
鴨志田穣とは?西原理恵子との出会いや生い立ちは?アル中だった?
鴨志田穣さんは紛争地帯で写真を撮っていた戦場カメラマンです。この記事は彼の生い立ちとブログをしていた噂、そして毎日かあさんで知られる妻の西原理恵子さんとの活動を中心に、執筆された本やその中で映画化されている作品についてまとめています。
目次
[表示]鴨志田穣とは?
冒頭ですでに鴨志田穣さんは戦場カメラマンであることを記述していますが、ここではその部分をプロフィールをはじめとして、もう少し詳しく見ていきましょう。
鴨志田穣のプロフィール
- 名前:鴨志田 穣(かもしだ ゆたか)
- 生年月日:1964年7月2日
- 出身地:神奈川県
- 年齢:享年42歳
- 出身高校:東海大学付属第四高等学校(現:東海大学付属札幌高等学校)
神奈川県の出身ですが北海道の札幌で育ちます。そこから小学校、中学校、高校と長い間を北海道で過ごして大学への進学を諦めたことをきっかけに上京するのです。そこで戦場カメラマンへの夢が大きくなります。
フリージャーナリストでカメラマン、エッセイストとしても活躍した
上京をした後は焼き鳥屋さんでアルバイト生活を行いながら、貯めたお金で念願のカメラを購入します。その後は1人でタイへと向かい、目的もなくアジアを中心として様々な国を旅するのです。
そうするうちにジャーナリストとして活躍していた橋田信介さんとの出会いがきっかけとなり、そのまま弟子入りをします。そこからジャーナリストと戦場カメラマンとしての経験を積んでいくのです。
またフリージャーナリストや戦場カメラマンとして活動していくだけではなく、自分自身が体験したことを本にしてエッセイストとしても活動をしていきます。
2007年に腎臓がんにより42歳の若さで亡くなった
フリージャーナリストと戦場カメラマン、エッセイストと3つの方向で活躍していた鴨志田穣さんですが、2007年の3月20日に肝臓がんにより42歳という若さで亡くなってしまいます。
また、死去した日から約1ヶ月後には一般の方も参加できるお別れ会が行われており、1250人もの方が出席していました。
西原理恵子の元夫でアルコール依存症に苦しめられた半生でも知られている
鴨志田穣さんは西原恵理子さんと結婚をされています。ところが夫婦としての生活に関しては良いとは言えないものでした。
理由に関しては後述しますが、実は鴨志田穣さんはアルコール依存症になってしまうのです。そのアルコール依存症によって長い間苦しめられることになります。
繊細な性格?戦場で子供の笑顔を撮影したり横暴な言動を悔やむ姿も
アルコール依存症ということを述べていますが、そのイメージでかなり豪快で乱暴な性格をしているように思う人はたくさんいるでしょう。実際にアルコール依存症で苦しんでいた時期にはそのようなこともありました。
しかし根っからの性格がそうというわけではありません。戦場カメラマンとして活躍していた時には子供たちの笑顔を中心として撮影し、繊細で心優しい面を見せていたそうです。
鴨志田穣は生前、ブログやSNSをしていた?
鴨志田穣さんがブログやSNSをしているという噂がありますが、本人はブログもSNSも行なっておりませんし、どこでそのような噂が出回ってしまったのかはわかりません。
しかし、一部の人たちが鴨志田穣さんについての活躍をブログを書いているというのは事実です。もしかしたら、それを中心に間違った噂が流れてしまったのかもしれません。
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鴨志田穣がアルコール依存症になったきっかけは生い立ちに?
戦場カメラマンとして活動していた時には子供達の笑顔をカメラに収めていた優しい性格をしていた鴨志田穣さんですが、そのような人がなぜアルコール中毒になってしまったのでしょう。その部分を見ていきます。
鴨志田穣の父親もアルコール依存症だった
実は鴨志田穣さんのお父さんもアルコール依存症だったのです。アルコール依存症って遺伝とは関係あるの?と思うかもしれませんが、体内にある酵素の遺伝によって依存の可能性に大きな影響を与えるのです。
もちろん遺伝のせいで鴨志田穣さんがアルコール依存症になったという言い方はできません。ですがそのような生い立ちが原因となっている可能性はあることになります。
子供の頃に見た戦場の写真に惹かれ、戦場カメラマンを目指すようになる
前述している過酷な生活を送っている中で、まだ幼い頃の鴨志田穣さんの心を動かすものがありました。それが戦地で撮影されている写真だったのです。
一見些細な出来事のように思えますが、この出来事がきっかけとなって戦場カメラマンになるという夢を持つようになっていきます。もしかしたら過酷な生活でなければこの夢を見ることはなかったかもしれません。
戦場の悲惨な光景を目の当たりにした極度のストレスからアル中に
先ほどから子供達の笑顔を中心に撮影をしていたとしていますが、戦場カメラマンとして活動をしているので、いつでも子供達の笑顔をカメラに収めることはできません。
活動している中で銃口を自分に向けられたり、幼い子供や女性の遺体を見たり、銃を持って戦わされている子供たちを見たりと、そのような光景を見ている中で体にストレスがどんどん溜まっていきました。
繊細な性格であることは前述していますが、その部分も災いしてしまったのでしょうか?ストレスによってついに体が限界を迎えてしまい、アルコール依存症となってしまうのです。
鴨志田穣と西原理恵子は離婚していた?出会いのきっかけや子供は?
ここまでで鴨志田穣さんを中心に見ていきましたが、ここからは西原理恵子さんプロフィールをはじめ、鴨志田穣さんとの出会いやその後についてまとめたので見ていきましょう。
西原理恵子のプロフィール
- 名前:西原理恵子(さいはら りえこ)
- 生年月日:1964年11月1日
- 出身地:高知県
- 年齢:54歳(2019年6月時点)
- 出身大学:武蔵野美術大学
武蔵野美術大学を卒業して漫画家として活躍していますが、道のりは決して平坦なものではありませんでした。高校を自身の不祥事によって退学になり、それを不服に思って学校側と争ったりしているのです。
「毎日かあさん」の「アブナイお父さん・鴨ちゃん」は鴨志田穣のこと
毎日新聞で連載されている西原理恵子さんの作品である毎日かあさんの登場キャラクターの中には「鴨ちゃん」や「鴨」と呼ばれている人物が登場するのですが、名前から予想がつくとおりこれは鴨志田穣さんです。
上の画像が毎日かあさんのイラストになるのですが、かなり可愛らしいタッチで描かれています。言うまでもありませんが右上が鴨ちゃんです。かなり特徴を捉えていると言えるでしょう。
1996年に勝谷誠彦の紹介によりタイで出会う
鴨志田穣さんと西原理恵子さんの出会いは1996年のことでした。タイのバンコクで勝谷誠彦さんという方の紹介がきっかけとなります。勝谷誠彦さんはコラムニストとして活動をしていました。
西原理恵子さんと勝谷誠彦さんがアマゾン川の取材の仕事でカメラマンとして鴨志田穣さんが同行することになります。
結婚し息子と娘が1人ずついる
前述したアマゾン川での取材の仕事が終わった後、帰りの飛行機の中で鴨志田穣さんは西原理恵子さんにプロポーズをするのです。
そのプロポーズを受けた西原理恵子さんは実に9年ぶりとなる日本へ帰国した後に鴨志田穣さんと結婚をして、その後は男の子と女の子を1人ずつもうけます。
ちなみに、息子さんと娘さんは一般人なので生年月日などの詳しい情報はありません。
鴨志田穣のアルコール依存症やDV、精神病院への入退院が原因で2003年に離婚
先ほども述べていますが、鴨志田穣さんは戦場カメラマンとして活躍している中でアルコール依存症となってしまったため、物を壊したり暴言を発したり、さらには西原理恵子さんに暴力を振るうようになります。
さらにはそれによって精神病院への入退院を繰り返すようになってしまうのです。そして2003年に離婚をすることになってしまいます。
離婚後も西原理恵子のサポートによりアルコール依存症から回復
離婚という形を迎えてしまいましたが、2人の関係はこれで終わりではありません。離婚後も西原理恵子さんはアルコール依存症に苦しむ鴨志田穣さんに協力し続けているのです。
そしてその努力がついに報われる時がきます。鴨志田穣さんはついにアルコール依存症から回復へと向かうことに成功したのです。
2006年に鴨志田穣が癌を告白、高須克弥の仲介で事実婚として復縁
鴨志田穣さんの著書である「酔いが冷めたら、うちに帰ろう」の中で癌に蝕まれていることを明かします。アルコール依存症は回復の道を辿っていきましたが、体は別の病が潜んでいたのです。
離婚をして別居していましたが、「高須クリニック」の医院長として知られる高須克弥さんの仲介により、入籍はせず、事実婚という形で鴨志田穣さんと西原理恵子さんは復縁をします。
最初は鴨志田穣さんの方から同居を持ちかけたそうなのですが、西原理恵子さんには迷いがあったそうです。そんな中、高須克弥さんが背中を押してくれたことがきっかけとなっています。
2007年に鴨志田穣が死去、遺言により西原理恵子が遺灰を世界の海に流す
復縁という形で鴨志田穣さんと再び闘病生活を過ごしていましたが、2007年の3月20日に肝臓癌によって42歳という若さで亡くなってしまいます。
鴨志田穣さんは無くなる前に西原理恵子さんに対しての感謝の言葉と、自分が幸せであったことを述べていたそうです。癌は止められなかったものの精神的な面ではとても大きな支えになっていたことがわかります。
また鴨志田穣さんは遺言の中で「自分の遺灰を海に流す」という旨が書いていました。その遺言に従って西原理恵子さんが世界各国の海に流していますが、一部の遺灰は鴨志田穣さんのご家族が引き取っています。
2012年以降、西原理恵子と高須克弥は事実婚の関係にある
西原理恵子さんと高須克弥さんは長年友人としての付き合いがあったのですが、2012年からこの2人は事実婚の関係となります。
実は高須克弥さんは長年連れ添った奥さんと死別をしており、お互い同じような立場になった時に籍を入れるのではなくパートナーになる、という形になったのです。
西原理恵子の現在の活動は?
西原理恵子さんは現在でも漫画家としての活動を継続中です。他にも投資家である村上世彰さんや実業家である堀江貴文さんなどの別の職業をしている人たちと対談の場を設けてお客さんを楽しませています。
また2019年6月8日から7月28日まで、高知県にある香美市立美術館にて「人生はおきゃく」という西原理恵子展が開かれ、6月29日に美術館の館長である都築房子さんとのトークショーも行う予定です。
西原理恵子が鴨志田穣を支え続けた理由は?父親に似た男性を選んだ?
暴言や暴力などのDVを受けると、普通の人であれば怖くて近寄れないという人が多いでしょう、しかし西原理恵子さんは違いました。ここからはなぜ鴨志田穣さんを支え続けたのかを見ていきます。
西原理恵子の父親もアルコール依存症だった
西原理恵子さんの実のお父さんもアルコール依存症だったため、小さい頃は母親の元で育てられることになります。
もちろん母親に育てられたからといって、お父さんのアルコールに依存している姿を見ることはないということはないでしょう。そのため小さい頃からアルコールに依存している人を自分の目で見ていたのです。
あくまでも可能性の1つとしてですが、鴨志田穣さんと実のお父さんとが重なってしまい、無意識的に選んでしまったのかもしれません。
母の再婚相手もギャンブル依存症で借金を背負い自殺している
実のお父さんがアルコール依存症などの理由によって、お母さんの方は離婚をしています。その後は再婚相手の当たり外れによって再婚と離婚を繰り返すようになってしまうのです。
また、お母さんの方は実業家として活動していましたが、その裏ではギャンブルに手を染めていました。そのせいで大きな額の借金を背負ってしまい、最後には首を吊って自殺してしまいます。
男勝りな性格で成功をおさめてきた西原理恵子
プロフィールでも少し触れていますが、高校を退学になった時にそれに納得がいかないという理由で学校側と争いを繰り広げたりしているのでかなり、男勝りな性格であることが見て取れます。
また漫画家としてデビュー後も、ギャンブル漫画を描いている時に自らが麻雀やパチンコといったギャンブルにハマってしまい、10年間で5000万円以上は負けたそうです。しかもそれを漫画のネタにしています。
このように男性でも尻込んでしまうような場面であっても自ら進んで実行に移すという男勝りな性格があってこそ次々と成功を収めてきたことが伺えるでしょう。
著書「あなたがいたから」でもどん底でこそ笑い飛ばす強さが描かれている
アルコール依存症だった実のお父さんにギャンブルにどっぷり浸かり借金を抱えたまま自殺したお母さん、さらには夫もアルコール中毒で暴言や暴力をされるといった決してし良い生活とは言えない状況でした。
しかし西原理恵子さんの著書である「あなたがいたから」には、そのようなどん底のような生活であったとしても笑っていたことが明かされており、「どん底でこそ笑え」というように読者に伝えています。