八甲田雪中行軍遭難事件はなぜ起きた?青森第5連隊の生存者は? 社会

八甲田雪中行軍遭難事件はなぜ起きた?青森第5連隊の生存者は?

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第二野営地では多くの死傷者がでた

猛烈な吹雪にさらされる中での露営となった部隊は、缶詰や干し飯、餅などの食料を携行していましたが、完全に凍りついている上に多くのものが凍傷で手を使えず、ほとんど食事をとる事も出来ませんでした。

部隊は凍傷者を中心に囲むように寄り集まり、互いの体を摩擦し合い、足踏みを繰り返し、軍歌を斉唱してなんとか眠らないようにしますが、疲労困憊の絶食状態という事もあって、この場で多くの凍死者を出しています。

1月25日には部隊が解散され発狂者や凍死者がさらに続出

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吹きさらしでの露営を余儀なくされ、凍死者が続出する中、行軍開始から3日目となる1月25日となります。この時点で、凍死者と行方不明者は合わせて70名を超えていたと記録されています。

この日は明け方を待って出発するつもりでしたが、このままではさらに凍死者が続出しかねないと判断され、やむなく午前3時頃に移動を再開しました。

部隊はしばらく進みますが、断崖に阻まれて先に進めず、引き返そうとしますが道を見失います。後に生き残った後藤伍長は、ここで将校達が協議、部隊を解散し各自の判断で行動する指示が出たと証言しています。

斥候隊により帰路が見いだされ行軍

また、ここで神成文吾大尉が「天は我らを見捨てた」といった言葉を発したとの証言があり、この言葉をきっかけにして将兵の士気が崩壊、錯乱、凍死するものが続出したとされます。

午前7時頃、やや天候が回復したタイミングで斥候隊2隊が募られ、田茂木野と田代の2方面に偵察が出されます。田茂木野方面に向かった斥候隊が帰路を発見し、部隊は行軍を再開します。

3回目の露営で凍死者が増える

隊は午後3時頃に馬立場に到達し、そこで田代方面に向かった斥候隊をしばらく待ちますが、この隊は戻らずそのまま行方不明となっています。この時点で隊に残存していたのは60~70名ほどだとされます。

隊は行軍を再開し、午後5時頃にカヤイド沢に辿り着いてこの場所を露営地に定めますが、この時点で部隊は既に散り散りになっていたと記録されています。

大隊本部付きの倉石大尉の指示で各方面に伝令が出されますが、ほとんど将兵は集まらなかったようです。この露営地では凍死者の背嚢を燃やすなどして暖が取られますが、ここでもさらに凍死者が続出しました。

神成隊と倉石隊の二手に分かれ行軍した

この時点で生還者達の証言にもかなり混乱が見られ、食い違いなども多いのではっきりとした事は判明していませんが、どうやら1月27日になって神成大尉の率いる隊と、倉石大尉の率いる隊の二手に分かれたようです。

神成大尉の率いる数名は田茂木野方面を目指し、倉石大尉の率いる20名ほどは駒込澤沿いに進んで青森方面を目指す事に決まったようです。倉石大尉の隊には昏睡状態で兵に背負われる山口少佐が含まれていました。

生還者の1人後藤伍長の証言によると、1月25日の時点で大隊本部から随伴していた山口少佐は死亡(後に誤認と判明)、倉石大尉は1人で田代を目指して姿を消したとの情報もあり、詳細がはっきりしません。

1月27日救援隊によって神成隊の後藤房之助伍長が発見される

この頃、青森屯営では予定の日時を過ぎても帰還しない行軍隊を案じており、1月26日に救援隊が編成されていますが、その日の捜索は天候の悪化で途中で打ち切られています。

翌27日に捜索を再開した救援隊は午前10時半頃に大滝平付近で雪の中に1人立っている後藤房之助伍長の姿を発見しました。

後藤伍長はこの時、目を開いたまま意識を失ったようになっており、救助隊が呼びかけるとようやく気がついた様子であったとの説や、仮死状態にあって救命措置で蘇生したなど様々な説などがあるようです。

意識を取り戻した後藤伍長の発言で付近を捜索すると神成大尉らの遺体が見つかる

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後藤伍長は意識を取り戻し「神成大尉」と言葉を発したとされます。救援隊が周囲を捜索すると、そこから約100メートル先に神成大尉が倒れているのを発見しました。

神成大尉は帽子も手袋もつけずに雪に首まで埋まり、全身が凍結して死亡していたとされます。近くで及川伍長の遺体も発見されます。

救援隊は遺体に目印をつけて後日回収することとし、そのまま田茂木野まで進んでいます。

1月28日、佐藤特務曹長が凍死?

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その頃、倉石大尉の隊にいた佐藤特務曹長がついに発狂し、下士兵卒を引き連れて突如川に飛び込み、岩に引っかかってそのまま凍死したとの説があります。

倉石大尉は佐藤特務曹長は連隊に連絡に行くと言って隊を離れたまま行方不明になったと報告しているため、佐藤特務曹長の死の真相は不明です。

1月30日救助隊が賽の河原で36名の遺体を発見

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捜索のための、拠点を築き神成大尉らの遺体を収容した救援隊はそのまま周辺の捜索を続け、1月30日に賽の河原と呼ばれる川沿いに中野中尉ら36名の遺体を発見しています。

1月31日に別の生存者が発見される

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その翌日の1月31日の午前9時頃、捜索隊に加わっていた人夫が鳴沢付近で偶然に小屋を見つけ、そこで生存者の三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒を発見し救助しています。

小屋の中にはもう1人の遺体があり、さらに小屋の周辺から16名の遺体が発見されました。生存者2名は25日に露営地を発して以降の記憶をほとんど失っており、気がついたら小屋に飛び込んでいたと証言しました。

同日午後3時頃、倉石大尉らと共に進んでいた伊藤中尉ら4名が救助隊に発見され、合計で9名の生存者が救助されます。しかし、うち2名は救助後ほどなくして死亡しています。

2月2日残りの生存者が救出された

2月2日、救助隊は平沢付近で炭小屋を発見し、中に長谷川特務曹長ら合計4名の生存者を発見します。しかし、うち2名は救出後程なく死亡しています。

この小屋には当初永井軍医ら合計8名の生存者が避難していたとの事でしたが、3名は救援を求めて屯営地を目指し出たまま戻らず、永井軍医は外から助けを求める声を聞き外に出たまま戻らなかったという事でした。

生存者は210名中11名

同日午後3時頃、最後の生存者の村松伍長が田代付近の小屋の中から発見され救助されます。村松伍長は偶然に付近に温泉を発見し、その湯を飲む事でかろうじて命を繋いだそうです。

合計で17名が救援隊によって救助されますが、そのうち6名(内、山口少佐は2月2日の入院中に死亡)が救助後死亡しています。最終的な生存者は行軍部隊210名中わずか11名でした。

八甲田雪中行軍遭難事件の生存者は?

八甲田雪中行軍遭難事件では総勢210名中、生還できたのはわずか11名でした。ここでは八甲田雪中行軍遭難事件の生存者について見ていきます。

倉石一大尉を始め11名が生存した

八甲田雪中行軍遭難事件で生還できたのは、大隊本部付きの将校で大隊本部の最高責任者であった山口少佐が昏睡状態に陥った後、神成大尉と共に中心となって部隊の指揮をとった倉石一大尉をはじめとする11名でした。

倉石大尉の他には、行動を共にしていた伊藤中尉や長谷川特務曹長がいます。この3人は奇跡的に凍傷にかからず回復、その後の日露戦争にも参加し、倉石大尉は戦死、伊藤長谷川両名も重傷を負っています。

その他の生存者は、最初に救助隊に発見された後藤房之助伍長をはじめ、小原伍長、及川伍長、村松伍長、阿部卵吉一等卒、後藤惣助一等卒、山本徳次郎一等卒、阿部寿松一等卒らでした。

救助隊に救出された17名中6名は救出後に死亡した

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救助隊が救助した生存者は合計で17名でしたが、その内の6名は救出後の治療の最中または入院中に死亡しています。

特に大隊本部の責任者として訓練に参加していた山口少佐は入院中の2月2日に心臓麻痺で死亡しており、その死は自殺説や陰謀説、暗殺説など様々な憶測を呼んでいます。後で詳しく解説します。

事件後遺体の捜索活動が大々的に行われた?その方法は?

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救助隊による第5連隊の捜索は軍をあげて大掛かりに行われました。救助活動や遺体の捜索方法などについても見ていきましょう。

連隊や砲兵隊が出動した

青森第5連隊からの行軍部隊が遭難したと判断されると、当該の青森第5連隊だけでなく、弘前の第31連隊、仙台の第5砲兵隊も参加してのべ1万人もの大掛かりな救助隊が編成されました。

生存者の発見が済むまではまさに総がかりという体制で捜索が行われましたが、生存の見込みのある者の救助が済み、捜索方法の確立が完了した後には、第5連隊のみでの遺体捜索が行われています。

雪に竹や鉄の棒を刺して捜索

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生存者や遺体の捜索は、事前の作戦計画や生存者の証言から部隊の行軍した経路を推測し、そのラインを基準にして30名の横隊(幅30メートル)が捜索しながら少しずつ前進するという方法で行われました。

具体的には横隊は各員それぞれに10メートルほどの竹の棒を持ち、雪中に突き刺しながら進み、ほんの少しでも違和感があればその場所を掘って捜索するという方法で捜索が進められました。

こうした方法で捜索活動が続けられますが、捜索開始から1ヶ月ほどが経過すると捜索隊員に踏み固められた雪が次第にカチカチに固まって竹棒が刺さらなくなったため、それからは鉄の棒に切り替えられています。

アイヌ人とその猟犬にも協力してもらった

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この捜索の初動の段階には、アイヌ人のリーダーの1人である辨開凧次郎率いる一団(この人数は7人という記録と8人という記録が存在)を北海道から招き、救助・捜索活動への協力を受けています。

アイヌ人の救助隊は所有する優秀な猟犬(アイヌ犬)を使って救助・捜索活動に参加し67日間捜索参加期間に11名の遺体と多数の遺品を発見するなどの大きな成果をあげたと記録されています。

遺体の捜索は事件から4か月程で終了した

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この捜索活動は4ヶ月ほども続けられ、5月28日に最後の遺体が収容されています。収容された各遺体は、哨戒所で衣服を脱がせた後に新たな軍服に着替えさせ、本部に集積されました。

その後遺体は、第5連隊の駐屯地に運ばれ、そこで遺族による面会確認がされた後、現地で荼毘に付されるか故郷に帰すかといった処置がなされたという事です。

八甲田雪中行軍遭難事件はなぜ起きた?

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八甲田雪中行軍遭難事件は、世界でも類を見ないほど悲惨な遭難事故でした。何故このような大惨事が発生してしまったのかについては、その後の研究によって様々な要因が指摘されています。

ここでは、八甲田雪中行軍遭難事件の原因として指摘されている内容の中から代表的なものを順番に紹介していきます。

日露戦争を前に急いだ

当時日本は、日清戦争に勝利した事で獲得した遼東半島を清に返還するように求める、ロシア、フランス、ドイツの3大国からの圧力(三国干渉)を受けていました。

特にロシアとは大陸で直接的に利害がぶつかり武力衝突の可能性が高まっていました。世論も主戦論へと傾き、数年の内に起こるであろう日露戦争に備え、雪中での行軍方法や物資の運搬方法の確立は喫緊の課題でした。

こうした緊迫した国際情勢の中で、かなり急いで八甲田山雪中行軍訓練は計画され、冬季の軍事行動の研究という側面があったため、そもそもデータが少なく、不測の事態に対応出来なかったという指摘があります。

予行演習が上手く行き過ぎた

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計画を立案した神成文吾大尉は、本作戦の開始数日前の1月18日に、青森から小峠までの片道9キロほどをソリで物資を運搬しつつ行軍するという内容の予行演習を行なっています。

この演習は天候に恵まれた事もあって、さしたる難もなく成功します。この演習が上手くいった事が、本作戦も容易に達成できるはず、という楽観的な予測につながったのではないかと指摘されています。

青森第5連隊には厳冬期の八甲田に詳しい人がいなかった

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青森第5連隊から編成された行軍部隊には、指揮官の神成文吾大尉をはじめとして岩手県や宮城県の出身者で構成されており、厳冬期の八甲田山の地形に詳しい人材は1人も部隊編成に加えられていませんでした。

同じく雪国であるとはいえ岩手県や宮城県の雪山の雪質と八甲田の雪質が全く異なります。加えて詳しい地形や目的地田代までの道筋を部隊中誰1人知らなかったとすれば、この遭難は必然であったと言えるでしょう。

地元民の制止を振り切って案内も断った

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八甲田山雪中行軍訓練の初日、第5連隊が田茂木野に差し掛かったところで、地元の住民が例年この時期には天候が崩れるので、このまま進軍するのは危険だと進言しています。

しかし、将校らはこの進言を入れませんでした。どうしても行くというのなら案内をするという申し出も拒否し、そのまま部隊を行軍させています。

拒否した理由については、軍の威信をかけて断ったなどの説もあるようですが、これは後世の創作の可能性が高いようです。何れにしてもこの時案内をつけていれば、遭難は避けられたとの見方があります。

軽装で訓練を行った

第5連隊の八甲田山雪中行軍部隊は、明らかに雪山登山に適さない軽装備で訓練に挑んでいます。防寒対策として用意されたのは、准士官以上でも雪を吸いやすい毛糸の軍帽や外套(コート)でした。

下士官以下に至っては、防寒用に支給されたのは毛糸の外套2枚だけで他は通常装備という有様で、極寒の雪山に全く適さない装備でした。また、多くの者が通常の革靴を履いておりその全員が凍傷になりました。

こうした全く雪山に適さない装備で極寒の雪山に突入してしまったため、猛吹雪に全く耐える事が出来ずに部隊は壊滅してしまったとされます。

天候も軽視していた

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数日前に行われた予行演習は晴天に恵まれた事もあって、参加した将兵からは快適な雪の中の遠足のようであったとの言葉も聞かれたそうです。

こうした楽観的な情報が原因となり、部隊全体が天候面のリスクを軽視していた可能性が指摘されています。訓練出発の前日には深夜遅くまで宴会が開かれ、温泉に遊びに行く様な認識だったという証言もあります。

こうした証言や上述の雪山登山に適さない軽装備具合から見ても、天候が悪化して猛吹雪に巻き込まれるという状況を全く想定していなかったという事が伺われます。

防寒に関する知識が無かった

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そもそも、部隊に防寒に関する知識が無かったのでは無いか?という指摘もされています。部隊のほとんどが岩手県や宮城県の農家の出であり、厳冬期の雪山の防寒知識を持っていなかったと考えられています。

指揮系統が複雑だった

部隊の指揮官だった神成文吾大尉は、実は訓練実施のわずか3週間前でした。それまでは別の担当者がいましたが、夫人の妊娠立ち会いのために解任され代わりに急遽任命されたのが神成大尉でした。

急遽決まった指揮官だった事に加えて、大隊本部からの随伴として階級が上である山口少佐をはじめ、本部付きの尉官や士官待遇である特務下士官らが行軍隊に加えられていました。

この事が原因となって指揮系統が複雑化し、円滑な命令が下せなかったのでは無いか?という指摘があります。途中から山口少佐が独断で指揮をとっていたという生存者からの証言もこの説を強めています。

出発前の画像もある?

上の画像は第5連隊から編成された行軍隊の出発前の写真だとされます。この写真から物資運搬に使われたソリがかなり大きく、平地の雪原ならばともかく、雪山での運搬には向かない事が指摘されています。

ただ、この写真が本当に出発前の第5連隊を撮影したものなのかまでは確認できませんでした。100年以上前の出来事であり、画像の資料が極めて少ない事も考察を難しくしたのです。

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