左卜全とは?死因は?「老人と子供のポルカ」の歌詞の意味は? エンタメ

左卜全とは?死因は?「老人と子供のポルカ」の歌詞の意味は?

歌手デビューの平均年齢は20歳という中で史上最高齢でデビューした左卜全さんをご存じですか?76歳でひまわりキティーズと「老人と子供のポルカ」でデビューした彼ですが新興宗教がにハマっていてたという噂もあります。そんな彼の人生や歌詞の意味から死因までまとめました。

目次

[表示]

左卜全とは?俳優?最高齢の新人歌手?

Pexels / Pixabay

日本の音楽史上最高齢でデビューを果たした左卜全(ひだりぼくぜん)さんは、一体どんな人生を歩んできたのでしょうか?彼のプロフィールなどをまとめました。

左卜全のプロフィール!

左卜全(ひだりぼくぜん)さんは本名は三ケ島一郎(みかじま いちろう)で、1894年2月20日に埼玉県で生まれました。父親は小学校の校長先生でしたが、元々は氷川神社の神官の家系だったそうです。

左卜全は、芸能界きっての変人といわれている俳優?

rawpixel / Pixabay

戦後、左卜全さんは映画を中心に俳優として活躍しますが芸能界きっての「変人」として業界内では有名だったそうです。これから紹介するのは「変人」といわれる彼の行動のほんの一例です。

  • 撮影の合間に薬草を見つけては摘んで楽屋に干す
  • 足が悪いからと松葉杖を愛用するも急ぐ時は松葉杖を小脇に抱えて走る
  • 撮影には常によれよれのモンペ姿で来る

高い演技力を発揮する一方でプライベートではこのような奇行に近い行動を起こしていたため業界内では「芸能界の1・2を争う変人」と言われていました。

76歳で歌手デビュー、「老人と子供のポルカ」が大ヒットに

Pexels / Pixabay

1970年の2月には、劇団ひまわりの子役で結成した「ひまわりキティーズ」をバックコーラスに引き連れて「老人と子供のポルカ」を発売し歌手デビューを果たしました。この時、左卜全さんはなんと76歳でした。

また驚く事に「老人と子供のポルカ」は40万枚を売り上げる大ヒットを打ち出しました。この異例のデビューと大ヒットに音楽業界では「史上最高齢の新人歌手が誕生した」と当時話題になりました。

【動画あり】大ヒットした「老人と子供のポルカ」とは?

Bru-nO / Pixabay

76歳という年齢でデビュー、40万枚の大ヒットと異例尽くしの左卜全さんですがこの「老人と子供のポルカ」はどんな曲で、当時のこの曲の評価はどうだったのでしょうか。

左卜全とひまわりキティーズが歌った曲「老人と子供のポルカ」

Pexels / Pixabay

「老人と子供のポルカ」は1970年に発売された楽曲でメインボーカルには当時76歳の左卜全さん、バックコーラスには5人の小学生で構成した「ひまわりキティーズ」が務め、なんと40万枚の大ヒットとなります。

この「老人と子供のポルカ」は、当時6歳の皆川おさむくんが歌う「黒猫のタンゴ」がヒットしたことに着目したプロデューサーが「逆に老人が歌ったらどうなのか」という思い付きから生まれた曲でした。

ひまわりキティーズとは?ル・クプルの「藤田恵美」?

「老人と子供のポルカ」ととも現れた女子5人組の「ひまわりキティーズ」とは一体どんなグループだったのでしょうか。実は彼女たちは当時劇団ひまわりに入団していた子役で構成したグループだったのです。

また驚くことにそのうちの一人はル・クプルとして活躍していた藤田恵美さんでした。ちなみに彼女は現在もソロで歌手活動をしています。

1970年に「老人と子供のポルカ」発売

Skitterphoto / Pixabay

「老人と子供のポルカ」は、1970年2月10日に日本グラモフォン(現:ユニバーサルミュージック合同会社)から発売されました。前述の通り、この曲は主婦・小学生を中心に大ヒットしました。

当初この「老人と子供のポルカ」は、当時エコノミストとしてTVで活躍していた小汀利得さんに依頼をしたようですが断られてしまい、急遽左卜全さんが歌うこととなったという経緯もあります。

左卜全は史上最高齢の新人歌手として話題に

当時の音楽業界もデビューの平均年齢は10代後半~20代前半でした。そのため76歳という高年齢で歌手デビューを果たした左卜全さんに業界内外問わず話題となりました。

それもそのはず、なんと76歳という年齢で歌手デビューをした前例はなく「日本音楽史上で最高齢の新人歌手」の記録を更新したのです。ちなみに現在は1999年にきんさんぎんさん(当時は99歳)が更新済みです。

現在でもオリコン最年長記録を維持している!?

geralt / Pixabay

また驚くべき点は他にもあります。「老人と子供のポルカ」は発売から3か月後の1970年5月にコンフィデンス誌のシングルチャート(現在でいうオリコンチャート)にて10位以内に入ったのです。

デビュー最高年齢記録こそ、きんさんぎんさんに破られてしまっていますが、左卜全さんが打ち出したこのオリコン最年長記録は2019年現在も誰にも破られていません。

「老人と子供のポルカ」はヒットすると思われていなかった?

StockSnap / Pixabay

しかし発売当初は本人はこんなに売れると思っていませんでした。収録時からこんな曲が売れるわけないとずっと主張し、発売されても「ありゃもうおしまい。5月までだな」と笑ってインタビューに答えるくらいでした。

収録時のエピソードは?演奏と噛み合わないことも?

smorazanm / Pixabay

実は左卜全さんは過去にオペラを学んでいた経験もあるので歌の経験が全くない訳ではないのですが、彼の歌うテンポはとにかく遅くて演奏やひまわりキティーズの歌ともなかなか合わず、現場は非常に苦労します。

結局レコーディングは3分弱の楽曲に6時間かけて完成しました。ひまわりキティーズ、スタッフも含め周りはヘトヘトの状態でしたが、当の左卜全さん自身は平然としていたそうです。

「老人と子供のポルカ」の意味は?メッセージソング?

ではこの「老人と子供のポルカ」は一体どんな歌詞なのでしょうか?左卜全さんが歌番組に出演した際の歌詞の字幕付きの動画ありましたので紹介します。

いかがでしょうか?恐らくほとんどの方が「スビズヤー パパパヤー」や「ゲバゲバ」、「ジコジコ」などあまり耳にしないフレーズが沢山出てくる不思議な楽曲だと思われたのではないでしょうか。

これらの不思議な言葉たちは意味のないものだと思われがちですが、実はどの言葉も意味がちゃんと存在し、あるメッセージが込められたれっきとした「メッセージソング」だったのです。

歌詞の「やめてけれ」「ゲバゲバ」の意味は?

congerdesign / Pixabay

「老人と子供のポルカ」が発売した1970年の日本は高度成長期で、その集大成でもある日本万博博覧会の開催直前でした。しかし急成長する反動から学生運動などの社会問題も目立つようになりました。

「老人と子供のポルカ」にはそんな日本の時代背景を反映されており、歌詞にある「ゲバ」は「ゲバルド(ドイツ語で暴力という意味)」、つまり「学生運動」のことを表現していたのです。

「老人と子供のポルカ」は、無力な老人と子供が神様助けを求める歌?

geralt / Pixabay

また「ゲバ」以外の言葉にも意味はちゃんと込められています。たとえば「ジコ」は「交通事故」、「スト」は「ストライキ」といったように「ゲバ」と同様に当時の日本の背景を汲んだ言葉だったのです。

「老人と子供のポルカ」はリズムこそ軽快ですが学生運動などの社会問題が浮き彫りになった当時の社会に「「ゲバ」「ジコ」「スト」の被害者は老人や子供である」という悲痛な叫びを込めたメッセージソングでした。

左卜全は「宇宙進化の為に歌っている」とコメント

qimono / Pixabay

左卜全さんが「老人と子供のポルカ」に込められた意味について発言したことはあったのでしょうか。勿論これだけヒットしたので多くの記者が取材をしましたが「宇宙進化の為に歌っている」しか言わなかったようです。

左卜全さんから最期まで「ゲバ」や「スト」、「ジコ」などの意味について語ることは1度たりともありませんでした。あくまで「宇宙進化のため」、それだけを貫き通したのです。

「老人と子供のポルカ」の評判は?素晴らしい?気持ち悪い?

geralt / Pixabay

そんな大ヒットを巻き起こした「老人と子供のポルカ」ですが当時はどんな評価だったのでしょうか。なんと発売した当時の世間での評判は賛否両論でした。

軽快なリズムに左卜全さんが生み出す独特な「ズレ」、そして曲のメッセージ性に賞賛する声がある一方で、「たすけてー」でおわる奇妙な雰囲気が「怖い」と感じる人も一定数いたようです。

ひだりぼくぜん 歌を聞いてて子供の時は、気持ち悪かった。

(引用:知恵袋)

このようにある意味、左卜全さんが生み出す不思議な雰囲気に多くの人が魅了されていました。皆さんは「老人と子供のポルカ」を聴いてどう感じましたか?

左卜全の経歴は?

loufre / Pixabay

ある時は「優秀な役者」、またある時は「芸能界1か2を争う変人」、「音楽史上最高齢の新人歌手」…など多くの顔を持つ左卜全さんはどんな人生を歩んできたのでしょうか。出身から死因までまとめました。

1894年埼玉県で小学校校長の次男として誕生、10歳の時に小僧奉公へ

Rainer_Maiores / Pixabay

左卜全三(本名:三ケ島 一郎)さんは1894年2月20日に埼玉県入間郡小手指村北野にて小学校校長の次男として誕生します。彼が生まれた三ケ島家は代々、氷川神社の神官でしたが祖父の代から分家しました。

8歳の時に父親の転勤で東京に引っ越します。10歳の時には京橋のばら歯磨本舗「東光園」へ小僧奉公(丁稚奉公)に出るなど目まぐるしい幼少期を過ごします。1907年に小僧奉公を終え、高等小学校に進学します。

1914年、第3期生として「帝劇歌劇部」に入る

383961 / Pixabay

高等学校を卒業後は牛乳配達や新聞配達、土木関係の仕事など職を転々とします。その間、立教中学校に通学していましたが両立は厳しかったのか退学してしまいました。

その後、1909年に「帝劇歌劇部」の第3期生として合格し、オペラ歌手として歌やダンスを学びます。当初は舞踏家を志していましたが目標だった帝劇洋劇部が解散してしまったことにより舞踏家の夢を断念します。

三ケ島天晴という芸名で満州、中国まで巡業に出る

JLB1988 / Pixabay

その後、小さな劇団を転々とする日々を送ります。1920年には活動拠点を関西に移して「新声劇」に、1926年には「松旭斎天華一座」の入団し「三ケ島 天晴(みかじま てんせい)」という芸名で活躍します。

活躍の場は関西だけに留まらず、満州、中国にまで巡業に行くなど左卜全さんは精力的に役者として活動します。

1935年「ムーランルージュ新宿座」に入るも、いじめに?

Counselling / Pixabay

「松旭斎天華一座」を退団後は、再び東京へ戻り「ムーランルージュ新宿座」に入団します。その際に新宿座の経営者から「左卜全」と名乗るように言われ、以降は左卜全三として活動するようになります。

新宿座でも惜しみなくその才能を発揮しますが価値観や演技の方向性から団員との距離は縮められず苦労します。後に彼は著書にて「僕はムーランにはいってから、ずいぶん、みんなに苛められた。」と綴っています。

「左卜全」の芸名で活動、老け役の喜劇演技が好評だった

stevepb / Pixabay

人間関係に苦悩しながらも彼はある才能の開花させます。彼の独特な演技は老け役の喜劇演技との相性が非常に良く、新宿座でも「老け役の左卜全」として活躍の幅を広げます。

台本作家の小崎正房さんはいち早く彼の魅力に気づき、左卜全三さんのための台本を幾度も作ってくれたそうです。その甲斐もあり、左卜全三さんは確実に新宿座の地位を確立していきます。

松竹に引き抜かれ「移動演劇隊」に入る

PIRO4D / Pixabay

その後、彼の舞台を見に来た松竹の関係者に高い演技力を買われてスカウトされます。左卜全三さんはその誘いに快諾し、新宿座を退団して松竹が運営する「移動演劇隊」に入り、各地に巡業をする日々を送ります。

「突発性脱疽」を発症、医師から脚の切断を勧められる

Pexels / Pixabay

移動演劇隊の一員として充実した日々を送る左卜全三さんですが、この頃から左脚に激しい痛みを感じるようになります。医者に診てもらうと「突発性脱祖(とっぱつせいだっそ)」と診断されます。

突破性脱疽は発症要因は不明で症状は手足の傷が治りにくくなり、最悪の場合は壊死してしまうという恐ろしい病気です。医師からは最悪の場合も鑑みて切断することを勧められます。

撮影時以外は松葉杖を使用するように

kaboompics / Pixabay

しかし役者こそが自分の天職だと確信している左卜全三さんは切断を拒みます。彼はあえて脱疽と共存する道を選び、以降は撮影時以外は松葉杖を使用するようになります。

結局、左卜全さんは最期まで左脚を切断することはなく、痛みを耐えながら役者としての人生を全うします。

1946年、37歳の遠い親戚の女性と結婚

Takmeomeo / Pixabay

そんな中、52歳になった左卜全さんは当時37歳の小暮糸(こぐれ いと)さんと結婚します。二人は遠い親戚にあたる関係だったようです。

またこの頃に彼の恩人である小崎正房さんを座長とする「劇団空気座」が結成され、左卜全さんも精力的に「劇団空気座」の役者として参加するようになります。

NEXT:1949年「女の顔」で55歳にして映画デビューを果たす
1/3