣き崩れた

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野球部員は丹波さんの訃報を合宿所で告げられました。当時チームメイトだったタレントの上地雄輔さんによると、練習中にグラウンドから合宿所に選手全員が呼び戻されたそうです。

部員達は何の事か分からず、「この前良い試合したから、今日の練習は休みか(笑)」など冗談を言い合い、姿が見えない丹波さんを「あいつ調子に乗って寝坊じゃね(笑)」などと和やかな雰囲気だったようです。

そこへ、涙目の監督と部長、コーチが入ってきて、全員の空気が一変しました。監督から丹波さんの訃報を告げられた瞬間は誰も理解出来ず、やがて一人の部員が「嘘だあ!」と泣き崩れ、次々と泣き崩れたそうです。

丹波慎也の死で横浜高校は春の甲子園の出場を検討していたが母が背中を押す

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突然の出来事に、部員達の精神的ショックは計り知れないものでした。横浜高校は、チームのエースを失った事や、戦力的なショックもある事から、春の甲子園にかかる秋季関東大会の出場を検討したそうです。

そこへ、丹波さんの母親が監督に「何としても慎也のためにやってくれ」「慎也からそういう声が聞こえた。すぐにやってください、みんな頑張んなさい」と机を叩きながら懇願したそうです。

丹波さんの母親は、丹波さんのユニフォームから作ったお守りを部員達に託しました。部員達は丹波さんの「魂」の入ったお守りを手に、見事秋季関東大会を勝ち進み、第68回選抜高校野球大会の出場を果たしました。

丹波慎也が亡くなった後の試合で奇跡が起きていた?

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丹波さんが亡くなった後、部員達は団結し秋季関東大会に臨みました。宇都宮南高校との対戦の際、奇跡とよばれる出来事がありました。なんと9回2アウト、ランナー無しの状況からサヨナラ勝ちを収めた試合でした。

試合は8回表まで4対0の状況で負けていましたが、8回裏の攻撃からホームランによる2点で同点に追いつきます。いずれも突風に乗ったホームランでした。この勢いから、9回裏の執念の逆転サヨナラ勝利を納めます。

奇跡の逆転から春の甲子園出場を勝ち取る

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この試合の勝利は、部員達の丹波さんの魂と共に戦う真のファイティングスピリットと、天国から共に戦った丹波さんの熱い思いに、勝利の女神がほほ笑んだと思わせる出来事でした。

一度は断念した秋季関東大会でしたが、見事に勝ち抜き、春の選抜高校野球出場を果たしました。投手は丹波さんの代わりに、本来野手である松井光介さん(元プロ野球選手・ヤクルトスワローズ所属)がつとめました。

「タッチ」の漫画みたいと話題に?

1980年代に週刊少年サンデーで連載された、あだち充さんの大ヒット漫画「タッチ」の内容に似ていることから、「リアルタッチ」と話題になりました。

丹波慎也さんが亡くなった後、兄の幹雄さんはプロ野球となりました。幹雄さんも野球選手でしたが、右ひじを痛めてから野球と離れていました。弟の思いを背に、ブランクを跳ね除けプロ入りを果たします。

「タッチ」の内容は弟である和也の死をきっかけに、和也の夢であった浅倉南を「甲子園につれていく」意思を兄の達也がかなえるストーリーです。このエピソードが似ていると言われました。

丹波慎也の人柄や実力は?松坂大輔以上だった?

高校野球界の名門である横浜高校で伝説となった丹波慎也さん。野球の実力や人柄にまつわるエピソードを紹介します。

丹波慎也は横浜高校歴代NO1の選手?

横浜高校野球部OBには、松坂大輔選手、筒香嘉智選手など錚々たる顔ぶれがそろっています。長くに監督を務めた渡辺元智・元監督によると、「50年の指導歴の中でナンバーワン」と語っています。

渡辺元智・元監督の教え子からは、大学や社会人経由を含めて、40人以上がプロ入りしています。その中でのナンバーワンとの事ですので、当時の潜在能力はずば抜けていたようです。

丹波慎也の実力は天才的?松坂大輔以上と言われていた

丹波慎也さんの野球の実力は当時相当なもので、高校2年の時点ではプロや社会人からも注目を集めていました。体格も身長184㎝、体重82㎏と超高校級でフィジカルの完成度が伺えます。

中学時代は全国優勝を経験し、横浜高校では、入学直後から硬式戦に登板。細かい技術も高い完成度をもっていたそうです。2年生夏からエースで4番に座り、存分に実力を見せつけました。

練習試合の4試合でノーヒットノーランを2回、ホームラン3本と実績を残し、後に渡辺元智・元監督が「歴代ナンバーワン。総合的に見て松坂より上」と言い切ったようです。

球速の記録はある?

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実際にはどの位の速さであったか気になるところですが、甲子園などの大舞台に出る事が無かった為、記録には残ってないようです。感覚的には140キロ以上でていたのではといわれています。

当時は2年生でしたので、伸びしろを加味すると将来は150キロ以上は出せる投手になった可能性はあります。わずかな資料から、右上手投げで、剛速球ではなく、速球のキレで勝負する投手だと予測されるようです。

【動画付き】テレビ番組「消えた天才」で取り上げられた丹波慎也

TBS系ドキュメント番組「消えた天才」で丹波慎也さんの特集が放送されました。丹波さんと野球の時間を過ごした、兄の幹雄さんや上地雄輔さん、渡辺元智・元監督がVTR出演し、丹波さんの思い出を語っています。

背が高くモデルようなイケメンで女性に人気だった

身長180㎝を超える長身と、名門横浜高校野球部のエース、イケメン、成績も常に学年トップクラス、と他校の女子から人気者でした。

女性の黄色い声にもマスコミにも常に冷静で淡々と練習していた真面目さ

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女性からの黄色い声にも浮かれることなく、黙々と練習をこなしていたようです。マスコミからの取材を受けても、淡々と受け答えするなど、メンタル面でも際立っており、冷静で真面目だったようです。

高校2年生にして人への感謝の気持ちを言葉にしていた

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丹波慎也さんと上地雄輔さんが一緒に下校していた時のエピソードがあります。下校中の二人の周りを、マスコミや女の子が騒いでいたところ、イライラしてきた上地さんに丹波さんは言いました。

「人の意見を気にしていたらキリがないぞ。俺たちは人に感動させたり、元気にさせられる立場にいるから、人にどう思われるかはどうでもいい。ただ感謝して自分の出来ることをするしかないんだよ」と言ったそうです。

正にプロ野球選手になることを意識していると思われる言葉です。高校2年生でこの考え方は関心してしまいます。

丹波慎也の後輩・上地雄輔との関係は?

タレントの上地雄輔さんは、中学時代は野球部で捕手として全日本選抜メンバーとして世界大会に出場し、高校進学時は野球の名門校38校からスカウトを受けていたほどの実力者でした。

丹波慎也さんは上地さんの1歳上の先輩になります。上地さんは丹波さんを非常に尊敬していたようです。二人は良き先輩後輩の関係であり、バッテリーを組む関係でもありました。

上地雄輔が横浜高校に進学を決めたのは丹波慎也だった?

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上地雄輔さんが中学3年生の夏、第76回全国高等学校野球選手権大会の神奈川予選・準決勝をテレビ観戦していた時の話です。試合は横浜商工高(現・横浜創学館校)と横浜高校の試合でした。

横浜高校のピンチの場面で背番号11を背負った丹波慎也さんが途中出場してきました。丹波さんはこの試合で圧巻のピッチングを披露し、ピンチを救います。

これに衝撃をうけた上地さんは、「この人の球を受けてみたい」と思うようになります。試合直後、丹波さんが1年生だと知って再度衝撃をうけたそうです。この試合直後に「俺は横浜高校に行く」と決意したそうです。

上地雄輔はキャッチャーとして丹波慎也とバッテリーを組む

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上地雄輔さんが初めて出場した練習試合の相手は、横浜商工高でした。相手投手は上地さんが中学時代にバッテリーを組んでいた投手でした。横浜高校の投手は丹波慎也さんです。

上地さんはついに念願であった、丹波さんとバッテリーを組む目標を達成しました。

試合は見事に横浜高校が勝利し、丹波さんから「すごいよかったぞ」と褒められた際、上地さんはあまりの嬉しさにウンコを漏らしそうになったそうです。

上地雄輔は丹波慎也のことを尊敬し慕っていた

上地雄輔さんは自身のブログで、丹波慎也さんへの感謝や尊敬していたことを赤裸々に書いています。

初めて丹波さんと対面した時に、「おう!お前が上地か。よろしくな!」と声をかけられた事に感激し、小便が漏れそうになったようです。ピッチャーとキャッチャーの関係上、一緒にいる機会も多かったようです。

ブログでは丹波さんを「丹波兄ちゃん」と表現したり、「自身が女性なら遊ばれてもいいからそばにおいてほしい」と冗談交じりに書いており、丹波さんの間近にいた時間を誇りに感じていたようです。

上地雄輔の後輩に松坂大輔が入部

上地雄輔さんの1つ下の後輩として、松坂大輔さんが入部しました。松坂さんは入学した時、「丹波さんのようになれればいいな」と言っていたといいます。

上地さんは、横浜高校野球部の伝説となった「丹波慎也」と平成の怪物「松坂大輔」の球を受けたことのあるキャッチャーであることを誇りとしているようです。

丹波慎也の兄・幹雄はプロ野球になっていた?

丹波慎也さんの兄、丹波幹雄さんは元プロ野球選手です。身長193㎝、体重94キロの大型投手であり、ドラフト会議でヤクルトスワローズに8位指名され投手として入団しました。

兄・幹雄は肘を壊し野球を辞めていた

慎也さんとは4つ上であり、弟と同じ横浜高校野球部に入部しました。1年の秋からベンチ入りするなど、活躍を期待された選手でした。

しかしながら、肘を故障してしまい、2年の春に退部します。その後は野球から遠ざかっていたようです。

丹波慎也が亡くなる前に兄弟でキャッチボール

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慎也さんが亡くなる直前、慎也さんから「キャッチボール付き合ってよ」と頼まれ相手を務めました。「まだやれるじゃん」と言葉をかけられたことが、再び野球を始めるきっかけになったそうです。

兄・丹波幹雄は弟の夢を叶え野球選手に!

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弟の遺志と共に、肘の手術をうけた後、慎也さんが亡くなった翌年の1996年からクラブチームで野球を再開しました。

1998年のドラフト会議で遂にヤクルトスワローズから8位指名を受け、契約金はありませんでしたが見事にプロ野球選手となりました。「弟の果たせなかった夢」を兄が成し遂げた瞬間でした。

幹雄さんは、ケガの影響もあったようで一軍で投げることはなく、2002年に戦力外通告を受け引退しました。

兄・幹雄は現在は野球を引退しバスの運転手になっている

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丹波幹雄さんはプロ野球界を引退した後、バスの運転手をされているそうです。バス会社は、「川崎鶴見臨港バス」だそうです。

兄・幹雄がテレビに出演して丹波慎也について語っていた

TBS系ドラマ「消えた天才」で丹波慎也さんが取り上げられ、番組内で兄の幹雄さんが慎也さんについて語っています。

慎也さんが亡くなる前に幹雄さんに言った、「まだやれるじゃん」の言葉をきっかけに、再び野球を始めたことなど慎也さんへの感謝の気持ちを感慨深く語られています。

亡くなった野球選手達の石碑

丹波慎也さんを偲び、横浜高校の野球部・横浜高校長浜グラウンド脇には慎也さんの石碑が建てられています。投球中の丹波さんの姿の横に「横高野球部に栄光あれ 信念 1995夏 丹波慎也」と刻まれています。

亡くなった野球選手達を偲び建立された石碑に「鎮魂の碑」という石碑があります。太平洋戦争などで戦死した野球選手・指導者の功績を称えるため、1981年に当時の後楽園球場脇の敷地内に石碑が建てられました。

石碑は2枚あります。1枚目は戦死した選手達の名前、2枚目は遺族を代表して戦死した石丸進一さんの兄・藤吉さんによる追悼文や当時のセントラルリーグ会長の鈴木龍二さんによる建立趣旨文が刻まれています。

現在は1988年の東京ドーム建設に伴い、21番ゲート前に移設されました。管理は野球殿堂博物館が行っています。現在石碑には73名の名前が刻まれています。

沢村賞で有名な名投手「沢村栄治さん」、熱血を似て知られる「吉原正喜さん」、巨人・阪神戦の決戦に快腕で魅了した「景浦将さん」など、プロ野球の礎を築き、戦場から還らなかった名選手達の名が刻まれています。

鎮魂とは、人の魂を鎮めることです。今日では、死者の魂を慰める事、「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられています。毎年8月15日の終戦記念日頃になると、多くの方が石碑の前に献花に訪れます。

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