夕張保険金殺人事件とは?恩赦を期待して控訴取り下げ?実行犯は? 社会

夕張保険金殺人事件とは?恩赦を期待して控訴取り下げ?実行犯は?

1984年、北海道夕張で起きた「夕張保険金殺人事件」。事件の主犯は夫・日高安政、妻・日高信子の夫婦でした。そして実行犯の石川清です。主犯の夫婦は死刑を告げられ、一度は控訴するも恩赦を期待してこれを取り下げました。この事件は一体どうなってしまったのでしょうか。

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夕張保険金殺人事件とは?夫婦による事件?

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1984年(昭和59年)に、火災保険と生命保険の保険金搾取を目的に放火殺人事件が発生しました。その場所が北海道の夕張市だったため、「夕張保険金殺人事件」と呼ばれています。

首謀者は暴力団の組長夫婦。実行犯はこの暴力団夫婦からの指示で犯行に及んだとされています。そして、この暴力団夫婦は、首謀者として死刑の判決が下されました。

一度は控訴をしたが、恩赦による減刑を望んで取り下げました。そして自らで刑を確定させました。しかし、恩赦は行われずに、戦後では初めて夫婦での死刑が執行されました。

夕張保険金殺人事件は1984年に北海道で起きた事件

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夕張保険金殺人事件は1984年(昭和59年)、ロサンゼルスオリンピックが開催された年にこの悲惨な事件が起きてしまいました。

場所は、北海道の夕張市鹿島(大夕張)で、現在では夕張と聞くと「夕張メロン」を思い出す方もいるのではないでしょうか?

日付は、5月5日という夕張市ではまだまだ肌寒い季節に、放火という形で大人4人、子供2人という尊い命が失われました。

首謀者は会社を経営していた日高安政・日高信子夫婦

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実行犯へ指示を出した首謀者は、夕張炭鉱への労働者を派遣する下請け会社を経営していた夫、「日高安政」とその妻、「日高信子」夫婦でした。

二人は1970年頃から、三菱大夕張炭鉱の「日高班」を設立して社長夫婦となり、炭鉱の作業員を派遣する手配業を行なっていました。

1981年の10月に発生した、北炭夕張新炭鉱ガス突出事件の保険金がきっかけとなり、惨忍な計画が遂行されてしまいました。

計画的な放火殺人だった?

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この非道な放火殺人事件は、日高夫婦による、作業員宿舎の火災保険と従業員の生命保険の保険金が目当てで実行された計画的な殺人事件でした。

事件当日は、新たな作業員の入寮を祝う宴が22時頃まで行われており、作業員達はたらふく酒を飲まされていたとされています。

おそらく、放火をしてその火に気付くのを遅らせるために、泥酔させたのではないかと言われています。

死亡者は6人で1人が重症!救助にあたった消防士も死亡している

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北海道夕張市鹿島の「日高興行所」の宿舎から出火し、宿舎と隣の元旅館を全焼させたこの事件の被害者は、計7人の命を奪っています。

4人の作業員と子供2人、計6人が焼け跡から死体として発見されて、1人が2階からなんとか飛び降りて、両足を骨折したが一命は取り留めました。

しかし、消火活動をしていた消防士も1人、宿舎の倒壊に巻き込まれる形で殉職しています。

噂を鵜呑みにし恩赦を期待したがそのまま死刑に

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首謀者である日高夫婦は、殺人の共謀共同正犯だとして死刑判決を言い渡されました。日高夫妻は、即刻、札幌高裁に控訴しましたが、突如控訴を取り下げました。

日高夫婦が控訴を取り下げた理由は、当時の昭和天皇の病状が重篤なため、仮に天皇が崩御すれば恩赦が行われて、日高夫婦も死刑の執行を減刑されると期待したからでした。

しかし、日高夫婦の期待は虚しく、昭和天皇の崩御で懲役受刑者や、死刑確定者に対する恩赦は一切行われませんでした。

戦後初の夫婦2人の死刑となる

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恩赦の道を断たれてしまった日高夫婦は、「死刑判決を受けて、精神的にも不安定な状態で、法律の知識もないのに、恩赦があると勘違いしていた」と札幌高裁に控訴の審議の再審を要求しました。

しかし、認められず、最後に託した最高裁への特別抗告も棄却されてしまい、1997年の8月1日に札幌刑務所で夫婦ともに死刑が執行されました。

女性死刑囚の実際の死刑執行は、1970年の女性連続毒殺魔事件以来の27年ぶりで戦後3件目であった、また、夫婦二人での死刑執行は戦後では初めてでした。

死刑囚に恩赦が行われる事はほぼ無い?

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死刑囚が死刑を執行されなかった理由は、恩赦によって死刑が減刑されて、無期懲役などになるのと、獄中で病気によって亡くなる、または、自殺してしまい刑が執行されなかった場合があります。

しかし、恩赦によって刑が減刑されるという例は、1975年の福岡事件の犯人に対して行われたのが最後です。

それ以降は、恩赦によって死刑が減刑されて無期懲役になる、という事例はないので、よほどのことがない限り恩赦は行われないようです。

恩赦に期待して死刑された事件として今でも有名?

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恩赦の対象になるのが、裁判が継続中の者は対象外で、刑が確定してることが条件にあるので、日高夫婦は恩赦の対象になるために控訴を取り下げ、刑を確定させました。

しかし、そもそもが、日高夫婦の罪状である保険金目当ての放火殺人は「恩赦の対象外」であるため、もし当時、恩赦が行われていたとしても日高夫婦が恩赦を受けることはなかったようです。

恩赦を受ける事は不可能だったにも関わらず、死刑を自らで確定させて、恩赦を受けようとした、というところから、夕張保険金殺人事件は「恩赦を期待して死刑を確定させた事件」としても有名になったようです。

首謀者夫婦の画像もある?

作業員4名、炊事婦の子供2人、消防団員1名を、無残にも焼き殺してしまった首謀者の日高夫婦の写真がツイッター上に出回っていました。

右が、元暴力団で初代誠友会日高組の組長の「日高安政」。左がその妻の「日高信子」です。

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夕張保険金殺人事件の背景や詳細は?

夕張保険金殺人事件が行われてしまった背景には、1981年に発生した事故、北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が大きく関わっています。

この事故によって、大金を手に入れることができた日高夫婦が、次も大金を手に入れるのは「これだ」と誤った判断をしてしまったことが原因です。

事件の当初の見解は、入寮祝いで行なったジンギスカン鍋の火元の不始末で出火してしまった、というもので、夫婦は合わせて1億3800万円もの大金を手にした。

事件が起きたのは、夕張炭鉱への労働者派遣を行う下請け会社

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日高夫婦が経営していた「日高興業」の作業員宿舎から出火したこの事件だが、この「日高興業」というのは、1970年頃に「日高班」という炭坑員を派遣する会社でした。

1976年には「有限会社日高工業」に発展しましたが、翌年の77年に「日高工業」は倒産しています。

のちに、同じく炭坑員を派遣する「有限会社鹿島工業」を設立します。再度倒産してしまいますが、なんとか立て直し、放火事件が起きてしまいます。

ガス突出事故で多額の保険金を貰って味を占めていた日高夫婦

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1981年に起こった「北炭夕張新炭坑ガス突出事故」で、「日高班」が派遣していた作業員7名も事故で亡くなってしまい、多額の保険金が「日高班」に振り込まれました。

日高夫婦の手元に入ったお金は1億円以上だとも言われています。思いがけない形で大金が手に入った日高夫婦は、新築2階建ての自宅兼事務所などを建てたようです。

しかし、嗜好品の数々を買い漁るなどして、わずか2年足らずで1億円を使い果たしてしまいました。

当時、事故で炭鉱が廃れて困窮していた

1970年代ぐらいから、相次いで閉山していた夕張の炭鉱業が、「北炭夕張新炭坑ガス突出事故」をきっかけに衰退の加速が増してしまい、多額の借金を背負った日高夫婦の生活は窮困してしまいました。

そこで夫婦は、札幌で新しくデートクラブを起こそうと考えましたが、そんな資金はどこにもありません。

そこで、思いついてしまったのが、保険金で大金が手に入った「北炭夕張新炭坑ガス突出事故」です。

再び保険金を貰おうと計画を立てる

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「北炭夕張新炭坑ガス突出事故」で、1億円もの大金が手に入った日高夫婦は、この事故で味を占めてしまったようです。

デートクラブを開業するための資金を、新たな保険金で得ようと考えてしまいました。

しかも、自分たち夫婦の手は汚さずに、同僚であった従業員の「石川」の手を汚そうと企てました。

飲み会の後に計画が実行された?共犯者であり実行犯は従業員の石川清

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事件が発生したのは、1984年の5月5日23時頃です。この日は作業員「石川」の入寮を祝うジンギスカン鍋が皆で22時頃まで行われていました。

そして、酔っ払ったみんなが、解散して寝床についた23時頃に宿舎に火がつけられました。

この時、火から逃げようとして、火災現場の2階から飛び降りて両足を骨折してしまった人間が1人いましたよね?そうです。その人間こそ実行犯の「石川」です。

事件当初は保険金が約1憶3千万支払われていた

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焼け落ちた宿舎の現場検証の結果、ジンギスカン鍋の火の不始末か、石油ストーブの不始末が原因だと認定されました。

この認定に基いて、保険会社は、全焼した宿舎の火災保険、死亡した作業員4名の死亡保険の計1億3800万円を日高夫婦に支払いました。

再び大金を手に入れた日高夫婦ですが、この大金を1ヶ月で使い果たしてしまったというので驚きです。

石川清は入院中に失踪し、青森市内から通報

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火災から逃げようと2階から飛び降りて、両足を骨折してしまった石川は、すぐに病院に搬送されて入院しました。

しかし、1984年の7月18日、火災事件から2ヶ月ほどが経過した夏に、入院中だった石川が突然失踪しました。

そして、同年8月15日、石川は失踪していた青森から、夕張警察に電話をかけて、事件の真相を告白しました。

石川清が自首した理由は?報酬の少なさと子供が亡くなったことが関係?

実行犯の石川は、首謀犯の日高夫婦から500万円の報酬を約束されていました。しかし、実際に支払われた額は75万円で、日高夫婦への信感を抱くようになりました。

「事件の真相を知っている自分はきっと殺されてしまう」と考えた石川は、恐怖から、警察に自首することを決めました。

また、石川は殺すつもりのなかった子供2人を、救出することができなかったという後悔から自首に踏み切ったとも言われています。

計画的放火殺人がばれて首謀者と実行犯は逮捕

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石川の自首により、日高夫婦はすぐに逮捕されたが、札幌地裁で行われた第一審で「放火は火災保険が目的で、作業員たちの命を奪うつもりはなかったと主張しました。

死者が出てしまったのは、「宿舎の人間が逃げられるようにやれ」と指示を出したのにも関わらず、石川がそれに従わなかったからと言っています。

検察は、「作業員たちにアルコールを飲ませて、就寝後に放火させたのは、殺人の故意がみられる」と日高夫婦に死刑を求刑しました。また、実行犯の石川も終身刑を求刑されています。

北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が無ければ起きなかった事件?

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「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」がなければ「夕張保険金殺人事件」は起こらなかったのでしょうか?

それは憶測になってしまいますが、おそらくこの無残な事件は、起こらなかったと思います。「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」で大金を手に入れた日高夫婦。

豪遊して、新築を建てるほどの喜びを味合わなかったら、こんな発想は浮かばなかったでしょう。

夕張保険金殺人事件のその後は?日高商事の事務所は廃墟に?

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「夕張保険金殺人事件」で逮捕された日高夫婦が経営していた会社は直ちに業務停止命令が下され、そのまま倒産してしまい廃墟となったようです。

放火の事件現場になってしまった、作業員宿舎があった鹿島栄町は、2014年、ダムの湛水開始により全域が水没しています。

多くの命を奪い、全焼してしまった作業員宿舎も、今は水の奥底に沈んでいます。

夫婦が経営していた会社の事務所写真は?

1981年の「北炭夕張新炭坑ガス突出事故」で1億円近くを手にした日高夫婦が、夕張市の夕張川を望む場所に2階建の自宅と兼用の会社の事務所を新築しました。

なんと、20年近く経った今でも、劣化こそ激しいものがあるが残っています。wikipediaやGoogleストリートビューで確認することができます。

現在、会社は廃墟スポットとして知られるように

夕張市は1990年頃に全ての炭鉱が閉山してしまい、それに伴い雇用が生まれなくなり、若者はどんどん外に流れていき、2007年には財政破綻してしまいました。

そんな夕張市の街は、ゴーストタウン化していて、現在は廃墟スポットとして全国でも有名になっています。

残忍な放火事件を犯した日高夫婦の経営していた会社も、半壊しながらも今なお廃墟スポットとして残っています。

心霊スポットとしても有名になっている

北海道の過酷な気候や、侵入者の破壊行為で建物は半壊しながらも、看板には「クレジットの信用商事、シャクリーファミリークラブ、日高商事、三裕代理店」と書いてあり残っています。

廃墟としても有名になったこの建物ですが、「北野誠のお前ら行くな」でも北海道の心霊スポットとしても紹介されています。

夕張保険金殺人事件のTシャツを販売する人も!?

死刑という結末で幕を閉じた、この残忍な「夕張保険金殺人事件」ですが、日高夫婦が経営していた建物は20年近く経った今もゴースとタウンに廃墟として残っています。

なんと、そんな「夕張保険金殺人事件」がTシャツとして販売されているようです。「アイラブ夕張保険金殺人事件」と正面に大きく書かれています。

サイズもSからXLまであり、色も白や黒、赤やオレンジまで全部で8色ほどあるようです。

首謀者夫婦の夫である日高安政の生い立ちは?犯罪を繰り返していた?

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日高夫婦の夫「日高安政」は1943年(昭和18年)に北海道の様似郡様似町(さまにぐんさまにちょう)で産まれました。

母子家庭で育った「日高安政」は兄弟の影響で飛行を繰り返し、17歳の頃から暴力団員として活動していました。

1978年には、覚せい剤使用で執行猶予付きで実刑判決されるも、執行猶予中に再び覚せい剤で懲役をくらっています。

7人兄弟だった?

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1943年に生を受けた「日高安政」は7人兄弟の6番目だったようです。家族は日高が6歳の時に、事件が起きた夕張市に引っ越してきました。

この時に父を失い、その後は母子家庭で兄弟7人とともに暮らしました。兄弟たちの影響で、非行を繰り返していた日高は、小学校6年の時に教護院に入れられて、そこで15歳まで過ごしました。

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