阿部定事件の動機は愛ではなかった?昭和の猟奇事件の真相を探る!

阿部定事件とは、昭和11年、東京都荒川区の待合(現在のラブホ)で、阿部定という女性が、愛人男性を殺害、性器を切り取り持ち去った猟奇事件。後に映画化もされ、近年は漫画「ふたりの女」が話題になっています。阿部サダヲの芸名の由来である阿部定について調べました。

阿部定事件とは?事件の概要は?

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阿部定事件とは、鰻料理店の仲居・阿部定が昭和11年に起こした殺人事件です。猟奇的な犯行の様子から、当時の日本を震撼させ、犯人探しに国民が熱狂し、「阿部定パニック」と呼ばれました。

阿部定事件とは、愛人の局部を切断した昭和の猟奇事件

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昭和11年5月18日、東京都荒川区尾久の待合「満佐喜」の桔梗の間で男性の遺体が発見されました。遺体からは体の一部・男性器が陰嚢ごと切り取られ、持ち去られていました。

死因は頚部圧迫による縊死で、遺体の首には女性が和装する際に使用する腰紐が巻き付いていました。何者が首を絞め殺害された後、局部を切り取り、持ち去ったのです。

被害者は、中野の鰻料理店「吉田屋」主人・石田吉蔵(きちぞう/当時42歳)。吉田屋の女中「田中かよ」と愛人関係にあり、数日前から二人で宿泊していました。

女中・阿部定が愛人の石田吉蔵を腰ひもで殺害!窒息プレイだった?

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吉田屋の女中「田中かよ」とは、阿部定の偽名です。定と石田の二人は尾久以外にも多摩川や渋谷、新宿の待合を転々とし、情事にふけっていたようです。

性交中に定が石田を「虐める」一環で、首を絞めるという行為を取ったところ、定にとって「具合が良く」なったのだそうです。

「かよ(定)が良ければ苦しくとも我慢するよ」という石田の言葉に甘え、締めたりほどいたりを繰り返していた所、加減を誤り、うっ血させるほど強く締めてしまったことがあったそうです。

殺害の理由は?純愛の結果起きた事件?

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性交中に腰紐で締めることを繰り返してはいましたが、死には至りませんでした。しかし、隣で眠る石田を見ながら、定は、このまま駈落ちできるわけでも心中する気も無いことに思い至ります。

石田には家庭があり、子供もいます。石田にはそれを放り出して定だけのものになるつもりは無い。永遠に定だけのものにするためには殺すしかない、と結論付けます。

「俺が寝たらお前はまた首を絞めるのだろう?」「締めるなら後が苦しいから途中でやめるな」という石田の言葉を冗談と思っていながらも、定は眠っている石田の首に腰ひもを巻くのでした。

遺体発見時の状況は?被害者の左腕に「定」の文字

 

絞殺後、男性器を切り取ったことにより、多くの血が流れました。その血で敷布に「定吉二人キリ」、石田の左大腿部に「定・吉二人」、そして、石田の左腕には「定」と刃物で刻み付けました。

誰にも渡したくない、私だけのものである、という強い意志と、誰かにそれを知らしめたい、という定の気持ちの表れでした。

阿部定は遺体から局部を切断したうえで持ち歩いていた

 

殺害現場で男性器を切り取った後、現場にあった雑誌の表紙を破り取り、それに包んだ上で自分の胸に抱いていたそうです。なぜそんなことをしたのでしょうか。

それは、定にとって「一番可愛い大事なもの」だったから。そのまま遺体と共に置き去りにしたら、石田の奥さんに触られることもあるであろう。定には絶対に許せなかったのです。

局部を持ち歩いていた理由は?

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石田の遺体は一緒にいることはできませんが、「一部」であれば、共に逃げることができる。「それ」さえあれば、いつでも石田と共にいられ、寂しくないであろうと思ったからだったそうです。

事件報道後日本は「阿部定パニック」に

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前代未聞の「男性器持ち去り」という猟奇殺人に対し、国民は大いにざわつきました。銀座や大阪などの繁華街で、細面で夜会巻きをしている女性を見かけると通報が殺到し、通行止めが起こることも。

盧溝橋事件の前年に起こったこの猟奇殺人事件は、軍部による統制で窮屈さを感じている国民にとって、熱狂できる限られた娯楽の一つだったのかもしれません。

阿部定事件は昭和11年の3大事件と呼ばれた

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昭和11年には阿部定事件の他に、2月に起こった陸軍青年将校によるクーデター「2.26事件」や7月に起こった「上野動物園クロヒョウ脱走事件」と合わせ「昭和11年の三大事件」と呼ばれています。

いずれも、帝都(東京)のみならず、日本中を震撼させた事件ではありますが、政治色の強い「2.26事件」に比べ、他の2つの事件は、ゴシップ性の強いものです。

阿部定事件もクロヒョウ事件も、新聞各紙で鼓舞された感がありますが、もしかすると、あえて国民の目線を別に向けるための誘導であったのではないか、という見方をする人もいます。

阿部定は美人だった?写真は残っている?

幼いころから可愛がられて育った定は、顔の作りも整った美少女だったといいます。品川の宿で逮捕された直後の写真でも、瓜実顔で、小柄だけれども首も長く、着物姿が似合う女性のようです。

芸者から娼婦、妾、高級淫売と、身を落としていきながらも、たくましく生きていた女性が、最終的に求めたのは「愛」だった?最愛の男性を失っても笑顔でいられるのは「やり切った」という充実感でしょうか。

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妖婦・阿部定の生い立ちとは?

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東京神田で、江戸時代から畳業を営む「相模屋」に末っ子として1905年5月28日に生を受けます。兄弟は、元は八人兄弟でしたが、健康不良や流行病、養子に出されるなどで実際は四人兄弟です。

20歳以上も年が離れた長男・新太郎、17歳年上の次女・とく、6歳年上の三女・千代、そして四女の定でした。

異常な癇癪持ちで会話ができなかった?阿部定の幼少期

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生まれたとき、定は仮死状態だったそうです。また、母親の母乳の出が悪く、1歳になるまで他家に預けられていました。それが原因かは不明ですが4歳になるまで家族と話がすることができなかったそうです。

尋常小学校へ上がるくらいになってくると、とても癇癪持ちで、周りの人を困らせたといいます。幼児期にうまく話すことができなかったことが要因なのではないか、といわれています。

とにかく美少女で親が猫可愛がりだった

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4兄姉の末っ子として生まれた定。一番上の兄とは20歳以上も年が離れており、父母からしても、子供というより孫に接するような感覚だったようです。

特に母親は度を過ぎていて、学校に通わせるよりも三味線などの習い事を優先する、頻繁に新しい着物を新調していました。両親や周りからちやほやされ、見栄っ張りで高慢な性格が形作られてしまったのです。

15歳の時、大学生に強姦されて不良少女に

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同世代の少女に比べてさらに耳年増だった定は、実家にいる家族以外の大人たちの会話から様々な知識を得、10歳になるころには男女の性の営みについても知りえるようになったようでした。

そして数えで15歳、満14歳の時、そのころ親しくしていた友人の兄の知人である慶応大学生とふざけているうちに強姦されてしまう、という出来事が起こります。

もはや処女ではなくなってしまった定は、この事実を隠し、白々しく他家へ嫁ぐことなどできない、と自暴自棄になり、学校もやめ、夜な夜な遊び歩く不良少女になってしまいます。

「男が好きなら芸妓になれ!」17歳の時に女衒に売られてしまう

悪いことに、この頃、阿部家は長男と次女の男女関係の問題や家業の継承についてもめており、定にもめ事を見せたくなかった母は、金をやり外へ行くように促してしまいました。

家の金を持ち出して遊び惚ける定を教育しなおす意味も込めて、16歳の時に女中奉公に出されますが、奉公先の娘の持ち物をを盗んだため警察沙汰になり、実家に戻ります。

その後、男性とのみだれた交際などを見かねた父親により、遠縁にあたる女衒のところに売られてしまいます。「そんなに男な好きなら芸͡妓になれ!」といわれて。

騙されて芸妓から遊女に転落

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芸妓から身を売ることを生業とする娼婦の道を選んだのは何が原因だったのでしょうか。

女衒の稲葉

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定は芸妓として横浜の「春新美濃(はじみの)」で、「みやこ」と名乗り芸者として勤め始めます。勤め始める前1か月の間、女衒の稲葉の所に厄介になっていました。

その時、無理やり稲葉は定と関係を持ちます。その後、芸妓屋を移る度に渡される前借金の一部を、定は稲葉に渡しています。しかし、これは稲葉の汚いやり口でした。

稲葉は、大連から帰って来た稲葉の妻のい従妹にも定と同様のことをし、結局は芸妓屋へ売ってしまいます。つまり、肉体関係を結び、自分に貢がせるように仕向けていたのです。

花柳病にかかるくらいなら娼妓になる

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芸妓となっても、歌、三味線については幼いころからしっかり仕込まれている他の芸妓にはかなわず、身を売る「淫売」を進められるため、芸を磨くことをせず、遊んでばかりいたそうです。

横浜、富山、信州と芸妓屋を転々とし、(誰とでも寝る)不見転(みずてん)芸者を経験した時に梅毒を移されてしまいます。「こんな思いをするなら娼婦のがまし。」と、大阪に出て娼妓に身を落とします。

しかし、これも長続きせず、逃げ出してはつかまり、戻されを繰り返し、どんどん質の悪い遊廓に囚われてしまいます。そして、26歳の頃、隙を見て神戸へ逃げます。

遊女を辞めて大阪へ!自分の性癖を医者に相談していた?

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神戸に逃げてからは吉井信子と名乗りカフェの女給をしたり、高級淫売、妾をしたりして暮らしていました。金もあり暇もできたため賭博に手を出し、警察に検挙されたことがあります。

それをきっかけに、妾生活をやめ、静かに暮らしていた所、どうしてもイライラが溜まってしまうので、医者に診察してもらったことがあるそうです。男性との情交が無いとイライラするというのです。

医者からは、特に異常ではなく、人として当然の事なので、真面目に夫婦生活を行うと良い、と勧められ、加えて、少し難しい精神修養に関連した本を読み気分を変えなさい、とも言われたそうです。

両親の死

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妾稼業から足を洗い、のんびり遊びながら生活していた昭和7年、定が28歳の秋ごろに、両親が心配しているということを知人から聞き、冬までの3か月の間、引っ越した埼玉の実家に親孝行に帰りました。

定は、大阪で良い男性に巡り合えた、とウソは付きましたが、肩もみしたり、新聞を読んでやったり、食事をつくるなど、できうる限りの親孝行をし、「いつ死んでもいいくらい満足」と両親に喜ばれたそうです。

そして、その後、昭和8年1月に母親が、翌々年昭和10年1月に父親は他界してしまいます。父親は、息を引き取る間際に、まさか定の世話になるとは思わなかったと感謝してくれたそうです。

愛人関係の問題から、名古屋へ逃走

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母親が他界した後、定は大阪を引き払い、東京へ居を移しています。そこで再び吉井信子を名乗り、高級淫売や妾業を再開しました。そのころ妾となった相手に厄介な相手がいました。

政友会の院外団に所属する笠原の妾になりましたが、「品性下劣」な男で、別れを告げると「世帯を持った費用を返せ!」「殺す!」と言って脅されたので、逃げ回り、名古屋へ逃げ込んだ所で縁が何とか切れたそうです。

名古屋市議の大宮五郎と知り合い、交際を始める

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名古屋の東区仕種町にある小料理屋「寿」で「田中加代」として働き始めたところ、名古屋市会議員中京商業の校長・大宮五郎と知遇を得ます。大宮に対する定の第一印象は、紳士的で立派な方だったそうです。

その後も大宮は「寿」に通い、ついには定と関係を持ちました。大宮は出会ってから、定が犯罪を犯してからも、一貫して定を正しい道に導きたいと心を砕き、数少ない「信じられる人」「守ってくれる人」でした。

殺害相手・石田吉蔵との出会いは?

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定の運命の相手ともいえる石田吉蔵との出会いはどのようなものだったのでしょうか。

大宮五郎の口利きで東京中野の料亭・吉田屋へ

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再三大宮から「真面目になれ」と諭され、ついに新宿の口入や(職業紹介所)の助けで中野にある鰻料理や「吉田屋」の女中として、住み込みで働く先を紹介されます。

そこで、最初で最後の「私を愛してくれた人」である石田吉蔵と出会います。

吉田屋の店主・石田吉蔵と出会い、惹かれ合う

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働き始めたころは「いい男ぶり」に定が一方的に好意を持っていましたが、しばらく経つと、折を見ては石田が定にボディタッチを含めたちょっかいを出してくるようになりました。

それから、二人が情を交わすまで時間はかかりませんでした。

働き始めて間も無く、2人は男女の関係に

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昭和11年4月中旬頃、石田の妻に離れの客に酒を持っていくように言われ、行くと、石田が客として席におり、酒を呑んでいました。外での酒を断っているため、店の中で客のフリをして酒を呑むとのこと。

定が吉田屋に勤めてから、それまでに、妻の目を盗んで抱き合ったり、キスしたりと、心を交わしていましたが、この日、初めて二人は情を交わしました。

事件が起こるのは同年の5月18日ですから、およそ1か月の間に定の中で恋慕の情が炎のごとく燃え上がったことになります。

石田の妻が不倫を知り、駆け落ちへ

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この日以降、店の中で、人目を忍んで情事にふけりましたが、家人に知られ、石田の妻に伝わってしまいました。そこで、4月23日の朝、二人は渋谷の円山町にある待合「みつわ」で落ち合いました。

定は相談の後すぐに店に戻るつもりでいたようですが、思いのほか石田の情は深く、妻に対する愛情も無いことがわかり、定の石田への恋慕の情は深まってしまいました。

結局、5月7日まで吉田屋には石田も定も帰らず、渋谷、多摩川、荒川の待合を渡り歩くきながら、二人の絆は深まっていきました。

犯行から逮捕まで阿部定事件の詳細内容を時系列で紹介

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難航すると思われた猟奇殺人事件は二日後に犯人逮捕という決着がつきました。

1936年5月18日・駆け落ち先の旅館「満佐喜」で石田を殺害

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二回目の出奔は1936年5月11日で、先ずは中野駅で落ち合い、その後タクシーで荒川区尾久にある待合「満佐喜」に移動します。その後は事件当日まで同じ待合に逗留します。

定はたった3日間でも石田に会えなかった寂しさをぶつけ、18日までの間で、定、石田がそれぞれ1回外出した以外は、2人共裸で寝て(行為して)ばかりいました。布団も敷きっぱなしでした。

16日の晩あたりから、紐で締める行為を始め、17日深夜2時頃、締めすぎて鬱血させてしまいます。その時は痛みを和らげようといろいろと施しますが、一転して18日には首を絞めて殺害してしまいます。

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