グリコ森永事件の真相は?未解決事件の真犯人とは?キツネ目の男?

日本の犯罪史に残る未解決事件、グリコ森永事件。考察本や複数の小説のモデルにもなった昭和を代表する事件ですが、犯行グループが行った脅迫にはどのようなものがあったのでしょうか?時効成立前に2chに現れた謎の人物や犯人像など、グリコ森永事件の真相に迫ります。

目次

グリコ森永事件とは?事件の概要

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グリコ森永事件は、1984年から1985年に発生したグリコ、森永をはじめとする食品会社をターゲットにした脅迫事件です。ここでは昭和を代表する事件でもある、グリコ森永事件の概要を紹介していきます。

阪神地域で起こった食品会社への一連の脅迫事件

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グリコ森永事件のターゲットとなったのは、兵庫県、大阪府といった阪神地域に本社を構える大手の食品製造会社です。

江崎グリコの社長が誘拐され身代金を要求されたのを皮切りに1984年から1985年という短い期間に森永製菓、丸大食品、ハウス食品など様々な企業が連続して脅迫を受けました。

犯人グループは「かい人21面相」を名乗り、青酸入り菓子をばら撒いた

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グリコ森永事件が企業の脅迫事件にとどまらず、広く国民を恐怖させた原因となったのが「食べたらしぬで」というメッセージとともに、スーパーに毒入りの菓子をばら撒いたことです。

脅迫に応じなかった食品会社の商品に毒を混入してという旨を、新聞社などのマスコミに手紙で知らせて拡散し、結果的に標的となった食品会社の商品が店から姿を消すようになりました。

この時にマスコミ宛てに手紙を出す際に、犯人グループが使っていたのが「かい人21面相」という名前で、これは江戸川乱歩の小説に登場する「怪人20面相」を真似たものと考えられています。

マスコミや世間を巻き込み、「劇場型犯罪」という言葉を生んだ

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グリコ森永事件の犯人は企業に脅迫状を送り付ける一方で、新聞社などの報道機関に対しても「挑戦状」と言う名目で、様々な手紙を送ってきました。

この挑戦状には犯人の手掛かりをにおわせる情報があったり、今後の動向を教えるような情報が掛かれていることも多く、これにより捜査は大きく撹乱されることとなったのです。

そしてこの社会を大きく巻き込みながら事件を展開していく様子が、劇場型犯罪と言う言葉を生みました。

2000年に全事件の時効が成立し完全犯罪となった真相・真犯人不明の未解決事件

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グリコ森永事件は犯人が捕まらないまま、2000年2月に同一の犯行グループが行ったと思われる28件すべての事件で時効が成立しています。

これによりグリコ森永事件は、全国の警察が管轄を超えて協力捜査をする広域重要指定事件としては、初めての未解決事件となりました。

ネットではグリコの自作自演だという声もある

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1980年代当時の駄菓子の売り上げは、明治と森永が大きなシェアを占めていました。しかし、社長の誘拐事件があった後にグリコへの注目度が高まり、グリコの売り上げが伸びたのだと言います。

このことから、ネットではグリコ森永事件はグリコの自作自演だという意見も見られ、事件発生当初から社長の誘拐事件に不審点が多かったという声が上がっていたという話もあります。

グリコの社長誘拐事件がおかしいと話題になった頃に森永が脅迫をされたことも、グリコが怪しいと言われている一因のようです。

ロッテだけが被害に遭わなかったことを不可解に思う人も

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グリコの自作自演以外にも、森永やグリコの菓子がスーパーの棚から消えている間に売り上げを伸ばしたロッテが怪しい、という意見もネットでは散見されます。

ロッテの創業者が在日韓国人であったことから、外国人だから日本の企業を脅迫したという見方をする人もいる様子です。

しかし事件当時もロッテはガムの売り上げが高かったため、わざわざ犯罪に手を染めるとは考えにくいという指摘もあります。

ハウス食品社長が亡くなった飛行機に犯人の一味・キツネ目の男も乗っていた?

1985年に日本を揺るがせた大きな事件として、グリコ森永事件の他に日航機墜落事故が挙げられます。この事件で多数の死者を出したJAL123便には、当時のハウス食品の社長も乗っていました。

さらにJAL123便には、ハウス食品に対して3億円の要求をしていた犯人グループが現金受け取りの取引場所に指定していたことから、搭乗していた可能性があると言われています。

この時に本当に犯人が飛行機に乗っていたのかは不明ですが、日航機墜落事故以降、食品会社への脅迫は完全にストップしていることから、JAL123便に乗っていた可能性は高いという意見もあります。

キツネ目の男を逮捕できなかったのは大阪府警のせい?

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グリコ森永事件で犯人グループの一員とされた「キツネ目の男」を捕まえるチャンスが大津SAであったのにもかかわらず、大阪府警が取り逃したことに怒りを感じるという意見もあります。

土地勘が無いことから大阪府警は大津SAの抜け道を滋賀県警に無線で確認したと言いますが、この時に自分達で逮捕することにこだわり過ぎたせいで犯人を逃がしたとも考えられているのです。

もしも無線で確認するのではなく滋賀県警に全面協力を仰ぎ、緊急配備を頼んで裏道を全てふさいでいたら、大津SAで犯人を検挙できた可能性が高かったのでは?と指摘する声も上がっています。

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グリコ森永事件に関連する事件【江崎グリコ社長・江崎勝久誘拐事件】

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グリコ森永事件の発端となったのが、1984年に起こった江崎グリコ株式会社の社長、江崎勝久氏の誘拐事件でした。ここでは一連の事件の始まりとなった、江崎勝久氏の誘拐事件について紹介していきます。

1984年3月18日、江崎勝久の母の自宅に2人の男が押し入り合鍵を奪う

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1984年の3月18日、兵庫県西宮市にあった当時の江崎グリコ株式会社社長、江崎勝久氏の実母の家に2人男が押し入り、家人を縛り上げたうえで江崎社長の自宅の鍵を奪って逃走しました。

この時の時刻が21時、実行犯であった2人の男は拳銃と空気銃を携え、これで脅迫をしたとされます。また外には逃走用の車で待機していた男がおり、少なくともこの犯行には3人が関わっていたとされます。

江崎宅に侵入し、夫人を長女を閉じ込め江崎を全裸のまま誘拐

同日の21時38分頃、実母の家の隣にある江崎社長宅に犯人グループが押し入り、夫人と小学2年生の長女を縛りあげてトイレに閉じ込めました。

その後に小学5年生の長男と4歳の次女とともに入浴していた江崎社長のもとに向かい、浴室から江崎社長だけを拉致。江崎社長は体に泡が付いたまま、全裸で連れ去られたといいます。

3月19日、犯人からの電話があり、身代金を要求される

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翌日の3月19日の深夜1時、江崎グリコの取締役の自宅に、男の声で社長の身代金を要求する電話がかかってきました。

男は大阪府高槻市の電話ボックスに行くように取締役に命じ、大阪府警が指示された場所に向かったところ、金塊100kgと現金10億円という身代金を要求する犯人からの手紙が置いてあったのです。

兵庫県警と大阪府警が合同で捜査を始める

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社長宅の兵庫県と犯人の手紙があった大阪府の2県にまたがって犯行が見られたことから、大阪府警と兵庫県警が合同で、江崎社長の誘拐事件の捜査にあたることになりました。

そして要求された金塊と10億円をグリコは用意したのですが、捜査本部はこれだけ運搬に手間がかかるような身代金を、どういった意図で犯人グループが要求したのか訝しく思っていたと言います。

犯人の様子から目的は金ではなく怨恨と考えられた

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最終的には10億円という桁違いの身代金を要求してきた犯人グループですが、当初は江崎社長夫人に対して「金が目的ではない」という旨を電話口で伝えていたと言います。

また、身代金が欲しいのであれば社長宅に押し入った時に最初に会った7歳の長女を誘拐した方が、効率的にことを進められたのではないか?とも感じられます。

しかしわざわざ入浴中の江崎社長を連れ去っていることから、犯行は社長個人に対する怨恨によるものであったとも考えられるようになりました。

3月21日、江崎勝久が保護される

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指定された場所に身代金を持参しても犯人が現われなかったため、事件の解決には時間がかかるかと思われた矢先、自力で監禁場所から逃げてきた江崎社長が国鉄職員に保護されました。

江崎社長が保護されたのは事件の3日後である3月21日の14時半頃で、大阪貨物ターミナル駅の構内にいたところを発見されたといいます。

江崎社長の証言により、摂津市にある水防倉庫に監禁されていたということが分かっています。

グリコ森永事件に関連する事件【江崎グリコへの現金要求・脅迫事件】

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江崎社長が無事に帰宅したことで事件は終わったかと思いきや、翌月には再び犯行グループからの脅迫がありました。ここでは、誘拐事件後に始まった江崎グリコへの脅迫事件を紹介していきます。

1984年4月2日、江崎勝久宅に脅迫状が届く(6000万円を要求)

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1984年の4月2日、江崎社長宅に脅迫状が届きました。脅迫状の内容は、4月8日の19時に西宮市の喫茶店に6000万円を持ってくるようにといったものでした。

要求に応じなければチョコレート工場の機器を爆破する、写真をばらすといった脅しが書かれていたとされます。

また脅迫状には塩酸が入った目薬の容器と、江崎社長誘拐時に録音したテープが同封されており、脅迫を行っている犯人が誘拐犯と同一であることが分かりました。

4月8日の指定場所に犯人は現れなかった

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江崎社長は警察との話し合いの結果、取引には応じないことを決め、4月8日には警察だけが指定された喫茶店とその周辺に張り込むことになりました。

しかし当日、犯人グループが指定した場所に姿を見せることはありませんでした。

同日、新聞社に最初の挑戦状が届く

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同日4月8日、犯人グループから産経新聞と毎日新聞に初の「挑戦状」が届きます。その中身は自分たちを捕まえられない警察を嘲笑うもので、差出人の名前は「江崎」となっていました。

手紙の内容は明らかに新聞社が報道することを見越した内容になっており、税金泥棒、県警の本部長を誘拐してやろうか、など警察を挑発する言葉が多く見られました。

4月23日、江崎グリコに脅迫状が届く(1億2000万円を要求)

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4月23日、今度は江崎グリコの常勤監査役の自宅に犯人グループから脅迫状が送られてきました。今度の要求額は1億2千万円で、豊中市内にある喫茶店・ダンヒルを現金の受け渡し場所に指定してきたと言います。

翌24日、またしても犯人は現れなかった

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同月24日、指定された喫茶店・ダンヒル付近に警察官が待機。しかし犯人は姿を見せず、19時半頃に江崎グリコの常勤監査役の自宅に録音された女の声で、吹田SAに向かうように電話がありました。

指示通りに吹田SAに向かうと自販機の上に手紙があり、さらに高槻駅の電話ボックスに向かうようにとの指示が。

警察が高槻駅に向かうも電話ボックス内には何もなく、この日は犯人の足取りがつかめずに捜査終了となりました。

同日、マスコミ宛に「かい人21面相」から2度目の挑戦状が届く

そして同じ日には、再び犯人グループからマスコミに向けて、2回目の挑戦状が送られてきました。この時から犯行グループは自らを「かい人21面相」と名乗るようになっています。

5月31日、江崎グリコに脅迫状が届く(3億円を要求)

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5月31日、怪人21面相から江崎グリコに向けて3回目の脅迫文書が送られてきました。要求金額は3億円と跳ねあがっており、受け渡し場所には摂津市にあるレストラン駐車場を指定してきました。

6月2日、30人体制で犯人を待ち受ける

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指定された6月2日、30名の特殊犯捜査班を出動して大阪府警は犯人を待ちました。

3億円を積み込んだカローラは走り出すとエンストを起こすように細工してあり、犯人が乗り込んで逃げたところで身柄を拘束できるようにしてあったと言います。

そして20時45分頃、警察が用意したカローラに不審な男が近づき、車両に乗り込むと北へと走り出していったのです。

不審な男を取り押さえたが、事件とは無関係な人物だった

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カローラは550m程度進んだ場所で、エンストを起こして停車。警察はすぐさま取り押さえましたが、男は犯人グループに恋人を攫われ、脅されてこの場所に来たと証言しました。

男の話を元に現金を運ぶ予定だった淀川左岸堤防にまで警察が急行したところ、走り去る不審な車両があったため、すぐさま追跡しましたが国道1号線内で見失ってしまいました。

6月26日、江崎グリコに対する脅迫収束を宣言

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6月26日、毎日新聞、読売新聞、サンケイ新聞、朝日新聞に向けて3度目の挑戦状が届き、そこには江崎グリコを襲うのはもうやめる、といった旨が書かれていました。

また国外逃亡をほのめかすような文言も見られ、1985年1月から犯行を再開することを示唆する文章も見られました。

グリコ森永事件に関連する事件【江崎グリコ本社・ライトバン放火事件】

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脅迫事件の最中、江崎グリコ本社では放火事件も発生していました。そして、この放火事件についても犯人は捕まっていません。

1984年4月10日、江崎グリコ本社で放火が起きる

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1984年4月10日の20時45分頃、江崎グリコ本社の工務部試作室から出火。工務部試作室は施錠してあり、無人の状態であったと言います。

火は瞬く間に燃え広がり棟続きであった更衣室も延焼し、試作室約150㎡が全焼しました。

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