
アナタハン島事件とは?1人の女と32人の男の孤島共同生活?
「アナタハン島事件」は、マリアナ諸島にある孤島で起こった事件です。終戦後、島に取り残された日本人たちが比嘉和子という一人の女性を巡って争いが起こりました。謎も多く残っている事件の詳細をまとめるとともに、事件を題材にした映画なども紹介していきます。
目次
[表示]未解決の謎が残るアナタハン島事件とは?その真相は?
アナタハン島事件は1945年から1951年にかけて起こりました。終戦後、島に取り残された日本人が6年間もの共同生活を続けていました。
しかし、この共同生活は決して平和なものではなく、過酷な環境で1人の女性を巡って争いが起こりました。明らかな殺人事件だけでなく、不審な事故死や行方不明などが立て続けに発生しています。
アナタハン島事件は太平洋の孤島で起こった謎の多い死亡事件
アナタハン島は太平洋のマリアナ諸島にある島の一つです。当時、島民のほとんどは島を脱出しており、日本人の32人の男性と1人の女性だけが共同生活を送っていました。
この32人の男性たちは次々と死亡・行方不明となり、最後まで生き残って日本に帰還したできた男性は19人だけだったそうです。
「アナタハンの女王事件」などの別名でも呼ばれている
事件の中心となったのは比嘉和子という一人の女性。数々の事件が彼女を巡って起こったという経緯もあり、「アナタハンの女王事件」という別名でも呼ばれています。
事件の発覚後、比嘉和子は「色仕掛けで男性をたぶらかし、死に追いやった悪女」として中傷されました。女性がたった一人だった状況を踏まえて「女王蜂」に例えられることも多かったようです。
島に置き去りにされた32人の兵隊らが1人の女性を巡って争った
島では、兵士や臨時徴用された船員31名と、現地で働いていた1人、計32名の男性と、たった一人の女性である比嘉和子が共同生活を送っていました。
この和子を巡って男性たちの間で諍いが起こり、殺人事件にまで発展しました。また、行方不明になったり、不審な死を遂げた人物もおり、いまだに多くの謎が残されています。
のちに「アナタハンブーム」が起こり映画化もされた
この事件は発覚後、日本中で大きな話題となり、事件を題材にした映画作品も制作されました。
中心となった比嘉和子も注目され、彼女のブロマイドが発売されると芸能人並みに売れたそうです。
アナタハン島事件の詳細は?〜争いが起きるまで〜
極限の状況下だったとはいえ、多くの死者・行方不明者が出る痛ましい結果となった事件。なぜこのような事件が起こったのでしょうか。まずは33人の日本人が共同生活に至った経緯を見ていきましょう。
アナタハン島はサイパン島から約117㎞北方に位置している
アナタハン島は、サイパン島やグアム島と同じ、マリアナ諸島にある島の一つです。東西に長い形で、面積は31.21㎢の小さな島です。第一次世界大戦後、日本が委任統治していました。
第二次大戦末期には連合国の勢力が迫り、多くの島民が島を離れていました。しかし日本人は島に取り残され、その6年間の間に事件が起こりました。
生き残った日本人たちが島を出た後は、もともと住んでいた島民たちが戻りました。しかし、現在では火山活動の影響で、島民たちは避難生活を余儀なくされ、アナタハン島は無人島になっています。
たった1人の女性は比嘉和子、夫と暮らしていた
事件の中心となった比嘉和子は、南洋興発という会社に勤める夫と暮らしていました。南洋興発は、製糖を中心にマリアナ諸島で幅広い事業展開をしていた大企業で、アナタハン島ではヤシ林の経営が行われていました。
南洋興発の規模は満州鉄道と並ぶもので、「海の満鉄」「北の満鉄、南の南興」と称されるほどでした。日本海軍とも密接な関係にあったようです。
アナタハン島にいた日本人は比嘉夫婦と、もう一人の南洋興発の社員(夫の上司)の三人のみ。100人に満たない現地人の多くは、南洋興発の従業員として働いていたようです。
サイパンの攻撃で夫の消息が途絶え、残った夫の上司と夫婦生活を始める
戦争末期、比嘉和子の夫は、他の島に住んでいた妹を迎えに行くと言って島を出たきり、消息が途絶えてしまいました。夫が出掛けた数日後にはアナタハン島も空襲を受け、大きな被害が出ました。
命は助かったものの、この爆撃の影響で和子は妊娠していた子供を流産してしまったそうです。
家も全焼し、残された和子は夫の上司である男性と協力して生き延びるしかありません。上司の男性もサイパンに妻子がいたようですが、困難な状況の中、和子と夫婦同然の生活をすることになりました。
米軍に攻撃されたカツオ漁船の数隻の乗組員がアナタハン島に着く
1944年6月中旬、日本のカツオ漁船数隻が米軍の攻撃を受けて沈没しました。生き残った乗組員たちは、沈没を免れた船でアナタハン島に漂着します。中には泳いで島まで辿り着いた人もいたそうです。
島に辿り着いた船も、再びの空襲を受けて燃えてしまいました。こうして31人の日本人男性が新たにアナタハン島での生活を始めることになります。
比嘉和子と夫の上司、31人の男たちは共同生活を始める
島に流れ着いた男性のうち、10人は兵士、21人は臨時徴用された船員だったそうです。多くは20歳前後の若者で、最年少は16歳だったそうです。
空襲がなくなった頃からは、果物の栽培や海の魚を獲るなどして食料を確保することができました。ヤシの木から酒を作ることもできたそうです。
1945年8月に戦争が終わり、米軍は何度も彼らに終戦を知らせた
1945年8月に日本は降伏し、戦争は終結しました。しかし、島に取り残されていた日本人たちはそれを知る術がありませんでした。
米軍は拡声器で呼びかけを行ったり、飛行機からビラを撒いたりして終戦を知らせようとしました。しかし、当時はアメリカに捕まれば殺されると誰もが信じていました。
そのため、終戦の知らせを信じる者はおらず、撒かれたビラを拾う人もいなかったそうです。
原住民は連れていかれたが、島を離れない日本人はやがて忘れられた
やがて、現地の住民たちは米軍に連れられて島を離れることになりました。呼びかけに応じない日本人たちだけが島に残ります。
戦後処理に追われる米軍は、いつまでも彼らに構っているわけにはいきません。やがて33人の日本人は忘れられ、取り残されていくのでした。
アナタハン島事件の詳細は?〜不審な事件から殺人がはじまる〜
小さな島で共同生活を送る33人の日本人。しかし、たった1人の女性を巡って争いが起こり始めます。殺人を含む一連の事件を、順を追って見ていきましょう。