月ヶ瀬村事件とは?犯人の丘崎誠人は差別を受けていた?最後は自殺? 社会

月ヶ瀬村事件とは?犯人の丘崎誠人は差別を受けていた?最後は自殺?

月ヶ瀬村事件とは、奈良県添上郡月ヶ瀬村で発生した少女殺人事件です。犯人の丘崎誠人の生立ちは悲惨で、集落から差別されていました。判決として無期懲役を言い渡された丘崎は、2001年9月4日、大分刑務所の独居房で自殺しました。そんな月ヶ瀬村事件についてまとめてみました。

目次

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月ヶ瀬村事件とは?

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月ヶ瀬村事件とは、月ヶ瀬村女子中学生殺人事件のことで、1997年5月4日に奈良県添上郡月ヶ瀬村(現在は奈良市)で発生した事件です。

当時中学2年生の下校中だった浦久保充代さんが殺害され、犯人として無職の男・丘崎誠人が逮捕されました。

ここから、事件の詳細について解説していきます。

奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件こと月ヶ瀬村事件の概要は?

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1997年5月4日、奈良県添上郡月ヶ瀬村に住む当時13歳の中学2年生だった女子生徒、浦久保充代さんが卓球大会に参加した後に帰宅せず、行方不明になるという事件が起こりました。

捜索の結果、浦久保充代さんのものと見られる血塗れの衣服が発見され、同じ村に住む無職の男・丘崎誠人(当時25才)が逮捕されました。

被害者は当時中学2年生の浦久保充代さん

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卓球大会の後、突如行方がわからなくなった浦久保充代さん。

村人や警察官が通学路を捜査した結果、浦久保充代さんのスニーカーが発見され、付近の浄化センターの公衆トイレで切り裂かれた女子生徒のジャージと、血だらけのダウンベストも発見。

調べを進めるうちに浦久保充代さんが殺害されている可能性が浮上し、容疑者として同じ集落の住民である25歳の男性が逮捕されたのです。

加害者は同じ村に住む当時25歳の丘崎誠人

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警察は浦久保充代さんは事件に巻き込まれた可能性があるとして聞き込みを始め、加害者は当時25歳だった無職の男、丘崎誠人であることをつきとめました。

事件当時、丘崎誠人はストラーダという大型車に乗っており、「無職にも関わらず、連夜遊び歩いている」と不審がる声が集落内であがっていたといいます。

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集落住民の声をもとに警察とマスコミは7月25日に奈良県警は丘崎誠人の身辺調査を開始。略取誘拐の容疑で丘崎誠人を逮捕しました。

浦久保充代さんは卓球大会の帰りに殺害された

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それでは、丘崎誠人が浦久保充代さん殺害に至った動機は何だったのでしょうか?

浦久保充代さんは事件当日の午後、卓球大会の帰りに同村に住む丘崎誠人に運転する車中から「乗って行くか」と声を掛けられました。

しかし、顔見知りであるにもかかわらず浦久保充代さんは丘崎誠人の申し出を無視。

これに腹を立てた丘崎誠人は時速30kmで走行中の車でわざと浦久保充代さんにぶつかり、近くの公衆トイレで彼女の頭を石で殴って殺害したとされます。

丘崎誠人は浦久保充代さんに無視された事に腹を立てて殺害!

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事件前夜、丘崎誠人は風俗店で遊んだ後に愛車の中で仮眠を取り、目が覚めて高揚した気分で帰宅途中に浦久保充代さんに行きあったといいます。

そして親切心から「送っていってあげよう」と思って浦久保充代さんに声をかけたものの、無視をされたことで激昂。

それまで受けた村民からの差別などを思い出すなどしてパニック状態となり、丘崎誠人は殺害に至ったと供述しています。丘崎誠人と村人の関係については、下で詳しく説明していきます。

車から証拠が発見され丘崎誠人は犯行を自供

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逮捕された丘崎は、最初は犯行を否認していました。しかし、売却した車の後部座席から発見された血痕とDNAが充代さんのものと一致し、ジャージについていたタイヤ痕と丘崎の車のタイヤと一致したことから犯行を認めたといいます。

犯行の動機は村八分で差別されていた鬱憤?丘崎誠人の供述は?

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丘崎誠人は両親と姉が3人、妹が1人で両親は共に日本人と朝鮮人のハーフ。両親は行商や日雇いで生計を立て、長姉は村で一軒しかない居酒屋で働いていました。

丘崎が住む集落は茶摘み農家ばかりで、封建的な村社会の中で「よそ者」の一家は浮いた存在だったようです。

また異国の血が入っているということで、丘崎一家は「朝鮮が!」と見下されていたといいます。丘崎誠人の犯行に及んだ動機には、集落での差別が根深く絡んでいるとされます。

風俗帰りで気持ちが高揚していた?

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丘崎誠人は、犯行の前夜に滋賀県内にあるソープランドに行き、5月4日の午前中に地元に戻ってきています。丘崎は、ぽかぽかとした陽だまりの中、車を停めて仮眠していたといいます。

しばらくして目を覚まし、何となくウキウキした気持ちで車を運転していたら、B地区(集落内で丘崎家が所属していた区・仮称)に帰る途中だった被害者の浦久保充代さんが歩いているのに気がつきます。

声を掛けたのは顔見知りだったから?親切心を無視されて腹が立った?

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丘崎は、B地区まで距離があるし坂もあるから、あの子を家まで送ってやろうという親切心がわいて、気楽な気持ちで「乗っていくか?」と声をかけました。

しかし、浦久保充代さんは、丘崎をチラッと見ただけで、無視し返事もしなかったそうです。その時の気持ちを丘崎誠人は次のように語っています。

「顔見知りの私が親切に声を掛けているのですから、せめてお爺さんが迎えに来ますから結構ですとか、家がすぐそこですから結構です等と断ってくれれば、私としては腹が立つことはなかったのですが、Aさんが私の親切を無視し、返事もせず逃げるように早足で歩き始めたことで、俺をよそ者と思って無視しよる。返事もしやがらん。○○の者は俺を嫌っており、この女も一緒やと思うと、これまでの○○の人間から受けていたよそ者扱いの悔しさが爆発寸前になったのです」

(引用:高野嘉雄「月ヶ瀬事件と差別」部落解放なら第12号)

村に対する復讐をしようとした?怒りでパニック状態に

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犯行時の心境について、自分のことを無視した浦久保充代さんと、さんざん自分たち一家を差別してきたB地区全体の人間に対する憎しみが頭の中でパニック状態になったと丘崎誠人は語っています。

自分を無視したAさんとB地区全体の人間に対する憎しみが一緒になり、頭の中がパニック状態になったのです。

そんな腹立たしい気持ちで車を走らせている時、完全に切れてしまい、許さん、車を当てて連れ去ってやろう、最低でも身動きできないようにしてやろう、B村の者が一人居なくなれば、村の全員が心配して、恨みが晴らせる絶好の機会や、今がええチャンスや

(引用:高野嘉雄「月ヶ瀬事件と差別」部落解放なら第12号)

このような強い憎悪の念に駆られ、許さない、車を当てて連れ去ってやろうと思ったといいます。

本当は強姦目的だった?

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丘崎誠人の供述のなかには「村からの差別を受けていたから、その鬱積で犯行に至った」と主張していましたが、公衆トイレには刃物で切り裂かれた女子生徒のジャージや下着がありました。

そうしたことからも、本当は強姦目的だったのではないかとの見方もありますが、弁護側はそのような性的異常の傾向は認められないと否定していました。

叱られずに育った事が原因という声も

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丘崎誠人に関して、幼い頃は素直ないい子で、祖母にも気遣いできる優しい子だったという村の人達からの証言があがっています。

しかし丘崎誠人の母親は放任主義だったこともあり、丘崎を叱ったことなかったようです。そのため他人からも叱られるという経験が乏しく、これが丘崎の人生に影響したという見方もあります。

左官の修業をしたこともありますが、些細なことで注意されると途端にへそを曲げる性格だったと、当時を知る人は語っています。こうしたことが事件に繋がっているともいわれています。

丘崎誠人の逮捕時の様子は?画像はある?

丘崎誠人が逮捕された時の画像がありましたので紹介しました。何か叫んでいるようにも見えますが、その時の詳細は分かりません。

丘崎誠人はその後、裁判で無期懲役の判決が下り、大分刑務所に収監されることとなりました。

月ヶ瀬村には与力・区入り制度が受け継がれていた?

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以前から、月ヶ瀬村には与力・区入り制度というものが受け継がれていたことが分かっています。その制度によって、丘崎一家は30年以上の長い間、月ヶ瀬村への区入りが認められなかったようです。

事件が起きた月ヶ瀬村とはどんな場所?

事件の舞台となった月ヶ瀬村という集落は、現在はもう存在していません。2005年4月1日に月ヶ瀬村は山辺郡都祁村と奈良市へ編入、統合されました。

そのため月ヶ瀬村があった場所は、奈良市月ヶ瀬という名称になっています。月ヶ瀬は梅が有名な観光地で、ツーリングで訪れる人も多いスポットです。 

しかし月ヶ瀬村という名称であった頃には、与力制度という古いしきたりが残っていたことが『月ヶ瀬村史』にも残されています。

与力・区入り制度とは?

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与力・区入り制度とは「新しく越して来た家は2名の推薦を得て初めて区入りができる」「集落に収める負担金は家のランクで決められる」「田畑を持つ家の方が持たない家よりもランクが上」といった決まりごとです。

葬式と火事の時以外は関わらないと言われていた?

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昔から「村八分」という言葉がありますが、その意味は葬式と火事以外の行事である成人式・結婚式・出産・病気の世話・新改築の手伝い・水害の世話・法要・旅行などの世話はしないということです。

月ヶ瀬村では区入りできなくとも葬式と火事だけは助けてもらえるといいますが、区入りができない世帯には以下のようなデメリットがあるとされます。

  • 区有林を利用する権利がない
  • 地区内での交際・婚姻ができない
  • 地区での集会に参加する権利がない
  • 地区役員の選任の機会もなく、発言権がない

丘崎一家は、30年来このような扱いを受けて「村八分」状態だったといいます。

しかし、権利はなくとも地区の負担金の支払いや労働奉仕といった義務は発生したといい、良いように扱われることも多かったそうです。

丘崎誠人の生い立ちや経歴は?仕事を度々変えていた?

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丘崎誠人の生い立ちや、中学卒業後の仕事を転々としていたことなどをまとめてみました。

朝鮮人の血が入っていたため、差別されていた丘崎誠人

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丘崎誠人は、両親ともが日本人と朝鮮人のハーフで、村の中では丘崎一家を朝鮮人として見下す者もいたそうです。

母親と姉はどんな人物だった?

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ある証言では、丘崎誠人と父親の間には血のつながりがないとされ、本当の父親ではない可能性もあるようです。

誠人の母親は、働き者だと評される一方で、浪費癖がひどいし子供の教育は放任で、何かあると学校のせいにし、怒鳴りこむような人物だったとの話もあります。

また、長姉にしても母親に良く似ていて、母娘で怒鳴り合いもしょっちゅうあったようです。その姉は、20歳の頃に妊娠し、出産していますが結婚はせず、さらにその4年後に再び妊娠し出産しています。

放火の犯人だと疑われた?姉と火遊びしていたという証言も

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丘崎誠人が小学校3年の時に、村の公民館が全焼するという火事が発生しました。この時に誠人と姉が火遊びをしていたという目撃証言があり「誠人、逃げ!」という声を聞いた村人もいました。

その話から、誠人らが放火の犯人だと疑われていましたが、この件に関しては「管理不手際」ということで決着はつきました。

しかし、この事件以来、丘崎一家に対する風当たりはいっそう強くなったようです。

他の事件でも疑われたことがあった

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村の親たちは誠人と遊ばないように自分の子供に言い聞かせるようになり、何か事件があるごとに、丘崎誠人の仕業だと疑われるようになりました。

ビニールハウスが燃えた時や、青年団の祭りの時に現金が紛失したときも、真っ先に誠人のことが疑われたそうです。

住んでいる家は殺害した浦久保充代さんの祖父が世話してくれた?

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丘崎一家は、あばら家のような借家に住んでいましたが、この家を借りることができたのは、民生委員をしていた浦久保充代さんの祖父の計らいによるものでした。

家賃1万円程度の家に、一家は30年以上住み続けていましたが「区入り」は認められていなかったのでした。

丘崎一家が暮らした家と生活

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丘崎一家が住んでいた家屋は、薄暗い傾斜地にある元は物置として使用されていた小屋だったといいます。

屋根はトタン、壁はベニヤといったあばら家で、室内には常にネズミがいるような不潔な環境。さらに集落に収める下水道敷設分担金が工面できなかったために、トイレもありませんでした。

そのために一家は屋外に穴を掘り、そこで用を足すという困窮した生活を送っていたといいます。

中学にはほとんどいかず卒業後はアルバイト

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丘崎誠人は、中学にはほとんど登校していませんでしたが、不登校の理由について「教師から体罰を受けていた」と主張していました。

丘崎誠人は卒業後には、測量のアルバイトをしていますが、それも長く続かなかったようです。

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