三河島事故とは?現場や事故の経緯は?謎の遺体や心霊現象も? 社会

三河島事故とは?現場や事故の経緯は?謎の遺体や心霊現象も?

皆さんは1962(昭和37)年に起きた列車の多重衝突事故「三河島事故」はご存知でしょうか?当時、多数の犠牲者を出し、身元不明となった遺体も出るなどの大惨事となりました。現場には現在慰霊碑が祭られていますが、幽霊を見たと噂され、心霊スポットとしても有名です。

目次

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三河島事故とは?国鉄戦後五大事故の1つ?

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三河島事故とは、1962(昭和37)年5月3日PM21:37頃に東京都荒川区の日本国有鉄道(国鉄)の常盤線三河島駅構内で発生した列車脱線、及び別路線の列車の多重衝突に繋がった大事故の事です。

これは1949年(昭和24)年6月1日に発足し、1998年(平成10)年10月22日に解散した日本国有鉄道(国鉄)が戦後に起こした「国鉄戦後五大事故」の一つに数えられています。

三河島事故の概要は?列車が脱線して、多重に衝突

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田端操作場発水戸行きの蒸気機関車D51が牽引する45両編成の貨物列車が、三河島駅構内で信号の見間違いをして進行。赤信号に気付いて急ブレーキをかけたが、先頭車両と二両目が下り線を阻む形で脱線しました。

その約10秒、三河島駅を4分遅れで発車した上野駅発取手駅行きの6両編成下り列車が、脱線した貨物列車に衝突。衝突した下り列車の先頭車両と二両目が、上り本線上に脱線した。この時点で負傷者25名程でした。

下り列車の1、2両目の脱線によりパンタグラフが架線から外れ、車両内は停電していました。1951(昭和26)年に起きた桜木町事故を教訓として設置されていた非常ドアコックを乗客が操作し、外に避難しました。

三河島事故は1962年に起きた鉄道史上に残る悲惨な事故

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その頃、上り線では取手駅発上野駅行きの9両編成列車が南千住駅を2分遅れで発車しようとしていました。脱線衝突事故が起こった為、三河島駅の信号扱所→南千住駅の信号扱所へ連絡が入り急いで信号を赤にしました。

しかし、間一髪間に合わず、上り線の列車は発車してしまいます。走行を始めて事故現場に近づいた際に支障に気付き、急ブレーキをかけましたが、間に合わずに先の事故から7分後に事故現場へそのまま侵入。

上り線路上を歩いて避難していた人々を撥ね飛ばしながら、下り列車の先頭車両に衝突しました。下り列車の1、2両目と上り列車の先頭車両は原型をとどめない程粉砕し、上り列車の2、3両目は築堤下に転落しました。

三河島事故は「国鉄戦後五大事故」の1つとして有名

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そもそもの原因は、貨物列車の機関士と機関助士が信号を誤認した事、下り列車の車掌、三河島駅の助役、三河島駅の信号扱所係員が下り線だけを止め、上り線を止めなかったという不幸な過失が重なる事故となった。

又、三河島駅に避難しようとする乗客へ、線路上を歩かないように注意喚起する事をしなかったのは下り列車の車掌の大きなミスで、結果的に死者・160人、負傷者・296人にのぼる大事故へと繋がってしまった。

これは日本国有鉄道(国鉄)が戦後起こした「国鉄戦後五大事故」の一つとなりました。他の4件については「桜木町事故」「洞爺丸事故」「紫雲丸事故」「鶴見事故」が挙げられています。

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【動画・画像あり】三河島事故の経緯と詳細

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国鉄戦後五大事故の一つ「三河島事故」がどうして起こってしまったのか、何故こんなにも被害が出てしまう大事故に繋がったのか、順を追って詳しく見て行きたいと思います。

三河島事故の事故現場は東京都荒川区?国鉄三河島駅構内で起きた

三河島事故の現場となるのは、1962(昭和37)年5月3日午後21時37分頃にこの大惨事となる事故は発生しました。その悲劇の始まりは、東京都荒川区にある常盤線の三河島駅付近の線路上で起こりました。

停止信号を見落として貨物列車が脱線

田端操作場発水戸行きの蒸気機関車D51が牽引する45両編成の貨物列車が、三河島駅構内で黄信号であるにも関わらず線路内に進入するという些細なミスを犯し、赤信号になっても止まらずに通過してしまいます。

すぐに赤信号だと気づき、急ブレーキを慌ててかけますが間に合わず、そのまま安全側線(あんぜんそくせん:過走などにより他の列車と衝突を避ける為に意図的に脱線・停止する為に作られた短い側線)に進入しました。

そのまま脱線し、先頭車両(蒸気機関車D51)と2両目のタンク車両が、下り本線上に傾き、飛び出す形となり下り線の走行に支障をきたす状態で停車しました。(第1の要因)

脱線車両に衝突して、隣の線路を走る下り第2117H電車も脱線

第2の要因となる、上野駅発取手駅行きの6両編成の下り列車(第2117H電車)が、貨物列車が脱線をした約10秒後に定刻より4分遅れで三河島駅を発車しました。

下り線の第2117H電車は約40㎞/hで走行後、下り本線に飛び出した貨物列車(蒸気機関車D51)に激突。下り電車第2117Hの先頭車両と2両目が上り本線上に飛び出す形で脱線しました。(第2の要因)

この時、貨物列車の機関士は一瞬失神してしまいますが、すぐに気づき三河島駅へ事故発生を知らせる為に向かっています。この時点で死者は出ておらず、25名が怪我を負っただけだと言われています。

乗客が次々と外へ出て、移動し始める

下り列車(第2117H)の先頭車両と2両目が脱線した為、真上に張られた架線(給電用の電線)からパンタグラフ(車両に電気を取り入れる為の装置)が外れてしまい列車内は停電していたそうです。

1951(昭和26)年に起きた桜木町事故(横浜市の桜木町駅構内で発生した列車火災事故)を教訓とし非常ドアコック(緊急時に車外・車内から手動でドアの開閉を操作できる装置)の設置が義務付けられていました。

下り電車の車掌は乗客に対し「三河島駅方向に避難して下さい」という指示を出し、乗客が非常ドアコックを操作して続々と車外へ避難し、上り線の線路内を三河島駅に向かって歩き始めていました。

上り第2000H電車が進入、乗客をはねて、2117Hの先頭車両に衝突

下り列車(第2117H)の車掌は6両目に乗車しており、事故発生の為、運転士と車内電話で連絡を取ろうとしましたが、応答がなく車外に出て連絡と取ろうとしていました。

事故現場付近の三河島駅信号扱所職員は、事故発生連絡を受けて下り本線の信号を赤へ切り替え、それから三河島駅の助役に事故発生の連絡、三河島駅の助役はその報告を受けて常盤線の運転指令に事故発生を通知。

その上で助役は、関係箇所に事故発生の連絡をし、下り線の後続列車の運行を停止させています。しかし、この時点で支障の確認がされていなかった上り線へは事故発生連絡のみで運行を停止しなかったそうです。

大きな要因となる第3の事故が発生

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この日の運行ダイヤは早朝に発生した東北地方の地震、及び東北本線古河駅で発生した脱線事故の影響で、夜になってもダイヤの乱れに影響していたようです。

その頃、上り線の取手駅発上野行きの9両編成の列車(第2000H電車)は地震の影響で、定刻より2分遅れで南千住駅を発車しようとしていました。

同じ頃、三河島駅信号扱所から事故発生の連絡を受けた、南千住駅信号扱所では発車信号を赤に切り替えようとしていましたが、既に上り線電車2000Hは南千住駅信号扱所を通過しており、間に合いませんでした。

大惨事へと発展

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上り電車(第2000H)の運転士は、事故発生に全く気付かず走行を続け、事故現場付近に近づいた辺りでようやく線路上を歩く乗客に気付き、咄嗟に非常ブレーキ掛けるも間に合わず、次々を乗客を撥ね飛ばしました。

そのまま上り電車(第2000H)は、脱線している下り電車(第2117H)の先頭車両に激突しました。最初の貨物列車脱線から7分後の出来事だったようです。

2117Hの1・2両目は粉砕、2000Hの車両も脱線・転落

下り電車(第2117H)の先頭車両と2両目、上り電車(第2000H)の先頭車両は原型を留めない程に粉砕、上り電車(第2000H)の2両目・3両目は築堤下(平地に盛土をして高くしている鉄道区間)に転落。

転落した2両目は線路脇の倉庫に突っ込み、4両目は脱線してしまいました。線路を歩く乗客が何故迫る列車を避けられなかったのかは、現場暗の線路は暗闇の上に狭く、盛土が高く積まれて避けようがなかったようです。

死者数160人、負傷者数296人の大事故に

この事故による死者は160名、負傷者296名となる大惨事となりました。線路を歩いていて跳ねられた下り電車(第2117H)の乗客、上り電車(第2000H)の乗客、及び運転士が犠牲者となりました。

中には脱線した上り電車(第2000H)の車内から外に出ようとして、高架下に転落してしまった犠牲者もいたようです。

新聞でも大々的に報道された

当時の各新聞紙面でも大々的に報道され、この大事故の様子や惨状、事故の詳細などが世に知れ渡りました。

事故の様子を伝えるニュース

テレビのニュースでも、事故の惨状や遺された遺族の姿、事故直後の混乱した様子が生々しく伝えられました。この当時で、戦後2番目に大きな事故として伝えられています。

泣き崩れる家族や友人、突然の悲しみに成す術もなく現実を受け入れざるを得ない状況が切々と伝わってきます。

三河島事故の現場の様子は?阿鼻叫喚の地獄絵図

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事故当時を知る人の証言によれば、事故直後の現場の様子は、得も言われぬ阿鼻叫喚の地獄絵図のようだったと言われいます。辺り一面、犠牲となった人々の血で染まり、まるで血の海のようになっていたそうです。

被害者の中には切断してしまった手足を必死にくっつけようとして、もがいている人もいたと伝えられています。上り線(第2000H)の先頭車両は粉砕とありますが、現場写真を見ると鉄屑になり果てていたようです。

三河島事故当時の写真・画像はある?

1962(昭和37)年当時の写真が、ネット上に残されています。カラーではない白黒な画像が当時の時代背景を物語っているようです。スマートフォンやPCさえもない時代の貴重な資料とも言えるでしょう。

三河島事故の発生状況は?地震でダイヤが乱れていた?

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ここからは三河島事故が発生した状況を、詳しく掘り下げて見て行きたいと思います。

大惨事!三河島事故の発生状況①:東北地方の地震でダイヤが乱れていた

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三河島事故が起きた同年、1962(昭和37)年4月30日午前11時26分頃、宮城県北部を震源とするマグニチュード6.5、最大深度4を記録する地震が発生し、余震となる揺れは5月いっぱい続きました。

岩手県、宮城県、山形県、福島県を中心に、東北地方から関東甲信越地方に至るまで揺れを感じたそうです。死者3名、負傷者276名、損壊家屋27,000棟にも及び、水道など、ライフラインに大打撃を与えました。

三河島事故当日も早朝に余震が起こり、運行ダイヤが乱れていた事が伝えられています。

大惨事!三河島事故の発生状況②:2117Hは非常用ドアコックを整備していた

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三河島事故が起こる前の1951(昭和26)年4月24日午後13時45分頃に、神奈川県横浜市の国鉄、東海道本線支線桜木町駅構内において列車の屋根が燃え上がるという列車火災事故が起きています。

碍子(電線と支持物との間にある絶縁体)交換工事の作業中に誤って架線が垂れ下がり、タイミング悪く駅構内に走行してきた5両編成の電車(第1271B)のパンタグラフに絡みつき車両の木製屋根が炎上しました。

結果的に先頭車が全焼、2両目が半焼し、焼死者106名、重軽傷者92名を出す大惨事へと発展してしまいました。この原因としての一つ目は、当時の車両窓は3段構造で中断を固定し、窓からの脱出が困難だった事。

非常用ドアコック設置が義務化された

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原因の二つ目としては、当時の車両が戦時中の粗末な構造で、駅員も非常用ドアの位置を知らなかった為に、外から手動で扉を開けて避難させる事が出来ずに、焼かれていく乗客を見守るしか出来なかったそうです。

この桜木町事故を教訓とし、その後車両全てに非常用ドアを常設する事と、乗客にも位置が分かりやすいように非常用ドアの位置を明確にするような工夫が徹底して行われていました。

今回の三河島事故では、この桜木町事故の教訓が活かされ、乗客の手で非常用ドアが開けられ外へと非難する事に成功しています。しかし、皮肉な事にこの外への避難により犠牲者が増える結果となりました。

大惨事!三河島事故の発生状況③:運転士は事故発生を知らなかった

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前述した通り、第3の要因となる上り線電車(第2000H)の運転士は走行する先で起きている乗突事故の事実を知りませんでした。貨物列車の機関士は三河島駅に直接向かいましたが間に合いませんでした。

最初の衝突から約6分間に渡り、両列車の乗務員・三河島駅職員は、上り線に対して運航停止をするように行動しなかった事が後の証言などから明らかになりました。これが大きな被害へと繋がったとされています。

大惨事!三河島事故の発生状況④:夜で、視界が悪かった

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事故発生時刻は、夜の21時37分で辺りは暗闇に包まれいました。三河島駅から事故現場は数百メートルも離れており、駅員が目視出来ない状況でした。

三河島駅信号扱所の職員は、事故現場に一番近い場所にいたものの、当日は新月で月明りはほぼ皆無であり、直接現場まで向かって確認するしか手段がなかった事が原因で、報告の遅れを招いています。

暗闇である上、最初の脱線を起こした貨物列車の機関士からの視界は、右カーブの上り勾配という事もあり非常に悪かったと言われています。

大惨事!三河島事故の発生状況⑤:事故現場は狭く、逃げ場がなかった

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事故現場となった場所は、平地から盛土を高くして線路を引いている状況にあり、線路上を歩いていた人たちは線路以外の逃げ場はなかった事が窺えます。鉄道以外が通る事は想定されておらず非常に狭い作りです。

逃げる為には、その高い場所から飛び降りるより方法がなく、その高さも容易に飛び降りれるようなものではありませんでした。その為、線路上の乗客にはその場にいる以外に選択肢はありませんでした。

三河島事故はなぜ起きた?

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ここからは三河島事故が何故、起きてしまったのかという所に焦点を置いて、詳しい原因を追っていきたいと思います。

三河島事故の原因は、貨物列車の信号無視?

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一つには、貨物列車の機関士による信号の見間違いが原因とされています。事故後の調査や生き残った機関士自身の証言から推測されるものとして、仮現運動という錯覚によって引き起こされたとも言われています。

また貨物列車は右カーブを曲がりながら勾配を昇っていた事もあり、信号が視界には入ってはいたが、大量の貨物を牽引している状況で、勾配の途中停止は避けたかった、又は躊躇してしまったという説もあります。

45両編成の貨物列車は、相当な重さの貨物を牽引していた状況であり、途中で止まってしまえば再度発車するのにとても困難を伴ってしまうというリスクを回避したかったのではないか、とするものです。

最大の原因は、上り列車を停止しなかったこと?

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貨物列車が脱線し、下り電車(第2117H)が衝突するまでには約10秒程度しかなく、この衝突を回避する事は不可能であると言われています。また、この時点での死者は0名、負傷者が25名だったそうです。

この後、被害拡大の大きな要因と言われている上り電車(第2000H)の停車指示をしなかった問題が、その後の調査でも大きく取り上げられています。

上り電車(第2000H)と衝突するまでの約6分間で両列車の乗務員、三河島駅職員、信号扱所の職員が其々、上り線の停車へと行動をしていれば、最悪の事態は避けられた可能性が高いと言われています。

乗客の行動にも問題が?車掌のミス?

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当時、国鉄職員に対してこういった重大な事故発生を想定した教育がまだ不十分であった事も理由とされています。

先に起きた桜木町事故により、教訓とされた非常ドアコックによる外への避難が今回の三河島事故では裏目に出てしまったという皮肉な結果を招いてしまいました。

これは桜木町事故や三河島事故で学ぶべきものは、その時に起こった状況をしっかりと判断する「臨機応変」さが、マニュアル化を徹底する以前に重要なのではないか?という問題提起だと指摘する意見も出ています。

土浦列車事故の教訓が生かされていなかった?

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戦時中、1943(昭和18)年10月26日午後18時40分頃に起きた土浦事故という列車衝突事故があります。これは中央の大手新聞に一段の記事が載った程度で報道はされましたが、あまり知られていません。

常盤線土浦駅で一台の貨物列車が入れ替え作業をしていました。車両に石炭を積み、石炭の保管場所に運ぶ為に、まず機関車だけを12号ポイント→13号ポイント→上り本線へと走らせました。

次に別の機関車が石炭を積んだ車両と連結し、同じ12号ポイントから今度は貨物線と呼ばれるルートに直接入る予定でした。しかしこの時、先に走行した機関車のルートの切替がされていなかったのです。

ポイントの切替ミスで第一の事故が発生

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次に走行する機関車は、12号ポイント→貨物線というルートを通るはずが切替がされておらず、先に走行した機関車の12号ポイント→13号ポイントのままだという事に気付かないまま、走行を開始してしまいます。

そして貨物線ではなく、13号ポイントに進入した機関車は、その先の上り本線のポイントが切替られていた為、通行止めとなっている線路上に突っ込む形になり、中途半端に上り本線にはみ出す形で立往生となりました。

事故発生で機関士は汽笛を鳴らして知らせました。ここまでは大した被害が出ていなかったのですが、この脱線事故の約3分30秒後にフルスピードで走行してきた別の貨物列車が、脱線した機関車に衝突しました。

衝突から予測しなかった大惨事へと発展

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衝突した14両編成の貨物列車は脱線し、車両がバラバラになって上り線・下り線を共に塞ぎました。そしてこの大衝突から約2分20秒後、今度は下り線から旅客列車が走行してきて立ち塞がる車両と衝突しました。

しかも旅客列車が衝突したのが、橋の出口付近であった事が災いとなり、1両目は後続の車両に押されて棒立ちになり、2両目は横転、3両目と4両目は橋から転落、3両目は宙づりに4両目は川に水没してしまった。

詳しい記録は戦時中の混乱期という事もあり、ほとんど残されておらず僅かな参考文献『事故の鉄道史』によると、正確な死者数は分かっていないが、96名~120名はいたとされています。

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この土浦事故と、今回の三河島事故には類似点が非常に多く、先に起きた土浦事故の検証・検証がきちんとされていたならば、三河島事故は未然に防げたのではないかとも言われています。

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