帝銀事件とは?平沢貞通は冤罪で真犯人は731部隊?謎の真相とは 社会

帝銀事件とは?平沢貞通は冤罪で真犯人は731部隊?謎の真相とは

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捜査の中心は青酸化合物の扱いに詳しい旧陸軍731部隊となった

遺体を調べた結果、犯行に使用された毒物は青酸化合物と判明。青酸化合物の扱いに慣れたものの犯行であろうと考えられたため、警察は当初旧日本陸軍731部隊に疑惑の目を向けます。

さらに陸軍第9研究所所属の伴繁雄が事件の真相解明に結びつく重要な情報を提供したことから、警察内部でも731部隊犯行説に焦点を絞り込んでいきました。

事件から半年後に特殊任務関与者に的を絞るとGHQから捜査中止が命じられる

着実に周辺の証拠を固めて行って、事件発生からおよそ半年後の6月26日には刑事部長の判断によって捜査方針を軍の特殊任務関与者に移す方針が決定します。731部隊の関与は間違いなしと思われました。

ところが軍関係者への捜査を本格的に開始しようとした矢先、GHQから旧陸軍関係者への捜査を即刻中止せよとの命令が下ります。当時は警察も戦勝国のGHQに従うしかありませんでした。

GHQはデーター提出と引き換えに部隊の処罰を免除した?

なぜGHQは陸軍関係者への捜査に難色を示したのでしょうか。その謎は現在でもマスメディアやジャーナリストによって検証が続いていますが、どれも決定打となる物証は出てきていません。

仮説の一つに、GHQが旧陸軍の協力を得たかったからといわれています。戦時中に旧陸軍、特に731部隊は生物兵器など特殊な兵器の研究を秘密裏に行っていました。

その研究のデータをアメリカ合衆国はどうしても手に入れたかったといわれています。そのため陸軍関係者に捜査停止という恩を売ることで、その見返りにデータの提出を求めたと言われているのです。

アメリカはソ連に対し軍事強化をしておきたかった

アメリカが犯罪捜査を捻じ曲げてまで陸軍を擁護したかった最大の理由と考えられているのが、ソ連の存在です。太平洋戦争終結後、次第に派遣を広げるソ連をアメリカは警戒していました。

ソ連を対象にした軍事力の強化は急務の課題でした。そこで目を付けたのは生物兵器や特殊兵器に造詣の深い旧日本陸軍731部隊だったと言われているのです。

類似事件で悪用された名刺の捜査から犯人が判明する

帝銀事件の2つ前に起きた安田銀行での未遂事件。この時使用された松井蔚の名刺から指紋を採取した警察は、名刺が配られた相手を1人1人調べ、最終的に1人の人物に辿りつきます。

それが平沢貞通でした。警察の見立てでは松井蔚と名刺を交換した平沢貞通が松井の名を騙って銀行へ行き、行員を騙して青酸化合物を飲ませ殺害したのち現金と小切手を奪った、というものでした。

1948年8月21日、平沢貞通が北海道で逮捕される

事件発生から7カ月後の8月21日、平沢貞通が北海道小樽市で強盗殺人と強盗殺人未遂の疑いで逮捕されました。平沢貞通は横山大観の弟子ということもあり、世間は大騒ぎしました。

平沢貞通が逮捕された主な理由

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警察が平沢貞通を帝銀事件の犯人と断定した理由は主に4つありました。1つは平沢が松井と交換した名刺を所持していなかったことです。本人は財布ごとなくしたと後に語っています。

2つ目は犯行時刻のアリバイが証明できなかったこと。3つ目は平沢には銀行で詐欺事件を起こした過去があり、4つ目の理由として銀行から奪われた現金と同額のお金を預金していたことです。

前科がある点と強奪された額と同程度のお金を所有していたことから犯人は平沢貞通に間違いないと警察は断定するに至ります。

平沢貞通は犯人に仕立て上げられたという説もある

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しかし平沢貞通の逮捕に関して、一方では平沢の無実を主張する意見もあります。そもそも警察は当初731部隊を捜査対象に絞りながら、GHQの圧力で捜査方針を変更した点に疑問が残ります。

また平沢貞通に果たして青酸化合物の知識があったのかとの疑問も残りました。これは扱いに慣れた人間の犯行と警察も考えていたことです。平沢は画家でしかありません。医師でも軍人でもないのです。

これらの点から、平沢貞通とは別に真犯人がいて、平沢は国家権力によって犯人として仕立て上げられたのではないかと疑う意見も後々事件の検証が進むと出てきます。

被害者のなかに平沢貞通が犯人と断定した人はいなかった

もう一つ平沢貞通が犯人ではありえない根拠として、帝銀事件で生き残った被害者たちの供述です。被害者の女性は平沢貞通を見ても、あの時の犯人とは雰囲気がまるで違うと証言しているのです。

例え顔を隠していたり変装していたとしても、人間には自覚のない癖というものがあります。しかし平沢貞通には、それすらも感じないというのです。見た目だけでなく声や仕草、態度も違うと言います。

犯人の顔を見た人間は帝国銀行だけでなく安田銀行にも三菱銀行にもいましたが、いずれも平沢貞通が犯人だと断定する人は1人もいませんでした。それらのことから冤罪を主張する人も少なくありません。

事件当日、平沢貞通は娘婿と丸の内で面会している

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帝銀事件の犯人を平沢貞通と断定できない理由の1つとして、平沢のアリバイが成立していることです。警察は平沢にはアリバイがないと判断していますが、それを否定する証言が出てきます。

まず事件当日に平沢は、東京駅丸の内の旧船舶運営会で働く娘婿と面会していたのです。それは平沢自身の証言だけでなく、他にも娘婿の同僚や会社の何人もの人が目撃しているので確かです。

面会時間は午後2時から2時30分までだったことも確認が取れています。ここから計算すると犯行の3時過ぎまでに帝国銀行に着くことはどんなに急いでも時間的に厳しいのです。

犯行時間、平沢貞通は自宅で娘の友人のGHQ軍曹と挨拶している

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さらに平沢にはもう1つのアリバイがありました。犯行時刻とされる3時過ぎには自宅に帰っており、たまたま遊びに来ていた娘の友人であるGHQ軍曹と言葉を交わしていたのです。

娘や妻など家族の証言だけではアリバイとしては成立しません。家族以外の客観的な証言者としてGHQ軍曹の存在があることは、平沢にとっては助け舟となるはずでした。

GHQ軍曹はその後急遽アメリカに帰国したという

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ところが平沢貞通のアリバイを立証できるはずのGHQ軍曹は、警察が聞き込みに向おうとする矢先、突然アメリカへ帰国してしまったのです。なぜ軍曹は帰国したのか、その理由は明かされませんでした。

このことからも、旧陸軍とGHQとの間に何らかの裏取引のようなものがあったと勘繰る見方もできますが、平沢貞通のアリバイはことごどく信ぴょう性に欠けると判断されてしまいます。

平沢は否認するも拷問のように厳しい取り調べの末に自供、類似事件でも起訴される

平沢貞通は警察に対して何度も「自分はやっていない」と自身が帝銀事件に関与していないことを主張します。しかし警察は「お前がやったんだろう」と最初から決めてかかり、聞く耳を持ちません。

そればかりか、殴る蹴るの暴行を加えて無理やり犯行を自供させることもあったといいます。現在では到底認められていませんが、当時は拷問も取り調べには必要な手段と考えられていました。

激しい暴行を加えられ心身ともに弱った平沢貞通は次第に生きる希望を失い、何度も自殺を試みています。ついには拷問に耐え切れず、「自分がやりました」と罪を認めてしまうのです。

12月29日の公判では自白から一転、無罪を主張した

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12月29日裁判が始まると平沢貞通は一転して自身の犯行を全面否認に転じます。自分にはアリバイがあることを主張、証拠となった名刺も財布ごと盗まれたと訴えます。盗難届も出ていました。

また自分がやってもいない罪を認めたことに関しては警察の厳しい拷問に耐え切れなくなったことを明かし、検察側と真っ向から対立。全面的に争う姿勢を見せていきます。

1950年7月24日に一審死刑判決、1955年5月7日には死刑が確定した

自身の無実を訴え続ける平沢貞通でしたが、事件発生からおよそ2年半後の1950円7月24日に一審で死刑判決を受け、5年後の5月7日には死刑が確定してしまいます。

現在でこそ拷問によって引き出された供述は証拠能力としては認められませんが、戦後間もない当時は拷問によって引き出された供述であっても立派な証拠として採用されてしまう時代だったのです。

平沢貞通の死刑確定後の動き

平沢貞通は帝銀事件の犯人として逮捕され、その後裁判によって死刑が確定してしまいます。ですが死刑囚となった平沢貞通の無実を信じる人々は諦めませんでした。

ここからは死刑囚となってしまった平沢貞通を救おうと精力的に動いた人々の奮闘について取り上げていきます。帝銀事件はやがて捜査の在り方や国家権力に対する不信感へと繋がっていきます。

平沢貞通の支援者は幾度も再審請求、恩赦願いも提出するが受理されず

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支援者らはまず、平沢貞通の自供は担当刑事による拷問のような取り調べと、狂犬病予防接種の副作用からくるコルサコフ症候群の後遺症による精神疾患が原因として、自白は認められないと主張します。

さらに自白調書の3通に捺された平沢の指紋は、直接取り調べに関与していない検事が何も記されていない白紙にあらかじめ平沢の指紋を付けさせたもので証拠能力としては無効であるとの見解を示しました。

これら警察・検察の不備を理由に支援者らは再審請求を17回、恩赦願いを3回申し出ますが、いずれも受け入れられることはありませんでした。

1969年の法務大臣の恩赦検討でも冤罪と認められることはなかった

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それでも支援者にとって完全に希望の光が断たれたわけではありませんでした。1969年には法務大臣を中心に7人の死刑囚の恩赦が特別に検討されたのですが、平沢もその対象に含まれていたのです。

ところが議論が尽くされた結果、平沢の恩赦は支援者らの願いも虚しく、見送られることとなってしまったのです。冤罪を訴え続ける平沢と支援者たちは次第に希望の光を失っていきます。

平沢貞通は3度の自殺を獄中で図っている

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絵の師匠である横山大観でさえ、平沢貞通を「知らない、会ったこともない」と完全に関係性を断たれてしまった平沢は絶望に打ちひしがれて、獄中で3度も自殺を図ったと言います。

いずれも未遂に終わりますが、どんなにアリバイを主張しても取り調べや鑑定方法に問題があっても、取り調べで自供した内容が重要視され、平沢は死刑囚のレッテルを貼られたままでした。

確定判決に疑問が残ることから「平沢貞通を救う会」が結成される

しかし1960年代になると日米安保などを巡って政府に対する不信感も手伝い、帝銀事件についての世間の認識も次第に変化が見られるようになりました。

当時の警察の捜査に疑問を抱く声や、なぜ731部隊を捜査の対象に絞り込んでいながらGHQに止められたのか納得のいく説明がいまだになされていないことに不信を抱く人々も現れます。

世論は次第に帝銀事件で死刑囚となった平沢貞通は無実ではないか、他に真犯人がいるのではないかとの議論が過熱していきます。そして「平沢貞通を救う会」が結成されるのです。

釈放運動を行った支援者には松本清張や小宮山重四郎などがいた

「平沢貞通を救う会」が結成されると、次々に賛同の声をあげる著名人が登場します。政治では自民党の小宮山重四郎や日本社会党の田英夫ら国会議員らが党派を超えて平沢貞通救済に動き出します。

さらに1960年当時社会派ブームの旗手として台頭しつつあった作家の松本清張も帝銀事件における警察の捜査手法と、GHQや731部隊の関与に目をつけて独自に調査を開始しました。

死刑推進派の法務大臣就任後の1962年に宮城刑務所に移送されている

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1962年になると平沢貞通の身柄は宮城刑務所に移送されます。俗に「仙台送り」と呼ばれるもので、当時寒い環境に送り込まれた受刑者は体が弱ければ死に至るほど厳しい環境でした。

宮城刑務所への移送を決定したのは死刑執行に前向きな中垣國男が法務大臣に就任して4カ月後のことでした。平沢を支持するマスコミは「平沢の自然死を早めることが目的」と辛辣に批判しています。

獄中の画家として描き続けた平沢貞通はアトリエも与えられ、国内外で個展も開かれた

絵画の師匠である横山大観に見捨てられた平沢貞通でしたが、絵を描くことを諦めたわけではありませんでした。むしろ横山大観に対する対抗心を剥き出しに、獄中でも絵を描き続けます。

刑務所内では平沢のために個別にアトリエを与えられたといわれていますが、これは死刑執行を前提とした国の配慮でした。その後平沢が獄中で描いた作品は国内外で個展が開かれるなど話題を集めました。

1985年、支援グループが人身保護請求を起こすも退けられた

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1985年になってもなお平沢貞通の死刑執行はありません。これを受けて支援グループは刑法31条の刑の時効を持ち出し、一定期間死刑が執行されていないので死刑執行は無効であると訴えます。

しかし裁判所は平沢が逃亡中ではなく拘置所にいることを理由に人身保護請求を認めず、支援グループの訴えを退けました。

1987年5月10日に95歳で肺炎のため死去、当時世界最長収監記録となった

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それから2年後の1987年5月10日、支援グループの想いも虚しく平沢貞通は肺炎を患い、八王子医療刑務所で死亡します。95歳でした。

死刑確定の1955年から32年という歳月はあまりに長く、これが当時の世界最長収監記録となりました。結果的には歴代の法務大臣は誰も平沢の死刑執行命令に署名をしませんでした。

平沢貞通の死後も続く再審請求

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無実を訴え続ける平沢貞通でしたが、死刑囚の汚名をそそぐことができないまま獄中で死亡してしまいます。しかし平沢貞通の無実を信じる支援者の行動が終わることはありませんでした。

平沢貞通が死んでも養子と支援者は名誉回復をかけて再審請求を続けた

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平沢貞通が死亡した後も、平沢の養子の武彦を中心に支援者らは再び結集し、無念のうちに他界した平沢貞通の死刑囚としての汚名を晴らすために立ち上がります。

武彦と支援者らは何度も繰り返し再審請求を求めます。1989年になると東京高等裁判所にて第19次再審請求を求めていました。平沢貞通の名誉回復を期待する人々の気持ちは途切れなかったのです。

2013年に養子・武彦が死亡しているのを知人と警察署署員が発見、病死だった

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ところが2013年10月1日に、平沢貞通の名誉を回復する支援グループの中心的な役割を担っていた武彦が自宅で死亡しているのを、武彦の知人と警察署員が発見します。

遺体に不審な点はなく病死と結論づけられました。死刑囚の汚名を着せられたまま無念のうちに他界した平沢貞通の意思を引き継ぐべく動いていた養子の武彦でしたが、その願いは叶いませんでした。

武彦の死亡を受けて第19次再審請求審理手続きの終了を裁判所が決定

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養子・武彦の死亡を受けて裁判所の方でも動きがありました。武彦を中心に働きかけてきた第19次再審請求審理の手続きを終了することを、裁判所が決定してしまったのです。

平沢貞通の無実を信じ続ける支援者グループにとって、希望の中心的存在であった養子の武彦の死と、再審請求手続きの終了はあまりに痛すぎる結末でした。

2015年11月24日、平沢貞通の遺族が再審請求を申し立てている

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支援者グループはそれでも平沢貞通の無実を訴えるべく行動の手を緩めることはありませんでした。2015年11月24日、平沢の遺された家族が20回目となる再審請求を東京高裁に願い出たのです。

帝銀事件は依然として不明な部分が多いです。それにも関わらず平沢のアリバイを無視して拷問のような取り調べで自供に追い込まれた平沢に着せられた死刑囚の汚名は晴れることはありません。

NEXT:現在も事件の再審を目指す人々は講演など活動を続けている
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