上尾事件とは?事件の概要とその詳細!国鉄VS乗客で大暴動に発展? 社会

上尾事件とは?事件の概要とその詳細!国鉄VS乗客で大暴動に発展?

目次

[表示]

総評は計画的な逃走の弾圧だったと発言

Skitterphoto / Pixabay

上尾事件の調査をした結果、日本労働組合総合評議会は暴動の背後には国鉄の事情に通している人物がおり、暴動は順法闘争を中止させるために意図的に仕組まれたものであるとの見解を示しました。

このような結論に至った根拠として、車両の運転席の配電盤の中で低圧回路のスイッチだけが壊されていたことや、一部の職員にしか知らされていなかった発炎筒の保管場所が開けられていたことが挙げられます。

警察庁警備今日は偶発な事件と反論

geralt / Pixabay

しかしこれに対して警察は、配電盤や発炎筒の位置は予め場所を知らなくてもすぐにどこにあるか分かったはず、と上尾事件は偶発的な事件であると主張しています。

また警察の機動隊が到着するまで時間がかかった理由についても、意図的に到着を遅らせたわけではないと反論しました。

この警察側の発表があった後は、暴動は計画されていたものとする陰謀説を唱える機関は無くなったとされます。

一水会の鈴木邦夫は自分たちが暴動を起こしたと後に主張した

O12 / Pixabay

思想団体の1つである「一水会」の鈴木邦夫は、この暴動を扇動したのは自分達だと後に主張していました。

実際に駅周辺や電車内で演説を繰り返したり、スト反対と書いた張り紙をして回ったりしていたと言いますが、これが乗客に同調されたり、受け入れられたりする様子は見られなかったそうです。

上尾事件から拡大・発展していった「首都圏国電暴動事件」

t_watanabe / Pixabay

上尾事件の後、再び国鉄は順法闘争を行いました。そしてそれがきっかけとなって首都圏国鉄暴動という、大規模暴動を引き起こしたのです。

ここでは赤羽駅を発端として起こった、首都圏国鉄暴動について紹介していきます。

順法闘争が再開、半日ストライキが決行される

PIRO4D / Pixabay

上尾事件の後、労働組合側も活動を自粛し順法闘争は休止していました。しかし1ヶ月後の4月24日、労使交渉は決裂し再び順法闘争が開始され、今度は夕方のホームに人が溢れるようになったのです。

4月24日の大宮駅の混乱で警察出動・振替誘導する事態になる

BruceEmmerling / Pixabay

この時の順法闘争には際よりも大規模な労働組合も参加していたため、影響が出た範囲も大きく、高崎線と京浜東北線が1時間から1時間30分遅れたことが原因で、最初に大宮駅で不穏な空気が漂いました。

この時の時刻は16:30。帰宅の途に着く人々が大宮駅で足止めをされたことで苛立ち、一時は乗客が駅長室に詰めかけるといったトラブルもありました。

しかし、バスや東武野田線への代替輸送を行うなどして大宮駅では事態を収めることに成功しました。

赤羽駅で停車中の電車を破壊するなど暴動が起こる

klimkin / Pixabay

しかし、20時半を過ぎた頃、東北線と高崎線がなかなか来ないことで赤羽駅にいた乗客たちの苛立ちはピークに達していました。

一向に到着の気配がない下り列車に業を煮やした乗客たちは、上りの上野行の車両を取り囲むと運転席のガラスを割って運転手を引きずり下ろし、「ここから高崎に折り返せ!」と迫ったのです。

そして下りのホームに到着した特急・津軽1号に乗り込めなかった人たちの怒りは頂点に達し、両車両と駅構内を破壊するようになってしまったのです。

赤羽駅は6000人もの人でいっぱいになり、放火などの大暴動となる

Alexas_Fotos / Pixabay

しかもタイミングの悪いことに、この時京浜東北線は信号機故障で運休状態にありました。

高崎線と京浜東北線の両線が不通になったことで21時には赤羽駅構内にいる乗客は6000人にも膨れ上がり、中には線路を歩いて帰ろうとする人も出始めていました。

そして日頃から国鉄への怒りを抱えていた人々は、京浜東北線の車内で発炎筒を着火する、機動隊に殴りかかるといった暴挙に出て、遂には運転台に火を放つ者まで現れたのです。

暴動は他の駅にも影響し、首都圏38の主要駅に広がっていった

8385 / Pixabay

赤羽駅で起きた暴動の影響は山手線に及び、首都圏の各駅にも怒りの感情が伝播していきました。新宿、渋谷、有楽町といった大きな駅を中心に、この日38ヶ所の駅で暴動が起こったのです。

それも赤羽駅で暴動が起きてから1時間もたたないうちに、瞬く間にこれだけの数の駅で同様の暴動が発生したと言います。

これらは決して一部の過激、反社会的な人々によって起こった暴動ではなく、ごく普通の会社員などを中心とした暴動でした。

上野駅では暴動により警察も手を付けられない状態になる

metaliza01 / Pixabay

特に暴動が酷かったとされるのが上野駅で、21時頃に警察が到着した時には既に駅職員は全員逃亡しており、暴徒化した乗客が切符売り場やコンコースなどの駅舎内を破壊しつくしていたと言います。

警察到着後もなかなか騒ぎを収めることはできず、0時過ぎには電車の案内板をまとめて火をつけるなど、規模の大きい放火行為も発生していました。

新宿駅も暴動・放火騒ぎとなったが駅員は逃げずに事態収拾に努めた

thommas68 / Pixabay

同じ頃新宿駅でも20000人もの乗客が立ち往生し、そのうちの何割かが暴徒化、上野駅同様に列車や駅の設備を壊す、放火すると言った騒ぎが起こっていました。

新宿駅での暴動は翌日4月25日の朝7時まで続いたと言います。しかし、新宿駅の駅員は決して逃げ出すことはなく、駅に留まって事態の収束に立ち回ったと言います。

このことから後に新宿駅の職員らには、感謝状が出されています。

損害総額は9億6000万円にものぼった

最終的に首都圏では、4月25日の10時までは全面的に列車の運行を休止することとなりました。4月24日、25日で発生した国鉄の損害は9億6000万円にも上ったと言います。

さらにこの影響は直後に訪れたゴールデンウイークにまで影響し、電車の運休が相次ぐ中、旅券の払い戻しを求める人が殺到しました。

そのため、実際に首都圏国鉄暴動で発生した被害金額は10億円を下らないと予想されています。

写真と動画で見る上尾事件

上尾事件の被害の酷さと言うのは具体的にはどのようなものだったのでしょうか?ここでは当時のことが分かる写真と動画を紹介していきます。

上尾事件当日の朝日新聞

上の写真は上尾事件当日の朝日新聞の夕刊です。暴徒化した乗客によって破壊された列車と、その周辺を取り囲む乗客の姿が映されています。

34 – 国電乗客暴動 – 1973

こちらの動画では上尾事件の被害の様子を映像とナレーションで説明するだけではなく、当時そこに居合わせた人のインタビューも入っており、リアルに事件時の混沌とした様子を感じることができます。

また当時の人々が国鉄に対してどのような感情を持っていたのかも分かり、上尾事件、首都圏国鉄暴動の両事件への理解を深めるのに役立ってくれるでしょう。

上尾事件のその後の影響

Bru-nO / Pixabay

上尾事件は国鉄に対して数多くの問題を提起した事件でした。ここでは、上尾事件後に国鉄の営業にどのような変化があったのかについて紹介していきます。

順法闘争の転換期

Capri23auto / Pixabay

上尾事件、首都圏国鉄暴動が起こった後、国鉄の職員からは首都圏での順法活動が怖いという意見も多く上がるようになっていました。

特に高崎線では活動したくないと口にする職員が多く、順法闘争を労働組合から命じられたにもかかわらず、なるべくダイヤ通りに電車を動かそうとする現場職員が増えたと言います。

1975年末からストは一気に減少するも続いていた

Free-Photos / Pixabay

その後1975年には国鉄の労働組合によるストの権利を獲得するためのストライキが失敗に終わったことから、順法闘争は急速に下火になっていきました。

この段階でも全ての順法がなくなったわけではなかったのですが、それでも騒動は沈静化していったのです。

1982年、メディアに現状がさらされてようやく内部が改善されるように

Alexas_Fotos / Pixabay

順法闘争が完全に収束したのは、事件から10年近くが経った1982年のことでした。

この年に首都圏本部長の尾関氏は国鉄を旅客会社としてのJRと貨物事業に分割して、それぞれを民営化するという国鉄分割民営化の動きに向けて、国鉄の腐敗した体制に本格的にメスを入れ始めました。

そしてその現場がマスコミによって報道されるに至り、順法闘争は終わりを迎えたのです。

適切な車両の配置

Santa3 / Pixabay

国鉄はラッシュ時の運行をスムーズに行うために、これまで使用していた急行形電車を廃止して近郊形電車42両をメーカーに発注しました。

1975年までの間に列車は刷新され、ラッシュ時の高崎線では乗り降りのしやすい車両が取り入れられるようになったのです。

現状打開の指針の発表と輸送力の強化・改善

ar130405 / Pixabay

1974年11月には国鉄首都圏本部は、輸送力の増強と指針の修正を打ち出しました。

この中では国鉄の改ざん連はもちろんのこと、国や関連企業に求める協力についても定められており、高崎線の混雑緩和のための新線の増設についても言及されていました。

1974年11月8日に国鉄首都圏本部が提言を発表

fill / Pixabay

1974年11月8日、「首都圏通勤交通現状打開のための提言」という上尾事件、そして首都圏国鉄暴動を引き起こすきっかけとなった国鉄の不備を是正する提言が、国鉄首都圏本部より発表されました。

この提言の取りまとめは社会学者の磯村英一氏や鉄道省の瀧山養氏によって行われました。

埼京線を設置する計画と反対意見

geralt / Pixabay

混雑緩和、ラッシュ時の高崎線の遅延防止のためには、通勤の用途で使える新線の増設が必要とされてきました。

そして埼京線の建設が検討されたのですが、当初は沿線住民から反対意見も出ていたと言います。

しかし1980年代に入っても高崎線のラッシュ時の乗車率は300%近く、次第に近隣住民による反対運動も減っていきました。

1985年9月30日、埼京線の開通

JESHOOTS-com / Pixabay

そして1985年9月30日、埼京線が開通しました。高崎線へ乗り入れることはありませんでしたが、これによって大宮以南の駅でのラッシュ時の混雑は大幅に解消されたのです。

昼間特急列車の大幅削減、新志位本線直通の特急列車全廃、ブルートレインの廃止

ndemello / Pixabay

また、長距離旅客列車が高崎線の線路を多数運航していることも混雑やダイヤの乱れの一因となっているとして、昼間特急列車の数を大幅に削減しました。

具体的には信越本線直通特急は全線廃止され、ブルートレインの運行本数も徐々に減らしていくことを決定しました。

情報システム充実化に向けた開発

Free-Photos / Pixabay

国鉄では1973年より、電話案内の強化などを含む鉄道電話網の整備が進められるようになりました。また電信の自動化については、1年以内をめどに急ピッチで進められていきました。

情報システムが本格的に運用されるまでには長い年月がかかった

nile / Pixabay

同じく急務とされていた情報システムの運用開始までには、長い時間を執拗としました。

当時、国鉄が手本とするシステムとして挙げられたのが私鉄の運行管理システムで、これに近いものを構築するためには課題が数多くあったのです。

1980年代後半に開発された「TRAPS」は普及しなかった

xresch / Pixabay

国鉄の運行システムでは、貨物輸送の面と旅客の移動と言う2つの面から運行システムを整える必要がありました。

そして1980年代に「TRAPS」というシステムが誕生したのですが、当時の計算システムで「TRAPS」の全機能を引き出すのは困難であり、あまり広くは利用が浸透しませんでした。

1990年代後半に「ATOS」というシステムが採用される

geralt / Pixabay

そして1990年代に入ると、首都圏の列車の運行管理をするシステムとして「ATOS」が開発されます。これは2019年現在、最も広範に使われているシステムです。

乗客が触れることのできる機能としては、行先の詳細な情報表示や列車内の自動アナウンスなどがあります。

2000年代後半にはチリ案内情報サービスも普及した

TeroVesalainen / Pixabay

こうして2000年代に入ると、携帯電話やスマートフォンの普及により地理情報案内サービスも増えていきました。

そして乗客は、どこにいてもすぐに列車の運機構状況を調べられるようになったのです。

NEXT:上尾事件に影響を受けた著名人
3/4