江川事件をわかりやすく説明!空白の1日とは?小林繁の苦悩や現在も 社会

江川事件をわかりやすく説明!空白の1日とは?小林繁の苦悩や現在も

今回は江川事件について紹介していきます。江川事件は簡単に説明するとどんな事件なのか?巨人の江川と阪神の小林はどういう関係だったのか?事件の黒幕は船田中の関係者なのか?読売新聞との関係はあるのか?どのようなドラフトが行われたのかなど詳しいことも触れていきます。

目次

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江川事件の概要は?

江川事件とはそもそもどういう事件なのでしょうか。みていきます。

江川事件とは?ドラフト前日に巨人と江川卓が入団契約を結び騒動に

江川事件というのは1978年に開催されたドラフト会議の前日、プロ野球のセ・リーグに所属する巨人こと読売ジャイアンツが、電撃的な入団契約を投手の江川卓と結んだという一連の騒動のことをいいます。

江川事件の登場人物・江川卓とは?

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江川卓という人はどういう人なのでしょうか。みていきます。

江川卓のプロフィール

  • 名前:江川卓
  • 出身地:福島県いわき市
  • 生年月日:1955年5月25日(64歳)
  • 投球・打席:右投右打

江川は、1978年にプロ入りを果たし、1979年6月に初出場、1987年10月の試合を持って引退をしています。

高校時代は、エースとして数々の記録を残した

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高校時代、江川はエースとして高いバックスピンをかけながら速球と曲がるカーブを武器にしてノーヒットノーラン9回、完全試合2回を達成するなど数々の記録を叩き出しました。

さらに選抜高等学校野球大会に出場した際には大会通算最多記録となる奪三振記録を更新するなど一躍有名になり、プロ入りも確実といわれていました。

「怪物くん」「怪物江川」と呼ばれ、日本中の注目の的に

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そして江川は、数々の記録を更新、叩き出すなどの好成績を高校生のうちから出していた為、ファンや世間からは「怪物くん」「怪物江川」として日本中の注目の的となりました。

そして当時話題となっていたアニメが藤子不二雄Aの作品「怪物くん」だった為、それにちなんで名付けられたと考えている人も多いようで、誰にも止めらない驚異の投手となりました。

投手としての特徴は?

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江川の投手としての特徴は、豪速球でコントロールがしっかりしたボール投げる、時には鋭い変化球を投げる、さらには投球のテンポの速さが4拍子に揃っていうというあまり見かけないとても良い投手でした。

しかしそんな江川もCMの撮影中に肩を痛めてしまうアクシデントが発生しました。その為、手術などを行いましたが、中々回復せず、それが原因で豪速球の威力が減ってしまったそうです。

しかし投球テンポは相変わらず早く、彼が登板すると試合開始からわずか数時間で試合終了になってしまうことが多いなど凄まじい記録を叩き出し、江川に憧れる子供たちもとても多かったようです。

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江川事件の詳細をわかりやすく解説!

江川事件というのはどんな事件なのでしょうか。簡単にみていきます。

1973年、江川は高校卒業時のドラフトで大学進学を希望していた

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江川卓は1973年に高校卒業後、ドラフトで大学進学を希望していました。驚異的な記録を叩き出していたなど各球団やファンの中には江川のプロ入りを望んでいた人も多かったようです。

指名順位6番目の阪急ブレーブスが強行指名するも入団拒否

当初、ドラフトでは、大洋ホエールズ・南海ホークス・近鉄バファローズ・日本ハムファイターズ・中日ドラゴンズが江川を1位で指名するのではないかと言われていました。

しかし実際のところ競争を回避した為、阪急ブレーブスが江川を1位で指名したのです。ところが江川を阪急ブレーブスへの入団を拒否しました。

江川は慶應義塾大学の入試不合格で法政大学へ進学

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しかし江川が大学進学を希望していた為、入団を拒否したそうです。江川は元々慶應義塾大学に進学する為に勉強していましたが、不合格になったので、法政大学の方に進学をしました。

1977年の大学卒業時のドラフトでは巨人への入団を希望していた

江川卓は、1977年に法政大学を卒業後、ドラフトで読売ジャイアンツに入団したいと希望していました。

法政大学時代には1年生の頃からエースとして活躍し、通算47勝で完封数は17とリーグ記録を達成しているなど、活躍していました。そして巨人を希望していた為、巨人側も1位指名をすることを決定しました。

福岡市の球団であるクラウンライターが強行指名するも入団拒否

江川は、巨人の入団が確実と言われていました。しかし福岡市にあった球団クラウンライターが、観客数が低下していること、経営再建の為の切り札として江川を指名しました。

しかし江川は巨人に入りたい気持ちが強く、クラウンライターが強行的に1位指名してきたこともあり、江川はクラウンライターに対して入団を拒否しています。

クラウンライターは西本聖とトレードを想定していた

クラウンライターは、江川卓と西本聖をトレードできると予想していたようです。その理由は、かつて阪神タイガースで大活躍し、その当時はクラウンライターの球団代表を務めている青木一三だったからです。

青木は巨人の長嶋監督と大学生の頃からの知りたいでした。その為、話をすれば江川を獲得できるとクラウンライターは思っていました。

しかし江川に対して入団のみをせっつく交渉を行った為、江川は当然入団を拒否し、トレードは行われませんでした。

1978年に江川はアメリカへ野球留学へ

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江川卓は1987年に大学卒業と共に、本場のアメリカへ野球留学に行っています。日本では大学から社会人野球チームに入団するということは、最低2年間はプロ野球に入団することを禁止からです。

留学の理由は?

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江川卓が留学を希望した理由には、日本の野球ルールによるものだと言われています。

先ほど紹介通り、日本では大学から社会人野球チームに入団するということは、最低2年間はプロ野球に入団することを禁止しています。

その為、社会人野球に入団するのではなく、野球留学を行い1年間だけ空白の時期を開けな、翌年にプロ野球を目指そうとしていたようです。その方が効率がよかったようです。

11月20日に突如帰国

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しかし江川卓は、11月20日に突然アメリカから帰国してきました。その理由は、巨人と入団契約を結ぶ為だったようです。

11月21日に巨人と江川はドラフト外入団で入団契約を締結

そして帰国した翌日の11月21日に、江川卓は巨人と入団契約を締結しました。

巨人側としては、「ドラフト会議が開催される前日に、自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能としたという立場で江川の契約をすることができました。

読売系を除くメディアは批判、巨人の親会社の読売新聞は正当化?

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しかしこれらの江川と巨人の対応に、多くのメディアが批判をしました。一方で巨人のスポンサーである読売新聞や読売系のメディアは正当化を図る対応をしました。

多くのメディアは、江川と巨人の対応に対して「ありえない」という考え方を示し、11月21日を「空白の1日」と表記するメディアも多く見受けられました。

江川事件の空白の1日とは?江川事件の結末は小林繁との電撃トレード?

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江川事件の空白の1日というのは一体どんな1日だったのでしょうか。そして江川事件の結末は小林繁との電撃トレードとなったようです。当時の状況を詳しくみていきます。

巨人が解釈した「ドラフト会議の前日は自由な身分」(空白の1日)の意味は?

巨人側が解釈した「ドラフト会議の前日は自由な身分」というのはどういう意味があるのでしょうか。

江川卓は、巨人以外にもクラウンライター(西武)が入団オファーをしていました。しかしドラフト会議の前日の11月21日までにクラウンライター(西武)は江川との交渉権が消滅していました。

その為、ドラフト対象選手になるのは、ドラフト会議が開催される11月22日以降であると巨人側は解釈したのです。そして巨人側は前日に、ドラフト対象外選手である江川と入団契約を行ったということです。

当時の野球協約の規定では江川はドラフト対象外だった?

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当時の野球協約の規定では、江川卓は本当にドラフト対象外の選手だったのでしょうか。どうやら当時の野球協約の規定では、江川はドラフト対象外の選手だったようです。

規定では、日本国内の中高大に在学しているものはドラフト対象の選手にはならないという内容でした。江川は社会人野球はせずアメリカに作新学院の職員として野球留学に行っていた為、対象外になりませんでした。

その後、野球契約の規定は1978年に改正され、日本国内の中高大に在学した経験がある者はドラフト対象の選手になると決めました。しかしこの規定は次回以降から発効となり、1987年には発効されませんでした。

セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は巨人との契約を無効に?巨人軍は反発

その後、野球協約の死角に巨人は頭を突っ込んだということで、これを認めてしまうとドラフト自体の意味を問われてしまうことになります。

その為、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は、江川卓と巨人との契約を無効にすること決めました。これに対して巨人は猛反発、そしてその年のドラフト会議には欠席をしました。

1978年のドラフトでは4球団が1位指名!抽選の結果、阪神が交渉権を得た

1978年のドラフト会議に、巨人は出席しませんでした。そして巨人の対応に抗議する形で、江川を1位で指名する球団が、南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの4球団いました。

そして交渉権が阪神タイガーズに与えられました。

巨人軍は江川との契約の正当性を主張し、セ・リーグ脱退も示唆

阪神が交渉権を得たことに巨人は猛反発をしました。巨人側は既に江川との契約を結んでいると正当性を主張しました。

さらに全球団が出席していないドラフト会議は無効であり、、阪神にも江川の交渉権獲得はないということを日本野球機構コミッショナーの金子鋭に提訴までしました。

そして当時巨人のオーナーであった正力亨は、江川との交渉が巨人でない場合、巨人軍はセ・リーグの脱退をし、ドラフト会議を廃止し、全く新しいリーグ、ルールを作るということまで主張しました。

プロ野球実行委員会は一度阪神と契約を結び、巨人とトレードすることを要望

プロ野球実行委員会は、阪神にある提案を要望しました。それは江川との入団契約を1度阪神が結び、その後すぐに巨人の選手とトレードをさせるというこっとです。

しかしメディアや他球団は、このようなプロ野球実行委員会の対応に猛反発を行いました。

その理由は、江川の巨人入りという、巨人の勝手な目的を達成させるために、問題解決を行おうとしたことや、それが今後の野球業界に大きな支障を及ぼすことを懸念した人が多かったことがあげられます。

1979年、江川は阪神と契約し小林繁とトレードすることが決定

翌年の1979年1月に江川卓は1度阪神と入団契約を結んだ後、巨人の投手小林繁と交換トレードをすることが決定しました。

巨人側が江川の契約やセリーグ脱退の問題などあり、プロ野球実行委員会が阪神に対して、トレードの要望を行い、阪神はその要望を受け入れる形となりました。

小林繁とは?

  • 本名:小林繁
  • 生年月日:1952年11月14日
  • 没年月日:2010年1月17日(57歳没)
  • 出身地:鳥取県東伯郡赤碕町(現:琴浦町)
  • 投球・打席:右投右打
  • プロ入り:1971年 ドラフト6位
  • 初出場:1973年9月26日
  • 最終出場:1983年10月22日

小林繁は、ドラフト6位で巨人に入団し、1年目はイースタン・リーグで7勝5敗10セーブを記録、さらには、防御率2.43という偉業を達成し、優勝投手となり有名になりました。

その後も小林は巨人のエースとして活躍し続け、最多勝、最優秀防御率というタイトルは獲得できませんでしたが、沢村賞を受賞し、さらにベストナインにも選出されました。

引退後は北海道日本ハムファイターズの1軍コーチとして活躍していました。しかし2010年に突然、心筋梗塞による心不全で57歳という若さで亡くなりました。

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