津山事件の真相は?犯人・都井睦雄が寺井ゆり子に抱いた憎しみと現在 雑学・ライフスタイル

津山事件の真相は?犯人・都井睦雄が寺井ゆり子に抱いた憎しみと現在

津山事件とは、岡山県の現在でいう津山市が事件現場となった大量虐殺事件です。その事件をモデルにした漫画もあるほど有名な事件です。その生存者はいるのでしょうか。写真は?事件の真実や犯人との関係が噂される寺井ゆり子という人物についても詳しく紹介していきます。

目次

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津山事件(津山30人殺し事件)とは?

津山事件(津山30人殺し事件)とは、どのような事件なのでしょうか。

津山事件とは1983年に発生した大量殺人事件

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津山事件とは、1938年5月21日未明、岡山県の現在の津山市にある貝尾・坂元の2つの集落において発生した大量虐殺事件です。

津山30人殺し事件とも言い、犯人の名前を取って都井睦雄事件ともいいます。

現場は岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市)

事件現場となったのは岡山県苫田郡西加茂村大字行重という場所で、現在の津山市加茂町行重にあたります。

現在でもこの地域は集落として存在しており、集落には何人かの住人がいますが、住民の高齢化によりかなり過疎化が進んでいるようです。

実行犯の名前は都井睦雄

実行犯の名前は都井睦雄(とい むつお)といい、その名前を取って都井睦雄事件ともいいます。

「津山30人殺し」または「都井睦雄事件」ともいう

「津山事件」ともいわれますが、前日の通り「津山30人殺し」や「都井睦雄事件」ともいわれます。作品などで登場するときは「津山30人殺し」という呼ばれ方が最も多いです。

わずか2時間足らずで30人が殺害された

犯行が行われたのはわずか2時間足らずであり、その間に実に28名が即死、2名が12時間後までに死亡したため、合計で30人の犠牲者が出ました。

これほどの人数が単独犯によって殺害されるのは日本の犯罪史上でもまれに見る数で、その狂気は類を見ません。

犯行後犯人は自殺

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犯行後、犯人の都井睦雄は事件現場から少し離れた山中で猟銃で自殺しているのが見つかります。そばには遺書も置いてありました。

遺書にはこの事件を起こすに至った理由や祖母や姉への懺悔、その他個人的な恨みなどが綴られています。

また、自殺前にあらかじめ遺書もあり、姉宛てのものや他にも複数の遺書が見つかっています。

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津山事件の実行犯の都井睦雄とは?写真、生い立ちは?

それではこの事件の実行犯である都井睦雄とは、どのような生い立ちでどのような人物なのでしょうか。

犯人の都井睦雄や祖母の性格、姉の結婚や都井睦雄の病気などから犯行に及ぶ背景が見えてきます。

1917年岡山県苫田郡加茂村に生まれる

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都井睦雄は1917年3月5日、岡山県苫田郡加茂村に生まれました。この村は現在では津山市となっており、津山はこの事件の名前にもなっています。

この津山事件の舞台となった貝尾集落には、30に満たない世帯しか暮らしておらず、小さな村での犯行でした。

幼い頃に両親を結核で亡くし祖母が後見人となる

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都井睦雄は2歳で父を肺結核で亡くします。その後は母親が都井睦雄に家督相続権を与えるために手続きをします。

しかしその後3歳で母も肺結核で亡くしたため、祖母が後見人となります。それをきっかけに一家で加茂村の中心・塔中へ引っ越しました。

都井睦雄が6歳の頃に貝尾集落へ引っ越す

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その後、都井睦雄が6歳の時、一家は祖母の生まれ故郷である貝尾という集落に引っ越しました。

都井家には資産があり楽に生活ができた

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都井睦雄には田畑などの資産があり、ある程度の所得もあったそうです。そのため、畑作と合わせて生活は比較的楽でした。

後述しますが、都井睦雄はこの資産を担保に借金をし、武器を調達するなどしています。

都井睦雄の写真は?

都井睦雄には写真があります。この写真で都井睦雄が着用しているのは事件当時に来ていたものとは違い、これは青年学校の制服だと推測されています。

このほかに都井睦雄と思われる写真はほぼ存在しません。そのため事件や都井睦雄を語る際はこの写真が用いられており、見覚えがある人も多いのではないでしょうか。

祖母は都井睦雄を溺愛していた

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父と母の死後、都井睦雄は祖母と姉の3人暮らしになります。祖母は都井睦雄を溺愛しており、小学校に通う年齢になっても通わせず、結局1年遅らせて入学させます。

祖母は都井睦雄を幼少期より「出来がいい」と称賛しながら大切に育て、都井睦雄もその愛をいっぱいに受けて育ちます。

小学校の先生が心配して自宅を訪ねたようですが、その際も祖母は「1年待ってください」と片時も都井睦雄のそばを離れなかったようです。

都井睦雄の成績は優秀だったが祖母に反対され進学を断念した

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都井睦雄の祖母は、本人の優秀な成績や当時十分な財産に関係なく、孫2人と離れることを嫌がったため進学を断念します。

祖母は、都井睦雄が中学を卒業してしまうと自分の元を離れていってしまうと考えたのでしょう。それよりは農家の息子として自分のそばに置いておきたかったのです。

また十分にあった資産も、都井睦雄とその姉の学費のため徐々に家系は傾いていったようです。

都井睦雄が小学校卒業後に胸膜炎を患い、無為な生活を送る

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都井睦雄は尋常小学校を卒業後すぐに助膜炎を患い、医師から農作業を禁止されます。そのため、その後の都井睦雄の生活は無為なものとなってしまいました。

それまで天才と称され、祖母に愛されて生きてきた都井睦雄の人生は一気に転落し始めます。

実業補修学校へ入学するが、学業を嫌い引きこもりに

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その後すぐに病状は回復し、実業補習学校へ通い始めます。しかしそこでは都井睦雄は学業を嫌がり、学校を休みがちになってしまいます。

友達はおらず、家に引きこもる生活を続け、外との関わりがなかったようです。この経験が後に都井睦雄を犯行へと駆り立てる感情のひとつになります。

引きこもる原因は、姉の結婚にもあった?

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実業補習学校に通うようになった翌年、姉が結婚し転居したあとに都井睦雄は学校を休みがちになりました。そのため、姉がいなくなった寂しさも不登校の原因だと考えられます。

実際に都井睦雄には、祖母に「姉はいずれ結婚して家を出る」といわれ、進学をあきらめ農業に従事する選択をさせられた過去があります。

そして姉は結婚して他の村に嫁ぎ、その後農業を手伝いながら実業補習学校に通った都井睦雄は不登校になります。

都井睦雄は姉に恋心を抱いていたとも

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都井睦雄は、姉に対し恋心を抱いていたとも言われています。そのため、姉が結婚して転居したことは大きなショックとなったのでしょう。

都井睦雄は後に遺書を残しますが、その2通中1通は「姉上様」と書かれた姉あてのものでした。

また、高等小学校にいたころに1学年下の学生あてに「あなたが好きです」との手紙を添えた肖像画は、姉とそっくりだったそうです。

都井睦雄はモテた?「夜這い」の風習で多くの女性と関係を持つように

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都井睦雄の集落では「夜這い」の風習があったとされます。「夜這い」とは夜中に性交を目的に女性の部屋に忍び込むことです。

都井睦雄はこの夜這いで複数の女性と関係を持ったといいます。姉が結婚してからその寂しさを夜這いでごまかしていた考えられます。

この「夜這い」の風習ですが、当時も悪習として知られており、日本にまだその風習が残っている集落も多々あったようですが、住民は明るみにはあまり出したがりません。

自身の小説を近所の子供に読み聞かせており、子供たちからも人気があった

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都井睦雄は自身の書いた小説を集落の子供たちに読み聞かせをし、子供たちからも好評で人気があったという意外な一面も存在します。

実際、後に都井睦雄は犯行終了後知り合いの子供の家に行き、その一家を襲撃せずに遺書を書くための紙と鉛筆を受け取るという場面があります。

1937年に徴兵検査を受けるが結核の為不合格になる

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都井睦雄の人生が大きく変わったのは徴兵検査の結果でした。結果は結核を理由に丙種合格(事実上の不合格)となってしまいます。

当時結核は不治の病とされ、その当時は差別の対象にもなっていました。

しかし、都井睦雄は結核患者とは思えないほど犯行時走り回り、挙句山の山頂まで登っているため、この診断自体が誤診なのではないかという説も存在します。

都井睦雄と関係のあった女性から結核を理由に関係を拒絶されるように

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このころから都井睦雄は、結核を理由に今まで夜這いで関係を持った女性から関係を拒否されるようになりました。

その後結核のうわさは広がり、女性たちだけでなく集落の住民全体からひどく差別を受けることになります。このことがだんだんと都井睦雄の精神を蝕んでいきます。

事実上の村八分となった都井睦雄は、秀才と持てはやされた幼少期から一気に転落し、後の遺書ではこのことが犯行動機になったと語っています。

1936年阿部定事件がおこり都井睦雄が事件に興味を持つ

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1936年、阿部定事件というものが起こります。この事件は、阿部定という人物が愛人を銃殺し、局所を切り取った事件で、当時世間を震撼させました。

都井睦雄はこの事件に非常に興味を示し、「どうせ死ぬならでかいことして死にたい」と考えるようになります。

そしてこの事件を知って以来、少しずつでしたが都井睦雄は犯行の計画や武器の調達を始めます。

都井睦雄が最も憎んだ女性とは?

津山事件で都井睦雄が最も憎んでいた寺井ゆり子さんという女性が存在します。寺井ゆり子さんはどのような人で、なぜ都井睦雄から憎まれたのでしょうか。

寺井ゆり子さんはこの事件の大きな鍵を握る重要な人物なので、その人物像を細かく紹介していきます。

都井睦雄が最も憎んでいたのは幼馴染の寺井ゆり子さん

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寺井ゆり子さんは都井睦雄の幼馴染であり、後述するように都井睦雄と寺井ゆり子さん夜這いの関係にあったとされています。

また、都井睦雄と寺井ゆり子さんは婚約していたという説もあります。

寺井ゆり子さんは都井睦雄の婚約者?

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寺井ゆり子さんは、都井睦雄と幼馴染であり、婚約者でもありました。また、夜這いでも関係を持っていてその関係は良好だったと思われます。

しかし、事件後の生存者が少なく、寺井ゆり子さん含めこれに関する証言者がほとんどいないため、本当に婚約を交わしていたかはわかりません。

村でも評判の美人で都井睦雄は寺井ゆり子さんに好意を持っていた

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寺井ゆり子さんは村でも評判の美貌を持っており、都井睦雄も夜這いで関係を持って以降寺井ゆり子さんに好意をもつようになります。

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