ひかりごけ事件とは?遭難した船長が人肉を食べた?真相は? 社会

ひかりごけ事件とは?遭難した船長が人肉を食べた?真相は?

ひかりごけ事件をご存知でしょうか。難破した船の船長がその船員の人肉を、自らの命をつなぐために口にしたというあまりにショッキングな事件で、書籍化のほか映画化、舞台化もされています。未だに謎の多いこの事件の詳細に迫りました。

目次

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ひかりごけ事件の概要は?食人で裁かれた唯一の判例?

1944(昭和19)年5月、現在の北海道羅臼町で起きたとされる、徴用船の船長の単独による死体損壊事件です。

ひかりごけ事件とは?

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ひかりごけ事件とは知床沖で難破した船で唯一生き残った船長が、真冬の北海道で生き延びるために、先に亡くなった船員の死体を食べたという事件です。

船が難破し、生き残った船長が先に亡くなった船員の死体を食べていた!

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船には7人の乗組員がいましたが、真冬の北海道沖で船が難破します。なんとか上陸した北海道羅臼町の岬で、ただ一人生き残った船長が、その命をつなぐために仲間の船員の人肉を食べてしのいでいたというのです。

のちに船長は救助され、最初こそ「奇跡の生還」と歓迎されましたが、食人の事実が明るみに出ると、裁判にかけられました。

ひかりごけ事件は「唯一裁判で裁かれた食人事件?」

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一般には、この事件は食人により刑を課せられた初の判例と言われています。しかし日本の刑法には食人を禁止する条項がないため、裁判でも食人については触れられず最終的に「死体損壊事件」として処理されています。

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ひかりごけ事件の現場は?事件発生時の状況について

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事件が起きた現場は真冬の北海道、しかも最北の知床半島でした。

知床半島の沖合で起こった船の難破事故をきっかけに、事態は絶望に向かって動き出します。

事件が起こった現場はどこ?

舞台となったのは、現在の北海道目梨郡羅臼町、知床半島の東側に位置するペキンノ鼻と呼ばれる岬です。この沖で乗組員7人が乗った船はシケに遭い、暗礁に乗り上げ難破しました。

冬はとても厳しい地域だった?漁も5月中旬から8月中旬しかできない場所

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船が難破したのは1943(昭和18)年の12月のことです。

真冬の知床は、絶えず強風と吹雪が吹き付ける極寒の地です。漁師が沖に出られるのも5月中旬から8月中旬までの3か月ほどしかなく、その他の季節は強風と流氷で海は閉ざされてしまいます。

船長が乗っていた船は陸軍徴用船第五清進丸

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徴用船とは、戦争で軍隊の輸送船が不足した場合に物資や兵士の輸送に使われた民間の船のことで、商船や漁船がその対象となりました。また、その乗組員も軍属(軍隊にいるが軍人ではない人)として扱われました。

船長の乗っていた第五清進丸はこの時、日本軍の暁部隊第613部隊の廻船命令を受け、根室港から小樽市へ向かっていました。

船員の構成は?

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船員の構成は以下の通りです。この7名で任務に当たっていました。

  • 船長(当時29歳) 北海道出身。代々漁業を営む家系に生まれる
  • A少年(18歳)
  • B(39歳) 船長の義理の兄にあたる
  • C(34歳)、D少年(18歳)、E(50歳)、F(47歳) 漁師仲間

当時の状況は?

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当時、太平洋戦争の真っ最中でしたが戦況は悪く、日本の敗戦の色が濃くなりつつある時期でした。第五清進丸は日本軍の命令で輸送業務を行っており、根室港を出港して小樽へ向かっていました。

しかし途中で猛吹雪に遭遇し、船が故障して漂っている間に暗礁に乗り上げてしまいます。乗組員全員がなんとか上陸しましたが、寒さと飢えですぐに5名は死亡してしまいました。

ひかりごけ事件の詳細は?時系列で経緯まとめ

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ひかりごけ事件の経緯を時間を追って詳しくまとめました。

太平洋戦争中の1943年12月4日、陸軍徴用船第五清進丸が遭難して座礁

その日、第五清進丸は日本軍暁部隊の廻航命令により根室港を出港し、オホーツク海を回って小樽市へ向かっていました。しかし途中で猛吹雪に遭い船体は故障、通信機器も使えなくなり、遭難してしまいます。

船はなすすべなく漂流していましたが、午前6時ごろ、船は暗礁に乗り上げ、ついに航行は絶望的となってしまいました。

船員は知床半島ペキンノ鼻へ?真冬で一面吹雪だった

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座礁で船体が大きく破損し、このまま船に残っていては全員死んでしまうと考えた乗組員たちは、わずかな希望を持って船から退避し、切り倒した船のマストを橋のように使ってかろうじて上陸します。

しかし12月の知床半島は、大変な強風と猛吹雪が絶えず吹き付ける寒冷地獄です。日中でも最低気温は−10℃から−20℃となり、強風で体感温度はさらに下がります。

そんな状況で食糧もない中、寒さと疲労と飢えのため7人のうち5人は上陸後すぐに凍死してしまいました。

小屋(番屋)にたどり着いたのは7人中船長と18歳の少年のみだった

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それでもなんとか生きていた船長は、一軒の小屋(番屋)にたどり着きます。続いてもう一人生き残っていた18歳のA少年も、氷漬けになりながらもなんとか同じ番屋に辿り着きました。

番屋とは夏の漁の間に漁師が泊まり込んだり、作業をしたりするための小屋のことです。

しかしこの番屋には食料など生存に役立つものが見当たらなかったのでしょうか、2人は再度外に出て、近くにあったもう一軒の番屋に移動しています。

二人で番屋へ移動して過ごすも、食料もなく消耗していった

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2人は移動した番屋で、持ち主が置き忘れていたマッチを使い、床板をはがして積み上げ、焚き火をしました。また、樽にわずかに味噌や塩が残っており、これを汁にして食べています。

のちに船長は、他にも海岸に漂着した海藻、ウニの殻、トッカリ(アザラシ)を採って命を繋いでいたと語っています。

しかしそれらも豊富に手に入れられるはずもなく、厳しい寒さと空腹、交代で火の番をしなければならない身体的負担で、2人は徐々に心身を消耗していきます。

少年は栄養失調で幻覚やうわ言を繰り返し1月18日ごろに死亡

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そんな中、ついにA少年に限界が訪れます。

観音菩薩の幻覚が現れたり、うわ言で「船だ。船長、船だ…拝め…」と繰り返したりします。もしかしたら、見えた船で我が家に帰って家族と暖かい食卓を囲む幻覚を見たかもしれません。

遭難、上陸から46日後の1944(昭和19)年1月18日頃に「見えない…暗い…」という最後の言葉を残し、18歳の若さで栄養失調により死亡しました。

1人になった船長は追い詰められた状況下で亡くなった少年を食した

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しばらくの間船長は、亡くなったA少年の冷たい亡骸を抱きしめて呆然としていました。しかしそのうち、耐え難い空腹と、目の前に動物(人間)の肉があるという事実が船長の心を強く支配します。

小屋には、夏の間漁師が仕事をするための道具が揃っていました。船長はナタなどの工具を使って、A少年の体を解体し始めました。まずは太ももの肉をそぎ落とし、わずかに残っていた味噌で煮込んで食べました。

その時船長はA少年の肉に大変な美味しさを感じたと言います。長期間の空腹で、罪悪感よりも飢えが満たされる喜びを刺激されたのでしょう。その後もA少年の全身の肉を少しずつそぎ落とし、口にしたと言います。

翌年2月、船長は羅臼町岬町の漁師宅にたどり着き助けを求めた

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番屋での生活を始めてから約3か月後の1944(昭和19)年2月、船長はついに羅臼町岬町のとある漁師の家にたどり着き、助けを求めました。

上着の上にムシロを巻いた男が雪の中から現れ、突然家に転がり込んできたことに、漁師夫婦は大変驚きました。

荒天が和らいだことと、A少年から取れる肉が少なくなってきたことで、誰かに助けを求めようという気持ちになったのでしょう。船長は番屋を出るとき、わずかに残ったA少年の肉片を懐に入れていたと言います。

船長は番屋の食料やアザラシの肉を食べて生き延びたと説明していた

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漁師夫婦は、船長が約3ヶ月生きていたことにとても驚きました。地元の人間なので、知床半島の冬の厳しさを身を以て知っていたからです。

船長は漁師夫婦に、「海岸に漂着した海藻、ウニの殻、トッカリ(アザラシ)を食べていた」と説明しました。当然、仲間の死体を食べた事実については一言も喋っていません。

代わりに、「もう1人船員がいたが、海藻を拾おうとして崖から転落してしまった。1人では心細くなり、決死の覚悟で助けを求めに来た」という趣旨の説明をしました。

漁師宅で看護を受け、漁師が部落会長を通じ警察の山口巡査部長にも連絡

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親切な漁師夫婦は驚きながらも、瘦せおとろえた船長を迎え入れ、温かい食事や寝床を与えるなどの手厚い看護を行いました。

同時に、部落会長に連絡を取り、知らせを受けた部落会長は16km離れた羅臼村の派出所の山口巡査部長に知らせに行きました。

船長は「奇跡の神兵」ともてはやされていた

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かくして船長は一命を取り留め、故郷に帰ることができたのです。

故郷に帰ると「生き残った奇跡の神兵」と周囲に呼ばれ、もてはやされるようになりました。船長はまるでヒーローのような扱いを受けることになったのです。

戦時中の日本では、兵隊は尊敬と憧れの的でした。船長は正確には兵隊ではなく、あくまで軍属の立場だったのですが、そんな背景もあり一躍時の人となりました。

ひかりごけ事件が食人事件と真相が暴かれ逮捕に至った経緯は?

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しかし船長の言動や番屋での生活についての証言に違和感を覚え、食人により生き延びたのではないかと疑うものが警察や軍部から出始めました。

戦時中で、戦地では食人は珍しい行為ではなかったことも、船長の食人が疑われる要因となりました。

船長の言動や生還できた状況に矛盾を感じていた山口巡査部長

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警察で最初に船長生存の知らせを受けたのは山口巡査部長です。

彼は船長の話の矛盾点や現実とは思えない話をする点、船長自身の不可解な行動などを見て「船長は仲間を殺してその肉を食べたのではないか」という疑念を抱くようになりました。

現場では1月は海が凍結するため海藻類は漂着しないはず

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まず船長は「流れ着いた海藻を食べた」と証言しましたが、真冬の海は流氷などで凍結しやすく、海藻類の漂着は期待できないのです。

また、仮に海藻が漂着したとしても、寒風吹きすさぶ海岸で海藻を集めるには大変な危険が伴いますし、体力の消耗も考えられます。何度も海藻を採取できたとは考えにくいのです。

アザラシは12月から1月には現れなかったはずだった

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トッカリ(アザラシ)も12月から1月には回遊の関係で、知床半島には滅多に現れないので、これを採って食べたという証言も疑わしく思えてきます。

また、仮に生きたアザラシがそこにいたとして、それを捕らえるにもそれなりの装備や技術が不可欠ということ、また、偶然アザラシの死体が流れつくような幸運がありえたかどうかも疑わしい点でした。

山口巡査部長はカニバリズムを疑い2月16日に現地検分へ行き死体を発見

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以上の状況や推察から、船長によるカニバリズム(食人行為)への疑惑をますます強めた山口巡査部長は署長にその事を報告し、船長の漂着地、ペキンノ鼻の南での現地検分へ向かいます。

事件の裏付けになる証拠は発見できず立ち去るが、持ち主に状況を伝えていた

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山口巡査部長は2月16日に、地元消防団員の3名とともに現地へ向かいます。まだ雪も風も強い時期、遭難の危険を抱えながらも現場の番屋へ全員がたどり着きました。

そして番屋内を調べましたが、ムシロに多数の血痕を認めたことと、番屋の北で船員の一人の遺体を発見しただけで、船長の食人行為の裏付けになる証拠は見つけられませんでした。

この時は結局、発見した遺体をその場に埋葬し、番屋の持ち主に「遭難した船長が食人を行った可能性がある」という状況と、何か見つけたら知らせるようにとの説明を行い、検分は終了しました。

春になり持ち主の片山梅太郎が白骨が入ったリンゴの箱を発見

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それから3か月後の5月14日、短い夏の間に漁をするため、自分の所有する番屋を訪れた片山梅太郎氏が、番屋の近くで不審なリンゴの木箱を発見します。

そしてその中に納められた白骨死体を発見するのです。

片山氏は慌てて警察に通報し、それを受けた山口巡査部長は直ちに現地へ赴き、単独での現地検分を行いました。

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