【深川通り魔殺人】川俣軍司の生い立ちと現在は?事件は祖父の怨念?

川俣軍司が起こした「深川通り魔殺人事件」は、当時に麻薬が横行しており、中毒で事件が多発した中でも特に注目された事件でした。6人を殺傷した犯人「川俣軍司」が事件に及んだ経緯や、彼の生い立ちや彼の現在を追いかけるとともに、事件に隠された事実にも触れてみます。

川俣軍司が起こした深川通り魔殺人事件の概要

1981年(昭和56年)6月17日の東京は、初夏ということもあり、太陽の日差しが降り注ぐ穏やかや日でした。そのお昼ごろに凄惨な事件が起きるとは誰も予想しませんでした。

1981年6月17日に東京都路上で無差別事件が起きる

1981年(昭和56年)6月17日午前11時35分頃、東京都江東区森下二丁目の商店街の路上において無差別殺人事件が発生しました。

忘れられない事件となり、人々は「深川通り魔殺人事件(ふかがわとおりまさつじんじけん)」と呼び怯えました。

犯人は川俣軍司!画像は?刑務所を出所したばかりだった

犯行に至ったのは、 当時29歳の川俣軍司という男で、傷害事件などで7回にも及ぶ逮捕歴があり、事件の約2か月前に東京の府中刑務所を出所したばかりでした。

逮捕時、川俣は猿轡、白ブリーフ、ハイソックス姿で手錠をされ連行

逮捕された川俣軍司は自殺防止用の布を口にくわえさせられ、白いブリーフと白のハイソックス姿で、手錠をかけられて連行されていきます。

その様子がテレビで中継され世間から注目された

その一部始終がテレビで生中継され、全国でニュースを見ていた日本中の国民が釘付けになって画面に見入っていました。

この穏やかな日に、日本中を一気に凍り付かせた「深川通り魔殺人事件」は大きな話題となり、麻薬の恐ろしさを知らしめることになります。

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川俣軍司の生い立ちと犯罪歴!覚せい剤の常習犯だった?

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川俣軍司の生い立ちが事件に関係したのか、また彼のの犯罪歴や、覚せい剤の常習犯と言われる真相を調べてみました。

常陸利根川のほとりに実家があった

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川俣軍司の家は常陸利根川のほとりにあったそうです。川俣とうい名字がこの辺りでは珍しいと言われるように、先祖は明治時期に入植してきた一族のようです。

この辺りは江戸後期まで砂丘と林しかない荒れ地で、住む人も多くはありませんでした。

父親は主にシジミ漁をし生計をたて集落でも群を抜いて貧しかった

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父親はシジミ漁で生計をたてる川漁師で、漁のできる期間も短く、生活はかなり厳しいものだったといいます。禁漁期間は農業でしのぐ半農半漁の人たちが大半の集落だったといいます。

しかし、殆どの人は土地だけは所有していたようですが、川俣家は土地を持つ事さえままならなかったようです。土地を持たない川俣家では農業をすることもできませんでした。

地主の人から、当時のお金で年間25,000円で家を借りて、使用人のような生活をおくっていたそうです。集落でも目立つ貧しい家だったといい、川俣軍司は幼少期をそういう環境で過ごしています。

母親はミルクが買えず川俣を重湯で育てた

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食べる物も満足になかった川俣軍司の母親は、子供が満足できるようなお乳が出なかったので、粉ミルクを買うことは当然に無理でしたので、川俣軍司は「重湯」だけで育てられたと言います。

母親も子供の川俣軍司も親子で栄養不足の状態で生きながらえてきました。

家庭環境は劣悪でいつも父親の怒鳴り声が聞こえていた

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川俣軍司の育った環境は、かなり劣悪であったということです。近所で暮らしていた人が教えてくれました。

川俣軍司は、両親と3人で暮らしていたそうで、今はなくなったが夫婦2人で住むのにはちょうど良い大きさだったといいます。

彼の話では、「いつも親父さんの怒鳴り声が聞こえてきてなぁ。騒々しい家だったぞ」と語っており、貧しいだけでなく、心も荒れるような家庭だったと言っています。

中学卒業後に東京で寿司職人の修行をするが3年で挫折

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川俣軍司は、すし職人をを目指して中学を卒業後、東京へ出てきます。住み込みでの見習い期間は真面目に働いていたようで、3年半で巻き物を任される「下板」をさせてもらえるようになります。

しかし、後から入ってきた少年院あがりの若い新人に虐められ、我慢できずに店を辞めてしまいます。その後は東京のすし店を転々とするも長続きせず、進学をやめて入った板前の道も踏み外すことになります。

川俣軍司は、根っからの悪人で仕事もろくにしていなかったように書いている記述もみられますが、真面目な一面も持っていたようです。しかし、最初の築地のすし店での苦労がダメになり、気持ちも荒んでいきました。

トラック運転手や土建会社に務めるも続けず事故を起こしている

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川俣軍司は、自分が商売に向いていないと悟ったようで、寿司屋を辞めると実家に戻って自動車の運転免許を取得します。以降は、トラックの運転手をしたり土建会社で働きますが長続きしませんでした。

この頃から酒を飲んで事件を起こしたり、言動もおかしくなってきていたようです。こうした事実や逮捕歴もあったことで、周囲から前歴のある覚醒剤の使用を疑われるようになります。

1971年に恐喝、1972年に暴行事件を起こし逮捕

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川俣軍司は、1971年6月には台東区で恐喝事件、1972年3月には足立区での暴行傷害事件、同年9月に富坂での暴行事件など、酒によっての犯行が何度も繰り返され逮捕されています。

出所後実家へ戻り電気屋に務めるもシジミ漁師となり生活が安定する

1977年4月に刑務所暮らしを終えた川俣軍司は実家に戻り、父親に口利きしてもらって電気屋に務めますが、父親の跡を継ぐ決心をして二人でシジミ漁に出るようになりました。

仕事では真面目な一面も見せる川俣軍司は、シジミ漁師での働きぶりは極めて熱心だったといわれます。朝から暗くなるまで人一倍働いたらしく、甲斐あって最初の月から200万円の売り上げがあったと言います。

1年くらい真面目に働くと、金回りも良くなって生活も安定してきました。

最初は素直だったがすぐに父親に反抗的になっていた

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父親の後を継いで二人でシジミ漁をしていた川俣軍司でしたが、始めは教えてもらう事も多く、父親の言うことを素直に聞いていましたが、仕事も覚えると態度は一変します。

体力でも父親に勝るようになった川俣軍司は、何か言われて腹を立てると「海に突き落とすぞ」などと、凄むようになりました。

母親の料理もひっくり返すようになり両親は銚子市の長男宅へ避難

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反抗は母親にもおよび、家に帰って気に食わないことがあると母親にあたるようにあります。

テーブルをひっくり返したり、暴力まがいのこともあって、両親は耐えかねて銚子市内に住む長男の家に避難する事にしました。

暴力団と関わり覚醒剤に手を出す

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家に一人になった川俣軍司は、派手に飲み歩くようになり、、暴力団との繋がりができて覚醒剤にまで手を出すようになっていきました。

若い頃からの飲酒と暴力、加えて覚醒剤に手を染めた川俣軍司は、暴行傷害などで4度の刑務所生活を送っています。

1980年に亡くなった母親の葬儀で兄と喧嘩になり薬物中毒が疑われていた

mary1826 / Pixabay軍司

1980年8月には、母親が子宮がんで亡くなり葬儀が営まれました。川俣軍司は、酒を飲んでもいないのに大声で喚いたり、おかしな言動をとり弟と掴み合いの喧嘩となり暴行罪で逮捕されます。

この時の様子があまりにも変なので、川俣軍司が覚醒剤の常習犯なのではないかと、身内の中でも噂されるようになりました。

この頃から既に、覚醒剤の副作用や禁断症状が出始めて、幻聴が聞こえたり、幻覚が見えて、犯人には身の回りから自分の事を悪口を言っているように聞こえていたとも言われます。

一人になりホステスに通い始めた結果ホステスの夫に切り掛かり実刑判決

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1人で暮らすようになった川俣軍司は、シジミ漁での稼ぎで外車を購入し、馴染みのホステスがいる銚子に毎日のように通い詰めます。

しかし、ホステスに夫がいたことを知った川俣軍司は逆上し、包丁を持って夫婦に切りかかり、懲役1年の実刑判決を受けました。

出所後再び都内へ戻り寿司屋や水産加工会社を転々とする

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これで7回目の逮捕となった川俣軍司は、すっかり覚醒剤にはまってしまい、刑務所から出るとすぐに覚醒剤を常用するようになっていたといいます。

その後も東京へ戻って、すし屋や水産加工会社を転々としたようですが、既に覚醒剤の禁断症状が出ていたともいわれ、仕事は長く続きませんでした。

務めた江東区のすし店でも川俣軍司の不可解な行動が見られたらしく、食事中にうめき声を発したり、脂汗をかいて青ざめた顔になることもあったと店主が語っています。

川俣軍司の現在や家族について

川俣軍司は、1952年2月に茨城県の鹿島郡波崎町で生まれました。兄が一人と姉が2人、弟一人の5人兄弟でしたが、長姉は幼少期に死んでいます。

残虐な事件を起こした川俣は現在も服役中

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残虐な犯行におよんだ川俣軍司は、死刑判決を望む声は多く上がったようですが、判例や彼の反省を装う発言やせい剤依存症による精神衰弱状態が考慮されて無期懲役刑を言い渡されます。

つまりは「終身刑」ということですが、罪のない6人の人々を殺傷した犯人「川俣軍司」は、今もどこかの刑務所で生きています。

逮捕された時が29歳だった川俣軍司は、2020年には68歳になっているでしょう。彼は刑務所の模範囚になるとも言ったそうです。

川俣を支援したいという人物が現れた

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川俣軍司の裁判は長くかかりましたが、「深川通り魔殺人事件」の裁判中に、川俣軍司の支援したいと申し出る人物がいたといわれます。

その人物自身も、覚せい剤による幻覚に苦しめられていたそうです。川俣軍司を支援したいと申し出た人物とは何者なのか気になりますが、プライバシーのためか全て秘密にされています。

被害者女性の祖父が川俣の祖父を殺害していた

「深川通り魔殺人事件」には、奇妙な偶然も重なっており、この部分も含めて忘れられない事件になっています。

被害者の一人である長野という女性の祖父は、実は犯人である川俣軍司の祖父を殺害したという過去があるそうです。まるで仕返しに行った犯行のようにも思えてきます。

しかし、当時の川俣軍司には、そんな事情は知る由もありませんでした。また、川俣軍司の祖父が殺害された現場は、今回の現場となった商店街からかなり近い場所だったと言われています。

兄は鉄工所の社長を刺殺

この事件には血の臭いが多く漂っており、川俣軍司の実兄も過去に殺人を犯しているのが分かりました。兄は銚子市内に親夫婦と住んでおり、それを尋ねた方が聞いたといいます。

「川俣軍司のお兄さんっていうのも、今から五〇年前に、この銚子で殺人事件を起こしてるんですよ。勤めていた鉄工所の社長さんを刺しちゃったんです」

(引用:akishobo)

つまり、兄弟揃って「殺人犯」という事です。この殺人事件の内容については分かりませんでした。

深川通り魔殺人事件とは?

それでは、「深川通り魔殺人事件」の全貌を細かくお届けしていきます。

1981年6月17日東京都江東区の商店街の路上で無差別殺人が発生

まず、事件が起きたのは、1981年(昭和56年)6月17日、時間は午前11時35分頃の事でした。場所は東京都江東区の森下2丁目付近で発生しました。

川俣軍司は、晴れた日のその時間に現れて、近くの路上や付近を歩いていた人たちを無差別で殺傷します。このとき彼は覚醒剤の常習者で薬物中毒に陥っていたといわれます。

川俣軍司は、すし屋の面接を受けた結果を聞くために新大橋通りにあった電話ボックスから電話をかけたと言っています。結果は不採用で、落ち込んで現場方向に向かい犯行に及んだそうです。

子供1人、乳児1人を含む4人が死亡

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最初に犠牲になったのは、ベビーカーに乗っていた1歳の乳児でした。次に母親と3歳の女の子に持っていた包丁で致命傷を与え、何の罪もない何も知らない3人の親子を次々と殺害しました。

続けて犯行に及び、この事件で子供1人と乳児1人を含む4人が死亡、2人が重傷となる大事件となりました。

無差別殺人を起こしたのは当時29歳の川俣軍司

目的もなく、その場で目についた人に次々と襲いかかるという残虐な「無差別殺人」をしたのは、当時29歳であった川俣軍司という男でした。

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