八甲田雪中行軍遭難事件はなぜ起きた?青森第5連隊の生存者は? 社会

八甲田雪中行軍遭難事件はなぜ起きた?青森第5連隊の生存者は?

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遭難した青森第5連隊と生還した弘前第31連隊の違いは?

八甲田雪中行軍遭難事件で壊滅した青森第5連隊の行軍部隊に対して、同時期に八甲田山で行軍訓練を行なった弘前第31連隊から編成された行軍部隊は見事1人の犠牲者も出さずに訓練目的を達成しています。

ここでは、同じ天候条件下にありながら、壊滅的失敗をした青森第5連隊と成功を収めた弘前第31連隊の違いは何だったのかについて見ていきます。

弘前第31連隊は人数が少なかったため統率が取れていた

雪中山岳下での物資の運搬や部隊の移動が研究対象だった青森第5連隊の行軍部隊は、下士官や兵を中心とした210名という実戦的規模の大編成だったといいます。

これに対して行軍方法や最適な装備の研究が目的だった弘前第31連隊は、士官以上を中心に編成された37名の少数精鋭の兵士に、従軍記者1人を加えた38名という小規模な編成でした。

また、弘前部隊は参加志願者を募った上に選抜にもこだわり、地元青森出身者を中心に編成されていました。このため、11泊12日という長期行軍でありながら、最後まで統率が乱れることはありませんでした。

雪中行軍の経験者もいた

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青森第5連隊からの行軍部隊に、現地の雪山の環境を知る者がいなかったというのは既に述べましたが、それどころかそもそも雪中行軍の経験がある隊員自体がほとんどいなかった様です。

これに対して弘前第31連隊では、この訓練以前から2年間にわたって雪中行軍の研究や訓練を重ねてきており、この行軍部隊の中にも雪中行軍の経験のある隊員が多数含まれていました。

また、研究の責任者であり行軍隊の指揮官である福島大尉は、これまでの研究や訓練の積み重ねで膨大なデータを蓄積しており、この頃には雪中行軍のエキスパートとも言える存在になっていました。

装備も整えていた

弘前31連隊の研究テーマはそもそも雪中行軍に適した装備の研究であったため、弘前隊はこれまでの研究成果として、雪中行軍に適した装備について熟知し、最適な装備が整えられていました。

また、指揮官の福島大尉は訓練を決行するにあたって、行軍中に注意すべき事を事前に事細かに指示しています。

その中には靴下を3枚重ね履きした上から唐辛子をまぶし、その上から油紙を巻くことなど、装備に関しての具体的な凍傷予防の方法なども含まれていました。

地元民から防寒対策も聞いていた

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青森第5連隊が地元民の協力を断った事に対して、弘前31連隊は行軍中に全面的に地元民からの協力を活用していました。

現地に適した防寒対策の情報収集を始め、道案内を依頼する、食料や装備品の補給、宿泊地なども現地の住民に任せるなど、訓練全体において地元の民間人からの協力を得ていました。

案内人を立てていた

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弘前31連隊は、ほぼ全行程で地元の村落から随時数人の案内人を雇っています。この事が天候の悪化に巻き込まれながらも、犠牲者を1人も出さないという好結果につながったとされています。

弘前第31連隊は約220キロのルートを犠牲者なく達成している

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青森第5連隊は、わずか20キロの距離の行軍予定でしたが遭難し、部隊はほぼ全滅しています。対して弘前第31連隊は、約200キロに及ぶ長距離行軍でしたが1人の犠牲者も出さずに踏破しています。

大隊長だった山口少佐の死因は暗殺されたという説がある?自殺説も?

青森第5連隊の行軍隊に大隊本部の責任者として随行した山口少佐は遭難後に無事救出されますが、入院中の2月2日に突然心臓麻痺で死亡しています。

この山口少佐の死に関して少し不審な点があるとして、後世になってから暗殺説や自殺説など様々な説が唱えられています。

山口少佐は救出後に死亡した

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山口少佐は、第5連隊の八甲田山雪中行軍の3日目の1月25日頃に、意識混濁状態になったとされますが、その後も隊員に背負われるなどして部隊と行動を共にし、1月31日に救助隊に救出されています。

しかしその後、山口少佐は入院先で死亡しています。この死のタイミングは少しおかしいのではないか?との指摘が後世の研究から出ています。

公式の死因は心臓麻痺

山口少佐の死因は公式には心臓麻痺と発表されています。これに関しては、実際の死亡原因が何であれ、こうした場合には死因は心不全と発表される場合が多いため、特段不自然なことではありません。

ピストルで自殺した説がある

山口少佐は八甲田雪中行軍遭難事件の責任をおって、自らピストルで自殺したという説が存在します。

これは八甲田事件をテーマにして大ヒットとなった小説「八甲田山死の彷徨」でエピソードとして書かれたために広まった説だと考えられます。

軍部に暗殺されたという説も

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また、八甲田雪中行軍遭難事件の責任を山口少佐1人に押し付けるために、軍部が謀って山口少佐を秘密裏に暗殺したという説も存在します。

この時期の日本は、ロシアや欧米列強との敵対関係が表面化しはじめており、軍の弱体化を避けるため民間からの批判を徹底して避ける必要がありました。こうした背景から噂されたのがこの暗殺説だ考えられます。

どちらの説も否定されている

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しかし、この2つの説はいずれも否定されています。自殺説に関しては、山口少佐はこの時両手とも凍傷で使い物にならず、拳銃を握ることは絶対に不可能であるという点から明確に否定されています。

暗殺説に関しては、この当時東京と青森の間は電話で結ばれていなかったために、通信手段は電報に限られました。当時の電報記録は全て詳細に残されていますが、暗殺を匂わせる内容は全くありません。

したがって、山口少佐暗殺説には、物的な証拠が一切存在しない上、状況的にも暗殺の指示をこの短期間に現場に伝える事は絶対に不可能であるため、この説も明確に否定されています。

生存者のその後は?最後まで生きていたのは小原忠三郎伍長?

続いては、八甲田雪中行軍遭難事件の生存者達のその後についても紹介します。

ほとんどが凍傷で手足を失った

八甲田雪中行軍遭難事件の生存者は救出後に死亡した人を除いてわずか11名です。その11名中8名が凍傷による後遺症で両手足やそのいずれか、または手指の切断を余儀なくされています。

生存者は英雄扱いされた

この生存者ら11名は、過酷な環境をくぐり抜け生還した英雄として扱われました。

特に最初に救援隊に発見された後藤房之助伍長は「仮死状態で歩哨の如く立っていた」と大きく軍部に宣伝され、のちに「雪中行軍遭難記念像」のモデルにされています。

生存者11人で記念写真を撮っていた

生存者達11人は、その後に軍服を着て記念の写真を撮影されています。この事からも生存者達が軍の宣伝に使われていた事がわかります。

後の日露戦争で戦死した者もいる

第5連隊の行軍隊の生存者11名の中で、最も元気に生還した倉石一大尉は凍傷が軽く四肢の切断をも免れたため、その2年後に発生した日露戦争に従軍しています。

そして、激戦として知られる黒溝台会戦において1905年1月27日に戦死しています。この黒溝台会戦では、同じく凍傷が比較的軽く済み、四肢切断を免れた伊藤中尉と長谷川特務曹長も重傷を負っています。

小原忠三郎伍長は91歳まで生きた

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八甲田遭難事件の生存者の中で、最も長生きしたのは小原忠三郎伍長で、1970年2月5日に91歳の天寿を全うされています。戦後に行われたこの小原伍長からの取材で、事件の詳細が明らかにされました。

「鹿鳴庵」には小原忠三郎伍長の義手と義足がある

八甲田山馬立場付近にある雪中行軍記念館「鹿鳴庵」にこの小原忠三郎伍長が生前に使用していた義手と義足が展示されています。

この「鹿鳴館」にはこれ以外にも八甲田雪中行軍遭難事件に関する資料400点以上が展示されています。また付近には有名な「雪中行軍遭難記念像」があります。

八甲田雪中行軍遭難事件を教訓にして変わった事は?

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八甲田雪中行軍遭難事件を教訓にして、旧日本軍では様々な事が改変されました。八甲田雪中遭難事件では何が変わったのでしょうか?

指揮系統の維持を厳守するようになった

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この遭難事件をきっかけにして、旧日本軍では指揮系統の明確化や、その維持を厳守するようになったと言われています。

徹底した装備をする事も守られるように

また、この事件をきっかけにして冬季装備の近代化も一気に進み、これは、2年後の日露戦争で十分に活かされる事となりました。

この教訓は現在も自衛隊に引き継がれている

八甲田雪中行軍遭難事件で得たこうした教訓の数々は、現在の自衛隊にも伝統的に引き継がれており、自衛隊の雪中行軍能力は、世界でも屈指の好評価を受けています。

八甲田雪中行軍遭難事件後の影響は

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八甲田雪中行軍遭難事件後の当時の国内の動きについても見ていきましょう。

雪中行軍遭難記念像が建てられた

八甲田雪中行軍遭難事件で、一番最初に救助された後藤房之助伍長をモデルにして、その救助現場に「雪中行軍遭難記念像」が1904年に建てられています。

仮死状態になってまで、救助隊に見つけられやすい様に銃を杖代わりにして必死に立ち続けた後藤伍長は賞賛され、全国の将校達の寄付により、犠牲者を慰霊する意味も込めてこの後藤伍長の銅像が立てられました。

八甲田山雪中行軍遭難資料館も建てられた

1978年には青森県青森市幸畑に「八甲田山雪中行軍遭難資料館」が建てられています。第5連隊の行軍部隊の写真や遺品を始め、救助隊による資料や長谷川特務曹長の手記なども展示されています。

ノルウェー国王からお見舞い品が贈られた

1909年には、当時のノルウェー国王ホーコン7世から、お見舞いの品としてスキー板2本が明治天皇に進呈されました。

八甲田雪中行軍遭難事件が起きた場所は心霊スポットになっている?

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八甲田雪中行軍遭難事件が発生した一帯は、実は現在有名な心霊スポットとして知られています。八甲田山にまつわる心霊エピソードを紹介します。

心霊現象も起きた?ただのイタズラとも言われている

2014年5月17日、八甲田山雪中行軍遭難現場付近にある無人の別荘から119番通報がありました。消防本部が応答したものの「ザーッ」という雑音が聞こえるのみの無言電話だったそうです。

現場を特定して救急隊が出動、現場に到着した救急隊が周辺を入念に捜索していますが、人っ子一人見当たらず無人だったそうです。

単なるイタズラや現場の特定ミスだとも言われていますが、場所が場所だけになんとも不気味な印象を受ける人が続出しました。

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