八甲田雪中行軍遭難事件はなぜ起きた?青森第5連隊の生存者は?

1902年に発生した「八甲田雪中行軍遭難事件」は、青森第5連隊から編成された雪中行軍部隊が冬の八甲田山で吹雪に巻き込まれて遭難し部隊のほぼ全員が死亡した事件です。今回は事件の原因や生存者のその後、対照的に語られる弘前第31連隊についてなど詳しくまとめます。

八甲田雪中行軍遭難事件の概要

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「八甲田雪中行軍遭難事件」とは、1902年1月に行われた旧日本陸軍による雪中行軍訓練の際に発生した大規模遭難事故です。

訓練に参加した部隊の総勢210名中、90パーセント以上にあたる199名が死亡するという、世界でも稀に見る凄惨な遭難事故となりました。

今回は、八甲田雪中行軍遭難事件について詳しく紹介します。まず最初に、八甲田雪中行軍遭難事件の概要について詳しく見ていきます。

八甲田雪中行軍遭難事件は明治に起きた世界最大級の山岳遭難事故

八甲田雪中行軍遭難事件は、明治維新が起こり近代化を目指していた明治時代中頃(明治35年)の日本で起きた事件です。

旧日本軍から現在の自衛隊に至るまで、国内で行われた冬季軍事訓練中最大の死傷者を出した事故であり、世界規模で見ても当時から現在に至るまで、世界最大級の山岳遭難事故として語り継がれています。

事件が起きたのはいつ?現場は八甲田山

事件が発生したのは日清戦争から7年後、日露戦争の2年前にあたる1902年(明治35年)で、事件発生現場は、青森県青森市にそびえ立つ連峰の総称である「八甲田山」でした。

八甲田山は火山群の名称

八甲田山雪中行軍遭難事件が発生した「八甲田山」は1つの独立した山岳ではなく、青森市の南部にそびえるいくつかの火山が集まった山岳地帯の総称であり、18の火山で構成される火山群です。

青森県全域で見た場合ほぼ中央部に位置し、高地湿地が沢山存在する美しい景観で有名ですが、標高1585mの険しい山であり、冬季になると一帯は世界でも有数の豪雪地帯となります。

八甲田山の冬は過酷な環境になることで有名だった

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八甲田山は、冬季になると天候によっては命に関わる様な過酷な環境になる事がよく知られていました。そのため地元の住民は天候が悪化した場合には山に足を踏み入れることを避けていました。

八甲田雪中行軍遭難事件が発生した際にも、地元の住民が悪天候を危惧し、部隊に訓練を中止する様に進言したと言われています。それでも訓練を強行したことが遭難事故発生の原因となったとも指摘されています。

事故にあったのは日本陸軍の師団

八甲田雪中行軍遭難事件に巻き込まれたのは、青森を駐屯地としていた旧日本陸軍第8師団、歩兵青森第5連隊に所属する兵隊210名で、この訓練のために第2大隊を中心に編成された部隊でした。

軍事訓練中に起きた遭難事故

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八甲田山雪中行軍遭難事件は、旧日本陸軍が行った軍事訓練の中で発生しました。様々な要因が重なって発生したとされる、悲惨な遭難事故でした。

八甲田山で行われた冬季訓練中に起きた

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この訓練は、近い将来に起こると予想されていたロシアとの戦争に備えて、ロシアの侵攻によって日本海側の鉄道が寸断された場合を想定し、人力によるソリを使った物資の運搬が可能かを調査する目的で行われました。

そして、物資の運搬路が寸断された場合には、八甲田山を超えての物資運搬の必要性が想定されたため、訓練の場所として八甲田山が選定されたのでした。

しかし、その八甲田山を超えての物資運搬を想定した行軍訓練中に、現在まで語り継がれている八甲田雪中行軍遭難事故が発生してしまったのでした。

雪中行軍を行ったのは青森第5連隊と弘前第31連隊

八甲田山での雪中行軍訓練を行ったのは、青森県に駐屯する旧日本陸軍第8師団に所属する青森第5連隊と弘前第31連隊でしたが、連携した訓練ではなくそれぞれの別の目的で独立して行われています。

各連隊の中から行軍訓練のメンバーが選抜され部隊が編成されましたが、第5連隊と第31連隊はそれぞれ任務が異なっており、第5連隊は前述の通り、ロシアとの開戦を想定した物資運搬の調査が目的でした。

一方の第31連隊は、雪中行軍における服装や行軍方法の情報収集が目的でした。訓練の目的が違うため、31連隊では少数精鋭38名で部隊が編成されましたが、第5連隊では下士官や兵中心の大規模編成でした。

遭難したのは青森歩兵第5連隊

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八甲田雪中行軍遭難事件で遭難したのは、この2つの部隊のうちの第5連隊の方でした。

第31連隊から編成された部隊は事前に入念な準備がされており、極めて過酷な天候の中、無事目的地に到達して訓練を成功させ、凍傷者などは出たものの1人の死亡者も出していません。

日本で最大死傷者がでた事故

八甲田雪中行軍遭難事件は、旧日本軍の時代から現在の自衛隊に至るまで、日本で行われた軍事訓練の中で最大の数の死傷者を出した悲惨な事故でした。

死傷者は200名以上

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八甲田雪中行軍事件にまき込まれた部隊の総勢は210名でしたが、この内の199名が訓練中と訓練後に死亡しています。

奇跡的に生還した11名もその内の7名は凍傷にかかるなどして、両手足やそのいずれかの切断などを余儀なくされ、合計で200名以上の死傷者を出しています。

山岳事故と言えば八甲田雪中行軍遭難事件を思い出す人が多い

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八甲田雪中行軍遭難事件は、100年以上前に発生した事件でしたが、現在でも山岳事故と聞くとこの八甲田雪中行軍遭難事件を思い起こす人が数多く存在するほどの悲惨な印象を日本人の心に深く刻んでいる事故です。

現場のリーダーの判断力不足が、悲惨な結果を生んだ典型例としてビジネスの場であげられる事も多く、その問題点の研究なども現在まで盛んに行われています。

八甲田雪中行軍遭難事件の説明動画

八甲田雪中行軍遭難事件はネットでも関心を集めている事件であり、事件の概要などを詳しく説明する動画も多数アップロードされています。

上の動画では、訓練が行われた政治的な背景から実際にどのようにして事故が発生したのかまで詳しく解説されています。また、無事訓練を成功させた第31連隊との比較も行われています。

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死の行軍!八甲田雪中行軍遭難事件の経緯は?

ここからは「死の行軍」「死の彷徨」とも呼ばれる八甲田雪中行軍遭難事件の詳しい経緯を見ていきましょう。

指揮をとっていたのは秋田県出身の神成文吉

八甲田雪中行軍訓練に参加した第5連隊の部隊の指揮をとっていたのは、第2大隊第5中隊長の神成文吉陸軍大尉でした。

神成文吉大尉は、秋田県出身で1894年の日清戦争にも従軍し戦闘にも参加しています。神成文吉大尉は、八甲田雪中行軍遭難事件発生の1年前の1901年に歩兵第5連隊中隊長に任命されていました。

屯営から田代間を踏破する予定だった

第5連隊から神成文吉大尉を中心に編成された雪中行軍部隊の将校達は、屯営地である青森から田代温泉までの片道約20キロほどを踏破する予定で訓練計画を立てました。

まず、本訓練から5日前の1月18日、作戦計画立案責任者の神成文吉大尉指揮の140名の部隊を編成し、1台のソリで屯営地から小峠までの約9キロを往復するという内容の予行演習を実施しています。

この演習は晴天に恵まれた事もあって問題なく成功したため、神成文吉大尉は本訓練でも青森〜田代間は1日で踏破可能であると考え、1月23日から1泊2日で行軍を行うという訓練計画を立てています。

1月23日地元村民の注意を無視し地図と方位磁針を頼りに踏破を目指した

1月23日の午前6時55分、歩兵第5連隊の訓練部隊は屯営地を出発します。途中田茂木野に差し掛かったところで地元の住民がこの先天候が崩れるので進軍は危険だとして訓練の中止を進言しています。

訓練部隊の指揮官らはこの忠告を退けますが、この住民はさらに食い下がり、どうしても行くというならば自分が道案内を引き受けると申し出ました。

しかし、この申し出も将校らは断り、地図と方位磁石だけを頼りに過酷な悪天候の厳寒地の山岳踏破に挑んでいきます。このエピソードも後に部隊の指揮官らに批判が集まる原因となってしまいます。

ルートは青森から田代温泉を往復する予定だった

八甲田山雪中行軍訓練で計画されたルートは、1月23日に屯営地である青森を出発、初日に標高500メートルあたりにある田代温泉に到達し1泊した後、その翌日にまた1日かけて青森に戻ってくるという計画でした。

小峠まで進軍した所で天候が急変

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第5連隊の訓練部隊は途中、標高約370メートルあたりの小峠という場所まではさしたる障害もなく進んでいます。しかし、この小峠に差し掛かったあたりから天候が悪化しはじめ、徐々に進軍速度が低下しはじめます。

ソリを牽引する運搬部隊に遅れが生じはじめたため、ここで部隊は大休止にし、昼食を摂っています。このタイミングで天候が急変、暴風雪の兆候が表れ軍医の永井源吾から部隊の進退の協議を行うよう進言されました。

それを受けて将校達は駐屯地へ引き返す案も含めて協議を行っています。しかし、ここに至るまでに地元民からの案内を断ったことや下士官や兵達からの反対の声も出たことから訓練の続行を決めています。

ソリ隊の遅れにより本隊と差が開き始める

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天候は急激に悪化し、先に進むにつれて雪はさらに深くなっていきます。大峠を越え、標高710メートルあたりの馬立場に達した所でさらに天候は悪化して積雪量も増加、ソリ隊が本体から2時間以上も遅れはじめます。

神成文吾大尉は、ここで第2、第3小隊の88名にソリ隊の応援に向かうよう命じ、斥候として設営隊15名を目的地の田代方面に向けて先行させるなどしました。

馬立場から次の目標地点である鳴沢までの区間にて、ソリでの物資不可能と判断されてソリは放棄とされ、食料や燃料、工具などの運搬物資は輸送部隊員が分担して背負い、人力で運搬する事になります。

日が傾き吹雪によって進路を見失う

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そうこうしているうちに日が傾きはじめ、先行していた先遣隊も進路を発見できないまま、本体に再合流しました。

再び斥候部隊を先発させますが、猛吹雪と日没によって先が見通せず、田代への進路を完全に見失ってしまいます。やむなく、部隊は進軍を諦め、露営地を探し隊の立て直しを図る方針へ転換します。

午後8時15分頃、標高約650メートルほどの地点にある平沢に露営地を定めています。平沢から目的地である田代まではわずか1.5キロほどでしたが、進路が発見出来ず立ち往生という有様だったようです。

露営したが食事と睡眠はまともにとっていなかった

露営地を定めた部隊は、各小隊ごとに深さ2.5メートル、縦幅2メートル、横幅5メートル、正味6畳ほどの敷地の雪壕を掘り、各壕にそれぞれ40名ほどが入って立ったままひしめく合う様に吹雪を避けたとされます。

しばらくして露営地に遅れていた運搬部隊が到着、各壕ごとに食料や燃料が分配されますが、40名分を賄うには足りず、火をおこすのにも苦労して1時間以上掛かったため満足に暖を取ることも出来なかったようです。

炊事のためにカマドと釜を設置するための穴を掘ろうとするものの、2m以上掘っても地面が出ず仕方なく雪上にカマドを設置して火をおこしますが、下の雪が溶けてしまい釜が傾き炊事にも手間取る始末だったそうです。

このため、食事も満足に取れなかった上に、気温は氷点下20度を下回っており、眠ると凍傷になって危険だとして全員で軍歌を歌う事が命じられ、足踏みをしながら休息を取るしかありませんでした。

1月24日帰営を決定し出発したが渓谷に入り迷ってしまう

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当初は、この露営地で夜を明かして午前5時に出発する予定を立てていた将校達でしたが、下士官や兵達から寒さを訴える声が続出しはじめます。

将校達はここで再び進退について協議し、このままでは凍傷者が出る恐れもあり、当初の調査の目的も達成できたとして帰営することを決定しました。

部隊は1月24日の午前2時半頃に露営地を発ち、道を引き返して馬立場を目指しますが、午前3時半頃に鳴沢付近に差し掛かったところで深い渓谷に迷い込んで道を失い、再び露営地へと引き返す事になります。

山口少佐の独断で佐藤特務曹長に案内させたが遭難

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この時、大隊本部付きの下士官である佐藤特務曹長が目的地田代への道を知っていると申し出ています。

これを受けて、中隊に随行する大隊本部の責任者として随伴していた山口鋠少佐が独断でこの言を入れ佐藤特務曹長に案内を命じました。

しかし、佐藤特務曹長は全く見当違いの方向へと部隊を先導してしまい、途中で間違いに気付き元来た道を戻ろうにも猛吹雪でその道の形跡は消えていて戻れず、この時点で部隊は完全に遭難してしまいます。

崖を登るが落伍者や凍死者が出始める

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進退窮まった第5連隊の雪中行軍部隊は、止むを得ず崖をよじ登って渓谷から脱出することを試みます。しかし、崖を登れずに落伍者が続出してしまいます。

第4小隊から選抜されていた水野忠宜中尉が、ここで寒さに耐えかねて卒倒しその場で凍死してしまいます。凍死者が出たことで部隊の士気は大きく下がり、統制が乱れ始めたのです。

統率は乱れ荷物も放棄され始めた

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統率が乱れながらも、なんとか部隊は崖をよじ登りますが、崖から出たことで猛烈な暴風にさらされることになります。部隊は暴風を少しでも避けられる安全な場所を求めて彷徨します。

記録によればこの時、気温はマイナス20度〜25度、風速は毎秒29メートル前後、積雪は最も深い場所で9メートルという天候であり、この過酷な環境下の移動中に全体の4分の1が凍死、または落伍しました。

物資を入れた行李を背負っていた者たちはほとんどが凍死、または落伍しており、残った者たちもほとんどが荷物を放棄しており、物資はわずかしか残されていなかったと伝えられています。

夕方頃になり頃鳴沢付近を露営地にした

その日、最初の露営地を出てから14時間にわたって部隊は行軍しましたが、直線距離にすると約700メートルほどしか移動できておらず、ほとんど同じ場所をウロウロと彷徨い歩いていた事になります。

夕方頃ようやく鳴沢の付近に窪地を発見し、そこを第2の露営地とする事に決めます。しかし、雪壕を掘ろうにも工具を持つ隊員はこの時点で全員行方不明となっていて掘る事ができず、吹きらしの中での露営となります。

第二野営地では多くの死傷者がでた

猛烈な吹雪にさらされる中での露営となった部隊は、缶詰や干し飯、餅などの食料を携行していましたが、完全に凍りついている上に多くのものが凍傷で手を使えず、ほとんど食事をとる事も出来ませんでした。

部隊は凍傷者を中心に囲むように寄り集まり、互いの体を摩擦し合い、足踏みを繰り返し、軍歌を斉唱してなんとか眠らないようにしますが、疲労困憊の絶食状態という事もあって、この場で多くの凍死者を出しています。

NEXT 1月25日には部隊が解散され発狂者や凍死者がさらに続出