阿部定事件の動機は愛ではなかった?昭和の猟奇事件の真相を探る!エンタメ

阿部定事件の動機は愛ではなかった?昭和の猟奇事件の真相を探る!

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1936年5月18日・駆け落ち先の旅館「満佐喜」で石田を殺害

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二回目の出奔は1936年5月11日で、先ずは中野駅で落ち合い、その後タクシーで荒川区尾久にある待合「満佐喜」に移動します。その後は事件当日まで同じ待合に逗留します。

定はたった3日間でも石田に会えなかった寂しさをぶつけ、18日までの間で、定、石田がそれぞれ1回外出した以外は、2人共裸で寝て(行為して)ばかりいました。布団も敷きっぱなしでした。

16日の晩あたりから、紐で締める行為を始め、17日深夜2時頃、締めすぎて鬱血させてしまいます。その時は痛みを和らげようといろいろと施しますが、一転して18日には首を絞めて殺害してしまいます。

殺害前には、石田に睡眠薬を飲ませていた

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鬱血して首に跡が残り、また、目も赤くなっているため、定は銀座の資生堂へ相談に出かけました。跡は時間をかけて治るのを待つしかない、といわれ、気休めに鎮静催眠薬・カルモチンを処方されます。

カルモチンは太宰治が自殺(未遂)に用いたことのある薬剤で、この時、資生堂では3粒までしか飲んではいけない、といわれているにもかかわらず、定は石田に、全部飲んで大丈夫と言っています。

目をシバシバさせながら起きていた石田ですが、過剰にカルモチンを服用させた定の意図は何だったのでしょう。痛々しくて見ていられないので、早く治るように、という意図だったのでしょうか。

殺害時の状況は?石田も殺されることを望んでいた?

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石田がウトウトし始め、フ、と目を開いて定にこう告げました「俺が寝たらまた(首を)絞めるのだろうな」。

定が「うん」と笑いかけると、「後が苦しいから、締めるなら途中で手を離さないでくれ」と言ったそうです。

定は、これが石田の冗談だと、後に語っていますが、鎮痛作用のある催眠薬を飲まされていることで、もしかしたら定に殺されるのではないか、という考えが石田の中にはあったのかもしれません。

殺害後、包丁で局部を切断!シーツに血文字を書く

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首を絞めて殺害した後、隠し持っていた牛刀で局部を切り取ると、かなり大量の血液が流れたそうです。定はこの血を自分の身に着けていた長襦袢の襟と袖に塗りつけました。

そして、手についた血で、シーツに「定吉二人キリ」、石田の左腿に「定・吉二人」、左腕には「定」という文字が刃物(牛刀)で刻み付けらえていました。

額の裏に隠して置いた牛刀を出して根元に牛刀を当てて切って見ましたが、すぐは切れず、かなり時間がかかりました。

(引用 「阿部定」証言録)

阿部定の失踪と事件の発覚

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定は、18日未明に石田を殺害し、朝8時まで待って、女中に「銀座まで水菓子を買いに行ってくる。連れは起こさないでやってほしい。」と女中に伝え、外出し、そのまま帰ることはありませんでした。

定が外出して3時間後の11時、部屋の様子を見に来た女中により石田の遺体が発見され、警察に通報されました。遺体には掛布団がかけられ、首には腰紐が残っており、顔にはタオルがかけてあったそうです。

翌5月19日に出された手配書の中身とは?

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事件発生から一夜明けた5月19日早朝、東京および近県、熱海、名古屋、大阪方面にわたり、定が辿ってきた足跡を元に写真2万枚が配布されました。以下はその抜粋です。

殺人容疑者 本府人 阿部定31

身長5尺位、痩形、色浅黒く面長、頬こけ口大にして、一見水商売風、歯黄く、歯並にすき間あり。

著衣。うずらお召、鼠地に銀箔のウロコ形飛模様のついた単衣の襦袢、ちりめん水色無双の長襦袢。帯、薄卵色の竪縞のあるしゅすの昼夜帯。下駄、桐表つき駒下駄、卵色の鼻緒つき

常に用ゆる偽名田中かよ、黒川かよ、阿部かよ、田村加代、吉井昌子

尚、犯人は温泉地その他において、女中酌婦の経験あり、特に温泉地を警戒されたし。

(引用 文春オンライン)

警察を翻弄した阿部定の変装と逃走劇

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石田を殺害した後、定は夜明けを待ち、外出を装って逃亡します。石田の後を追い、死んでしまおうと思っていた定でしたが、5月16日に、大宮五郎に金の無心の手紙を出していたことを思い出します。

このままでは先生に迷惑がかかる、と考えた定は、大宮に会って詫びるために逃走を試みました。その道すがら、上野で古着に着かえ、大宮に会い、その後、新橋で再度古着に着替えています。

新橋で再度着替えたのは、上野で購入した古着が季節外れだったこと、下駄のサイズが合わなかったことからだったそうです。この女ごころからの変装が、警察の目を攪乱したようです。

1936年5月20日品川であっさりと逮捕される

定は5月19日の夕方6時の電車で大阪に行き、生駒山の谷底に飛び込んで死んでしまおうと思っていましたが、喫茶店で酒を呑んだりしているうちに眠くなってしまい、品川館という旅館に泊まることにしました。

その日の夕刊を見ると、各駅に刑事が張り込むなど、捜査が大掛かりになっており、とても大阪までたどり着けないと観念し、今泊まっている宿で死のうと考えます。

首のくくれる鴨居の位置の高い離れの部屋に移らせてもらい、大宮や死んだ石田宛の遺書をしたため、夜中の(自殺の)決行を待っていると、とうとう警察がやってきました。

1936年11月24日に初公判

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定は、逃亡中ずっと、石田のシャツとステテコの上に石田の血のついた腰巻を身に着けていました。逮捕後拘置所に入る際も同様で、汚いので差し出すように言われても「絶対渡さない!」と大騒ぎしたそうです。

11月24日に行われた初公判は、新聞各社が煽情的な記事をこぞって書いていたため、非常に関心が集まっており、傍聴を希望する人があふれたため抽選時間が繰り上げられたそうです。

判決は?懲役刑が言い渡されて栃木刑務所へ

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事件の性質から、定の精神鑑定に注目が集まっていました。その結果は残忍性淫乱症、つまり、サディズム、そして、節片淫乱症、フェチズムでした。期待を裏切らない結果ですが、予想通りすぎですね。

結果、理性を失い、色情におぼれた末の出来事であると目され、懲役6年の実刑を受けます。収容先は栃木刑務所で、通常は電車で送られるのですが、世間の注目が集まっていたので、特例で車で送られたそうです。

服役中の様子は?

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刑務所では所内で行う制作作業も、他の女囚の倍の量をこなすなど、模範囚として過ごしていました。しかし、吉蔵の1周忌が近くなるに従い、精神的に不安定になったこともあったそうです。

癇癪を起したり、看守の頭に水をかけたり、時には呼ばれても起きなかったりと、奇行を繰り返しましたが、教誨師の説得などにより次第に落ち着きを取り戻したそうです。

また、服役中の定あてに結婚申し込みが400通、ファンレターは1万通を超えるほど送られてきたといいます。男性の性器を「愛して」いる定は男性にとって女神のような存在でもあったのです。

1941年に恩赦で出所する

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1941年5月18日に、「皇紀紀元2600年」の恩赦により、出所します。しかし、定の心は複雑で、世間から「変態」と指さされて生活を続けていくのは非常につらい、と警察関係者にも漏らしています。

そこで、刑事の一人が定に「吉井昌子」という偽名を与え、出所後はこの名前で生活するようになり、結婚(事実婚)もしました。

阿部定事件の予審調書が流出!現在も公開されている?

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阿部定の予審調書は門外不出の資料だったはずですが、現在はネット上で見ることができます。こちらは、口語体で書かれており、送り仮名もひらがななので、資料としてとても分かりやすいです。

また、「阿部定訊問調書」も明治大学がネット上に公開していますが、こちらは旧仮名遣いのため読み辛いかもしれません。いずれも2019年6月27日現在、ネット上で見ることができます。

阿部定のその後の人生は?

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1941年に6年の刑期を短縮して出所した定。出所に際しては定を10000円(現在の価格で約1600万)でスカウトしたい、と意思表示するカフェーが2件と、映画会社が1件があったそうです。

偽名で生活し、結婚も経験

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出所後は「吉井昌子」という偽名で世間からの驚異の目を逃れて生活しました。遊女時代に女衒として、そして愛人として関わりを持った稲葉とその妻の元に身を寄せることになりました。

保護者となった稲葉夫妻のことを定は「お父さん」「お母さん」と呼び、慕うようになります。普通の人として暮らしていく中で、勤務した赤坂の料亭で知り合った男性と結婚(事実婚)もします。

名誉毀損で裁判を起こす

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戦後に起こった「エログロナンセンス」ブームに乗り、1947年「お定本」と呼ばれる雑誌が出版される。その中で「お定色ざんげ」の内容が定と石田の名誉を棄損するものだとし起訴しました。

その結果、「お定色ざんげ」は数週間後に発行禁止となります。しかし、このことで、夫に「吉井昌子=阿部定」ということがわかってしまい、夫は失踪してしまいます。

その後は再度「阿部定」として過去を背負って生きていくことになります。

自らをネタにしていた?その後はホステスや女中の職を転々とするように

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名誉棄損訴訟が収まった1949年から、定は東京を離れ、京都で芸者、大阪では「バー・ヒノデ」のホステス、そこから伊豆へ移動し、旅館の仲居などの仕事をしながら各地を転々としています。

一度は捨てた「阿部定」の人生を再び歩んでいくことになった定は東京を離れ、自分をもう一度見直したいと思ったのかもしれません。

料亭「星菊水」との契約では、客寄せパンダ扱い?

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1954年の夏、料亭「星菊水」に10万円(現在の300万円)の前金を約され勤めることになります。定によるお酌を料亭の看板メニューにするためでした。つまり、客寄せパンダとして定を雇ったのです。

「お定さんの夢の大広間で、お定さんのお酌で一パイ 庭に面したテレビのある小室十六室完備 夢の酒場・夢の割烹『星菊水』」

(引用 「Wikipedia」)

宴会の終盤に「お定でございます」と定が客をもてなすサービスがコースのセットになっていました。定は特段嫌がらず、真面目に働き、1958年には東京料飲食同志組合から優良従業員に表彰されています。

晩年には、おにぎりや「若竹」を開業

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1967年台東区竜泉に「おにぎりや若竹」を開店。おにぎりを買いに来る客は少なく、ほとんど、カウンターでお酒を呑ませる店だったようです。

常連客には阿部定事件を担当した法曹界の人や浅香光代、大相撲の力士など、さまざまな業界の人が集まりました。そんな中に「暗黒舞踏」で近代舞踊の第一人者である土方巽もその一人でした。

しかし、この店も、手伝ってくれていた三味線弾きの女性が体を壊し、フォローしていた定自身が体調を崩し、また、雇っていた若い衆に売り上げを持ち逃げされたりが続き、1970には年廃業してしまいます。

「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」への出演も

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1969年に公開された映画「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」は、「高橋お伝」(明治期)、「東洋閣事件」「阿部定事件」「象徴切り事件」「小平事件」(昭和期)を、それぞれオムニバス形式で描いた作品です。

この作品の中で、各事件を解説する解剖医の役である主演の吉田輝雄が定にインタビューをしている映像が、各話の合間に挿入されています。

1971年に、勝山ホテルで働き始める

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定を料亭「星菊水」に紹介した実業家・島田国一と、偶然浅草で出くわしたことが縁で、1971年1月頃から千葉県市原市にある「勝山ホテル」で仲居として働くことになります。

「リウマチの治療に行く」と言い残し失踪、1974年以降は消息不明

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1974年6月ごろリュウマチを治したいから7月か8月にまた帰ってきます、と言い残して定は勝山ホテルを後にしました。しかし、約束の日時になっても連絡が来ませんでした。

その後、連絡も途絶えてしまい、定は行方不明になってしました。

1987年に亡くなった?

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石田が亡くなってから、定は1955年に山梨県身延町にあります久遠寺に、石田の永年供養手続きをとっていました。そして、命日には必ず花束を届けるようにしていました。

それが何年も続いていましたが、1987年を境に花束が届かなくなりました。このことから、定は他界、あるいは重篤な病気で入院でもしているのではないか?という噂が流れています。

阿部定事件が起きた場所は?事件の跡地はどうなっている?

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事件が起きたのは昭和11年、1936年で、今から87年も前になります。また大きな地震を経験したことから、建物の建築方法、強度など、技術的な部分もかなり変わってきました。

古き良き時代の建物でも、老朽化や街並みの変化から、取り壊しや建て替えを受け入れざるを得ない環境でもあります。

事件が起きた待合・満佐喜の場所は尾久?

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阿部定事件が起きた現場は東京都荒川区尾久の待合「満佐喜」でした。この頃は尾久はラジウム温泉が出たことで、料理屋(旅館)、芸妓屋、待合の三業種が共存共栄した三業地域として賑わっていました。

戦後、高度成長期に荒川区も工場地域として地下水くみ上げが加速し、三業の根幹であった温泉の枯渇が始まり、衰退してしまいました。

事件が起きた待合・満佐喜の場所は尾久?現在は?

数年前までは、同じ待合の「いろは」が2件隣りに残っていましたが、それも現在はコインパーキングになってしまっているようです。「満佐喜」の後には3階建てのビルが建っています。

阿部定が逮捕された品川会館の場所と現在

こちらも跡形もなくなっており、大きな商業ビルが建っています。定は大阪在住の大和田直という偽名で宿泊していました。切り取った石田の局部と共に。

2人が出会った料亭・吉田屋の場所と現在

中野の鰻料理屋「吉田屋」は新井薬師の近くにあったそうです。事件後、残された女将さんが頑張って切り盛りしていたようですが、第二次世界大戦での供給不足などもあり、店はたたまれ、今は跡形もありません。

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