月ヶ瀬村事件とは?犯人の丘崎誠人は差別を受けていた?最後は自殺? 社会

月ヶ瀬村事件とは?犯人の丘崎誠人は差別を受けていた?最後は自殺?

月ヶ瀬村事件とは、奈良県添上郡月ヶ瀬村で発生した少女殺人事件です。犯人の丘崎誠人の生立ちは悲惨で、集落から差別されていました。判決は無期懲役を言い渡された丘崎は、2001年9月4日、大分刑務所の独居房で自殺しました。そんな月ヶ瀬村事件についてまとめてみました。

目次

[表示]

月ヶ瀬村事件とは?

Vitabello / Pixabay

月ヶ瀬村事件とは、1997年5月に奈良県添上郡月ヶ瀬村で発生した事件で、犯人の丘崎誠人は、当時中学2年生の下校中だった浦久保充代さんに、車に乗って行くよう声をかけました。

しかし、無視をされたことで激昂し殺害に至っています。

奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件こと月ヶ瀬村事件の概要は?

geralt / Pixabay

月ヶ瀬村事件とは、月ヶ瀬村女子中学生殺人事件のことで、1997年5月4日に奈良県添上郡月ヶ瀬村(現在は奈良市)で発生した事件です。

当時13歳だった中学2年の女子生徒が、卓球大会の帰りに行方が分からなくなり、警察が捜査しました。

その後女性とのスニーカーやガードレールの血痕を見つけ、近くの公衆トイレからは、女性とのジャージや血に染まったダウンベストが発見され、聞き込み調査の末無職の男を逮捕しました。

被害者は当時中学2年生の浦久保充代さん

RyanMcGuire / Pixabay

1997年5月4日、奈良県添上月ヶ村で、当時13歳の中学2年生だった女子生徒、浦久保充代さんが卓球大会に出てから、行方が分からなくなっていました。

村人や警察官が通学路を捜査した結果、女子生徒のスニーカーが発見され、付近の浄化センターの公衆トイレでは、切り裂かれた女子生徒のジャージと、血だらけのダウンベストが見つかっています。

調べが進むうちに、卓球大会から行方が分からなくなっていた、13歳の女子生徒、浦久保充代さんが、殺害されたことが分かりました。また、犯人は同じ村に住む無職の男が浮かび上がってきました。

加害者は同じ村に住む当時25歳の丘崎誠人

jpeter2 / Pixabay

警察官はひき逃げや事件の被害者である可能性があるとして、捜査を開始しています。聞き込み捜査をするうちに、加害者は当時25歳だった無職の男、丘崎誠人であることをつきとめました。

丘崎誠人は、当時四輪駆動車の三菱・ストラーダに乗っており、警察やマスコミはその男をマークするようになり、7月25日に奈良県警は略取誘拐の容疑で丘崎誠人を逮捕しています。

当初丘崎は犯行を否定していましたが、犯行後に売却した車から、被害者の血液、DNAなどが確認され、引き裂かれたジャージからその車のタイヤ痕が見つかり、そのことを追求すると、丘崎は犯行を認めました。

浦久保充代さんは卓球大会の帰りに殺害された

Auricam / Pixabay

被害者の女子中学生だった浦久保充代さんは、当日7月23日は卓球大会の帰りでした。同村に住む丘崎誠人(当時25歳)は、下校中の浦久保充代さんに「乗って行くか」と声を掛けています。

その後、被害者から無視されたことを逆恨みし、浦久保充代さんを車で当てたあと、近くの公衆トイレで頭を石で殴って殺害しています。

丘崎誠人は浦久保充代さんに無視された事に腹を立てて殺害!

WenPhotos / Pixabay

丘崎誠人は、当日気分が高揚しており、下校途中の浦久保充代さんに車に乗って行くよう声をかけたといいます。

しかし、浦久保充代さんから無視をされたことで激昂し、それまで受けた村民からの差別などを思い出すなどしてパニック状態となり、丘崎誠人は殺害に至ったと供述しています。

車から証拠が発見され丘崎誠人は犯行を自供

bluebudgie / Pixabay

奈良県警の警察官が現場に到着し、付近の捜査を始めると、自宅近くの県道で浦久保充代さんの靴が発見され、その現場にはタイヤ痕とガードレールには血痕が付着していました。

さらに、近くにあった公衆トイレには引き裂かれたジャージと血痕のついたダウンベストなどが発見されました。

丘崎は、最初は犯行を否認していましたが、売却した車の後部座席から発見された血痕とDNAが充代さんのものと一致し、ジャージについていたタイヤ痕と丘崎の車のタイヤと一致したことから丘崎は犯行を認めました。

福原愛に関する記事はこちら

犯行の動機は村八分で差別されていた鬱憤?丘崎誠人の供述は?

pixel2013 / Pixabay

丘崎誠人は両親と姉が3人、妹が1人で両親は共に日本人と朝鮮人のハーフでした。父親は無口で、母親は気性の激しい性格でしたが、2人とも働き者でした。

長姉は村で一軒しかない居酒屋で働いていました。丘崎が住む集落は茶摘み農家ばかりで、封建的な村社会の中で丘崎一家は浮いた存在だったようです。

朝鮮人の血が入っているということで、丘崎一家を「朝鮮が!」と見下されていたといいます。そんな丘崎誠人の犯行に及んだ供述とはどんなものだったのかを、まとめてみました。

風俗帰りで気持ちが高揚していた?

MasashiWakui / Pixabay

丘崎誠人は、犯行の前夜に滋賀県内にあるソープランドに行き、5月3日の午前中に地元に戻ってきています。丘崎は、ぽかぽかとした陽だまりの中、車を停めて仮眠していたといいます。

しばらくして目を覚まし、何となくウキウキした気持ちで車を運転していたら、B地区に帰る途中だった被害者の浦久保充代さんが歩いているのに気がつきます。

声を掛けたのは顔見知りだったから?親切心を無視されて腹が立った?

jplenio / Pixabay

丘崎は、B地区まで距離があるし坂もあるから、あの子を家まで送ってやろうという親切心がわいて、気楽な気持ちで「乗っていくか?」と声をかけました。

しかし、浦久保充代さんは、丘崎をチラッと見ただけで、無視し返事もしなかったそうです。その時の気持ちを丘崎誠人は次のように語っています。

「顔見知りの私が親切に声を掛けているのですから、せめてお爺さんが迎えに来ますから結構ですとか、家がすぐそこですから結構です等と断ってくれれば、私としては腹が立つことはなかったのですが、Aさんが私の親切を無視し、返事もせず逃げるように早足で歩き始めたことで、俺をよそ者と思って無視しよる。返事もしやがらん。○○の者は俺を嫌っており、この女も一緒やと思うと、これまでの○○の人間から受けていたよそ者扱いの悔しさが爆発寸前になったのです」(引用:NAVERまとめ)

村に対する復讐をしようとした?怒りでパニック状態に

geralt / Pixabay

そうやって自分のことを無視した浦久保充代さんと、B地区全体の人間に対する憎しみが頭の中でパニック状態になって、許さない、車を当てて連れ去ってやろうと思ったといいます。

本当は強姦目的だった?

Jan-Mallander / Pixabay

丘崎誠人の供述のなかには「村からの差別を受けていたから、その鬱積で犯行に至った」と主張していましたが、公衆トイレには刃物で切り裂かれた女子生徒のジャージや下着がありました。

そうしたことからも、本当は強姦目的だったのではないかとの見方もありますが、弁護側はそのような性的異常の傾向は認められないと否定していました。

叱られずに育った事が原因という声も

silviarita / Pixabay

丘崎誠人は、村の人達の多くの証言から、幼い頃は素直ないい子で、祖母にも気遣いできる優しい子だったそうです。

また、丘崎誠人の母親は放任主義だったこともあり、誠人を叱ったことなかったようです。そんな誠人は他人からも叱られるという経験が乏しく、そのことが誠人のその後人生に影響したという見方もあります。

左官会社に修業をしたこともありますが、些細なことで注意されると途端にへそを曲げる性格だったと、当時を知る人は語っています。こうしたことが事件に繋がっているともいわれています。

丘崎誠人の逮捕時の様子は?画像はある?

丘崎誠人が逮捕された時の画像がありましたので紹介しました。何か叫んでいるようにも見えますが、その時の詳細は分かりません。

丘崎誠人はその後、裁判で無期懲役の判決が下り、大分刑務所に入っています。

月ヶ瀬村には与力・区入り制度が受け継がれていた?

pixel2013 / Pixabay

以前から、月ヶ瀬村には与力・区入り制度というものが受け継がれていたことが分かっています。その制度によって、丘崎一家は30年以上の長い間、月ヶ瀬村への区入りが認められなかったようです。

与力・区入り制度とは?

Graehawk / Pixabay

与力・区入り制度とは「新しく越して来た家は2名の推薦を得て初めて区入りができる」「集落に収める負担金は家のランクで決められる」「田畑を持つ家の方が持たない家よりもランクが上」といった決まりごとです。

その他にも「区入りできないと、与力に協力を得られないため関わりが薄くなる」「葬式と火事だけは助けてもらえる」などというものです。

葬式と火事の時以外は関わらないと言われていた?

suvajit / Pixabay

昔から「村八分」という言葉がありますが、その意味は葬式と火事以外の行事である成人式・結婚式・出産・病気の世話・新改築の手伝い・水害の世話・法要・旅行などの世話はしないということです。

丘崎一家は、こうした「村八分」状態だったようです。

丘崎誠人の生い立ちや経歴は?仕事を度々変えていた?

Gellinger / Pixabay

丘崎誠人の生い立ちや、中学卒業後の仕事を転々としていたことなどをまとめてみました。

朝鮮人の血が入っていたため、差別されていた丘崎誠人

StockSnap / Pixabay

丘崎誠人は、両親ともが日本人と朝鮮人のハーフで、村の中では丘崎一家を朝鮮人として見下す者もいたそうです。

母親と姉はまともでは無かった?

RyanMcGuire / Pixabay

ある証言では、丘崎誠人と父親の間には血のつながりがないとされ、本当の父親ではない可能性もあるようです。

誠人の母親は、働き者だと評する一方で、浪費癖がひどいし子供の教育は放任で、何かあると学校のせいにし、怒鳴りこむような人物だったようです。

また、長姉にしても母親に良く似ていて、母娘で怒鳴り合いもしょっちゅうあったようです。その姉は、20歳の頃に妊娠し、出産していますが結婚はせず、さらにその4年後に再び妊娠し出産しています。

放火の犯人だと疑われた?姉と火遊びしていたという証言も

Free-Photos / Pixabay

丘崎誠人が小学校3年の時に、村の公民館が全焼するという火事が発生しました。この時に誠人と姉が火遊びをしていたという目撃証言があり「誠人、逃げ!」という声を聞いた村人もいました。

その話から、誠人らが放火の犯人だと疑われていましたが、この件に関しては「管理不手際」ということで決着はつきました。

しかし、この事件以来、丘崎一家に対する風当たりは強くなったようです。

他の事件でも疑われたことがあった

whoismargot / Pixabay

村の親たちは誠人と遊ばないように自分の子供に言い聞かせるようになり、何か事件があるごとに、丘崎誠人の仕業だと疑われるようになりました。

ビニールハウスが燃えた時や、青年団の祭りの時に現金が紛失したときも、真っ先に誠人のことが疑われたそうです。

住んでいる家は殺害した浦久保充代さんの祖父が世話してくれた?

HeatherPaque / Pixabay

丘崎一家は、あばら家のような借家に住んでいましたが、この家を借りることができたのは、民生委員をしていた浦久保充代さんの祖父の計らいによるものでした。

家賃1万円程度の家に、一家は30年以上住み続けていましたが「区入り」は認められていなかったのでした。

中学にはほとんどいかず卒業後はアルバイト

jarmoluk / Pixabay

丘崎誠人は、中学にはほとんど登校していませんでしたが、不登校の理由について「教師から体罰を受けていた」と主張していました。

丘崎誠人は卒業後には、測量のアルバイトをしていますが、それも長く続かなかったようです。

調理師や土木員など職を転々としたが続かなかった

oakdog / Pixabay

丘崎誠人は、1988年の16歳のときに、大阪や東京で調理師として住み込みで働いていましたが、性に合わないという理由で村に戻っています。

その後も、土木作業員や警備員、左官業などの仕事をしますが、どれも半年も続きませんでした。

TVゲームのやりすぎで朝起きられなかった事が原因?

Pexels / Pixabay

誠人はTVゲームが好きで夜遅くまで続け、朝起きれずに遅刻することも多かったようです。

事件当時は無職で、趣味に没頭して過ごしていた

Free-Photos / Pixabay

丘崎誠人は、事件当時は無職で、TVゲームやビデオ、車などにのめり込んで、その年の3月に四輪駆動車を購入し、カーステレオでドリカムやチャゲ&飛鳥の音楽を聞くのが好きだったようです。

前日は風俗街に遊びに行っていた?

MasashiWakui / Pixabay

丘崎誠人は、滋賀県の雄琴の風俗街にたびたび足を運んでいて、事件の前日にもソープランドに行っていたことが分かっています。

NEXT:村人からもらったお金を使い込んだという話も?
1/2