大川橋蔵(二代目)とは?銭形平次がギネス?死因や妻・息子について エンタメ

大川橋蔵(二代目)とは?銭形平次がギネス?死因や妻・息子について

二代目大川橋蔵は、歌舞伎界を飛び出し映画やドラマ、舞台などで活躍しました。特にテレビドラマ「銭形平次」は大ヒットを記録し、ギネスブックに載るほどの人気長寿番組となりました。それを18年間やり通した大川橋蔵の家族や、生涯の軌跡をご紹介いたします。

目次

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大川橋蔵(二代目)とは?歌舞伎役者から映画俳優に転身?

大川橋蔵は、現在の東京都台東区にあたる「花街」と呼ばれた柳橋の芸妓の子として生まれました。生まれて間もなくすると母の手を離れ小野家の養子となります。

養父は歌舞伎役者である市川瀧之丞という人で、幼少期から端正な顔立ちであった富成(大川橋蔵の本名)を役者にしよう思い、知人である四代目市川男女蔵(三代目左團次)に預けました。

四代目市川男女蔵に入門し部屋子にとなった富成は、役者として必要なことを仕込まれ「市川男女丸」として初舞台を踏みます。そのとき舞台を務めていた六代目尾上菊五郎に素質を見出されます。

初舞台は1935年11月で、時を経た1944年10月には、六代目尾上菊五郎の妻・寺島千代の養子となり、その母型の実家である「丹羽」姓を継ぐと同時に、二代目大川橋蔵を襲名します。

「大川橋蔵」は、三代目尾上菊五郎が名乗った名跡であり、大川橋蔵の襲名は99年ぶりのことでした。「菊五郎」の継承者候補として橋蔵の名前も挙がりましたが、それはかないませんでした。

大川橋蔵を襲名したのは17歳の時で、音羽屋で「尾上」姓を名乗っていないのは橋蔵だけでした。菊五郎には3人の実子がいましたが、橋蔵は菊五郎が他界するまで一つ屋根の下で暮らす事をのぞみました。

大川橋蔵のプロフィール!身長は?【画像アリ】

「二代目 大川橋蔵」は、1956年(昭和31年)に襲名しています。

  • 本名:丹羽 富成(旧姓:小野)
  • 舞踊名:藤間勘之丞
  • 生年月日:1929年4月9日
  • 没年月日:1984年12月7日(55歳没)
  • 出生地:日本・東京市(現在の東京都)
  • 国籍:日本
  • 職業:歌舞伎役者俳優
  • ジャンル:テレビドラマ、映画、舞台
  • 活動内容:1935年 – 1984年
  • 配偶者:沢村真理子
  • 養父:六代目尾上菊五郎

二度の養子縁組があり、幼名から大川橋蔵の襲名までと、たくさんの名を持つのは歌舞伎役者としての運命かもしれませんが、この「大川橋蔵」の名前が彼を更に大きくすることになります。

大川橋蔵と中村勘三郎は遠縁の関係?

「18代目中村勘三郎」の母「久枝」は六代目尾上菊五郎の娘であり、「大川橋蔵」は血縁はありませんが姉弟の関係になります。ですから、「18代目中村勘三郎」から見ると「大川橋蔵」は叔父になります。

「久枝」は六代目尾上菊五郎の愛人との間の子供であり、戸籍上は正妻の子になっていますが、「大川橋蔵」の養母でもある「寺島千代」の実子です。

「大川橋蔵」は、六代目尾上菊五郎の養子ですから、「18代目中村勘三郎」とは、複雑な関係の「叔父」ということです。追記ですが「寺島千代」は、正妻が死んだあとは未入籍の妻とされました。

1949年六代目尾上菊五郎が死去「菊五郎劇団」に所属

大川橋蔵を襲名した位から養父である「六代目尾上菊五郎」は舞台中に眼底出血で倒れ、様態が回復せずに1949年に他界しました。

六代目尾上菊五郎氏が亡くなるとすぐに、「菊五郎劇団」が立ち上げられ、大川も、「菊五郎劇団」に所属し、娘役を中心に活躍し始めます。

菊五郎劇団の女形は、最初に七代目尾上梅幸、次に七代目中村福助が控え、橋蔵はその後の3番目の地位に座することになります。

「菊五郎劇団」に所属するも将来に不安を覚える

「菊五郎劇団」に所属して活躍する大川橋蔵ですが、偉大な「六代目尾上菊五郎」という後ろ盾をなくしたことや、戦後の新しい時代の中での歌舞伎界にも不安を感じ、進むべき道を模索し始めます。

八代目市川雷蔵に映画界へ入るように勧められる

そんな折に、大川橋蔵は元歌舞伎役者の八代目市川雷蔵から、映画界入りを強く勧められます。雷蔵は一足先に映画界でデビューしており、境遇が似ていた橋蔵を強く誘ったといいます。

歌舞伎界では、東映入りした中村錦之助の問題などもあり、保守的な梨園の内部事情を知っていただけに、大川橋蔵も次第に映画界に心が傾いていきました。

1955年マキノ光雄にスカウトされて東映に入社

大川橋蔵は、日本映画の父といわれた牧野省三の二男で、当時東映映画の前線にいた「マキノ光雄」の誘いで東映に入社します。

「マキノ光雄」は、一度はワンマンとしてはじかれますが、復帰後はヒット作を連発して東映の専務にまで登り詰めます。

しかし、1957年に脳腫瘍に病み48歳で早逝しました。大川橋蔵をスカウトした2年後のことです。

同年「笛吹若武者」にて映画デビュー、美空ひばりと共演

大川橋蔵は、1955年「笛吹若武者」で映画デビューし、美空ひばりと共演します。その後の「旗本退屈男」でも美空ひばりと共演しています。

デビュー作「笛吹若武者」の時に、美空ひばりから「トミー」というニックネームをつけられます。今でもこの愛称で呼ぶファンがたくさん残っています。

この時はまだ歌舞伎界に籍を置いたままだった大川橋蔵は、2作目の「旗本退屈男」を撮り終えたあとで、東映に正式に入社して、歌舞伎界から身を引くことになります。

1956年「若さま侍捕物帖」で主演を務め映画スターへ

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映画俳優へ転身した翌年の1956年には「若さま侍捕物帖」で主演に抜擢され、たちまち人気を集めた大川橋蔵は、一躍人気映画スターとなりまり、次々とヒット作に出演することになります。

歌舞伎界から身を引いた大川橋蔵ですが、歌舞伎という芸は崇拝しており、「恋や恋なすな恋」の主演であった大川橋蔵は、自ら文芸大作映画を企画して、内田吐夢監督が手掛けたといわれます。

大川橋蔵は、昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となり、東千代之介や中村錦之助、市川雷蔵と共に「二スケ二ゾウ」とも呼ばれ、押しも押されぬ時代劇の大スターとなりました。

1960年頃東映はヤクザ映画に路線変更

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1960年代になると、東映はヤクザ映画に路線を変えたり、第二東映や新東映を設立して分社や吸収を繰り返し、落ち着かない時代を迎えることになります。

大川橋蔵はテレビドラマや舞台をメインに活躍するようになる

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東映が「東映ニューフェイス」から新人スターを引っ提げて路線転換を図ってくるのを見ると、大川橋蔵は舞台やテレビに活動の場を移す事になります。昭和30年代後半からのことです。

1966年ドラマ「銭形平次」で主役を18年演じる

1966年5月からフジテレビ系列で放映された連続テレビ時代劇「銭形平次」で、大川橋蔵は主人公の銭形平次役に抜擢されました。ここに至るまでには複雑な経緯があります。

この頃、映画会社はテレビの浸透による映画観客動員の目減りを押さえるのに必死で、テレビには所属の俳優を貸さない意向を強めており、東映は最初断ったそうです。

しかし、巡り巡って「銭形平次」は大川橋蔵が演じる事となり、1984年の最終回までの18年間、一人で主演『銭形平次』をつとめました。

美空ひばりに関する記事はこちら

大川橋蔵(二代目)の死因は?

「銭形平次」も終盤にさしかかった1983年頃から大川橋蔵は体調がすぐれなくなり、『銭形平次』の収録が終わって入院しますが、1984年4月に帰らぬ人となりました。

1967年から歌舞伎座などで講演も行っていた

歌舞伎からは遠ざかっていた大川橋蔵ですが、自分を育てた「歌舞伎」を嫌いになったわけではありません。1967年から毎年12月には歌舞伎座で「大川橋蔵公演」を行い、南座でも定期的に公演をしています。

1983年9月頃には体調を崩し入退院を繰り返す

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1983年9月頃から体調を崩していた大川橋蔵は、「銭形平次」の終盤は、入退院を繰り返しながらの収録で、かなりまいっていたようです。

1974年の明治座公演のパンフレットに、胃に小さなの腫瘍が認められ薬を飲んでいる事がに書かれています。

かつ丼ばかり食べていた?偏食が原因?

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「銭形平次」の大川橋蔵は、カツ丼ばかりを食べていたと聞きます。どの程度の影響があるかはわかりませんが、偏った食事は体調不良を引き起こします。

大川橋蔵は、結腸がんがもとで亡くなっています。欧米化した食生活により、日本人の腸がんは増加しているという事です。

ドラマ終了後の1984年11月入院

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銭形平次の収録あとの5月から放送された現代劇『蝶々さんと息子たち』に踊りの家元役で出演し、この撮影中に倒れて入院することになります。これがお茶の間で見る大川橋蔵の最後の姿になりました。

1984年11月25日に入院したのが最後となり、もう退院することはありませんでした。

結腸がんが肝臓に転移していることが明らかになる

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11月に入院した時には、既に結腸癌が肝臓に転移していて末期の状態であることがわかり、家族にも説明がされました。

病気を伏せていたものの本人は知っていた?

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本人には病名は伏せていたものの、大川橋蔵は「おれは自分の病気を知ってるんだ」と言い、医師に対しても行き場のない憤りをぶつけたといいます。

「酒も煙草もやらず、健康にも気遣いしてきた自分の顛末が悔しい」と訴えたと言います。

霊感があった?自分の死を悟っていた?

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東映の長沼賢一社長の話では、大川橋蔵は前から霊感が強かったようだと言っています。本人は亡くなる3日前に「俺の命はあと3日だ」言って、本当に3日後に他界しています。

昭和59年12月7日午前1時の事です。「二代目大川橋蔵」は、55年という短い人生を終えました。

亡骸(なきがら)には十手と投げ銭が添えられたそうです。

1984年12月7日享年55歳で死去、死因はがん?

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結腸がんから転移した肝臓がんのため死去したとされています。直接の死因は「肝臓がん」ですが、原因は転移する前に発見された「結腸がん」によるものです。

ドラマ「銭形平次」とは?撮影秘話は?

大川橋蔵の当たり役であり代表作でもある「銭形平次」というドラマと、舞台の裏側をご紹介します。

江戸三大捕物帳と呼ばれ親しまれた長寿番組?

『銭形平次』は、「半七捕物帳」(岡本綺堂)、「右門捕物帖」(佐々木味津三)と共に『江戸三大捕物帳』と言われた野村胡堂の原作の『銭形平次捕物控』を脚色した時代劇です。

映画で名をとどろかせた「大川橋蔵」が、お茶の間のテレビで見れるということで、テレビが普及した時代を背景に爆発的なヒットとなりました。そして18年に及ぶ長寿番組にもなります。

これをきっかけに、映画スターのテレビ出演が増えていき、大川橋蔵が所属していた「東映」のテレビ事業全体が、日本のテレビ映画制作全体の約40%に及んだとも言われています。

888話の主役を1人で演じた

1966年5月から始まり、1984年4月4日に幕を閉じた『銭形平次』は、、18年間で全888回を数え、人気時代劇シリーズに終止符をうちました。

この18年間のドラマで、大川橋蔵は主役の『銭形平次』を一人で演じており、「1人の俳優が同じ主人公を演じた1時間ドラマ」としては世界最高記録とされています。

ギネスブックにも記録されている

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この18年間で888回を「1人の俳優が同じ主人公を演じた1時間ドラマ」という世界記録は、ギネスブックでは『テレビの1時間番組世界最長出演』という事で認定されています。

ドラマもヒットしたが舟木一夫の主題歌もヒット?ブログで語られる

ドラマもヒットしましたが、舟木一夫の主題歌も大ヒットをしました。

男だったら 一つにかける かけてもつれた 謎を解く
誰が呼んだか 誰が呼んだか 銭形平次
花のお江戸は八百八丁 今日もきめての 今日もきめての 銭が飛ぶ

(引用:blog.goo )

覚えている人も多いでしょうが、思わず口ずさんでしまう忘れられない歌です。

監督はほぼ休みがなかったと証言

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「銭形平次」の監修と監督とつとめた佐々木康氏は、大川は18年のあいだ平均5日に1本という重労働をこなし、年に3回は東京と大坂で舞台公演も継続しており、殆ど休みがない状態だったと語っています。

撮影の合間に睡眠をとっていた

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休みの取れない大川は、撮影の合間にセットの片隅で椅子に腰かけまま眠る事も多かったそうですが、出番になるとすぐに起き上がり長いセリフの芝居をやってのけたそうです。

「銭形平次」のOP・ED

「銭形平次」のオープニングで映し出されていた「寛永通宝」の巨大砂絵は、香川県観音寺市有明町の琴弾公園にあります。

近くからでも外観がうかがえますが、展望台があるので上からの眺めの方が絶景のようです。

「銭形平次」のDVDも発売されている

記念碑的な作品BUMIPUTRA / Pixabay

大川橋蔵の記念碑的な作品である『銭形平次』がDVDとなり、所属していた「東映株式会」より販売されています。

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