小林桂樹の経歴・死因は?小林稔侍との関係は?出演作品まとめ エンタメ

小林桂樹の経歴・死因は?小林稔侍との関係は?出演作品まとめ

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妻は2007年に死去している

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小林桂樹さんの奥さんである洋子夫人は、2007年に亡くなられています。

小林桂樹の学歴・経歴は?

小林桂樹さんの学歴や経歴について詳しく紹介します。

小林桂樹の学歴は?

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小林桂樹さんは、群馬県高崎市の出身で旧制群馬県立前橋中学校を卒業し、日本大学専門部芸術科を中退しています。

中学4年の時、父親が病死

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小林さんが中学4年の時に父親が病死しています。そのため、千葉県市川市に住んでいた叔父を頼って一家が引っ越していますか、小林桂樹さんだけは父親の同僚の家に下宿し通学していました。

日本大学専門部芸術科に進学するも、学費が払えず中退

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小林桂樹さんは、日本大学専門部芸術科に進学しましたが、学費が払えなくなり中退しています。

バイト先で映画評論家の津村秀夫や劇作家の飯沢匡と知り合いになる

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小林桂樹さんは、大学時代にアルバイトしていた朝日新聞社校閲部で、津村秀夫さんや飯沢匡さんらと知り合うことで、映画の世界に憧れるようになったそうです。

大学中退後、役者になるため日活や東宝・松竹の面接を受ける

小林桂樹さんは、大学を中退したあと、給仕仲間から一緒に役者になろうと誘われ、日活、東宝、松竹の入社試験を受けました。

そして、唯一学歴を問われなかった日活に入社し、日活演技研究所の研究生となりました。

1942年「微笑の国」で映画デビュー!若い頃の写真は?

小林桂樹さんは、太平洋戦争開戦後の1942年に「微笑の国」の工員役で映画デビューしています。その後、「将軍と参謀と兵」など3作品に出演しています。

太平洋戦争には帝国陸軍として参加し、満州に渡る

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1943年に「菊池千本桜」で軍神松尾大尉役で主演しますが、8月に徴兵検査を受けて合格し、12月に二等兵として帝国陸軍へ入営し、満州に出征しています。

終戦後、1946年の映画「君かと思ひて」で復帰!二枚目俳優として活躍

終戦によって復員した小林桂樹さんは、1946年の映画「君かと思ひて」で映画に復帰し、折原啓子さんの恋人役を演じ、二枚目として売り出しました。

その後の1951年には、千秋実さんの代役をで「その人の名は言えない」で主演したことで、二枚目でも三枚目でもない独自の演技が評価され、俳優としての頭角を現すようになります。

1966年情報番組の「おはよう・にっぽん」では司会者に

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1964年頃からは映画界の衰退から小林桂樹さんは、テレビでの出演が増え、その明るいキャラクターから1966年に情報番組の「おはよう・にっぽん」では司会者に抜擢されています。

しかし、思ったように視聴率が上がらず降板しています。

その後も数々の作品に出演するも、2010年に86歳で亡くなる

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小林桂樹さんはその後も数々の作品に出演していますが、2010年3月に小野ヤスシさんの50周年記念パーティーで祝辞を述べたのが、公の場に姿を見せた最後となりました。

2010年7月に軽症肺炎で東京都内の病院に入院し、それ以降は療養生活を送っていましたが、同年の9月16日に東京都内の病院で心不全のため亡くなられています。86歳でした。

小林桂樹の本も出版されている?

小林桂樹さんは1996年12月1日に「演技者-小林桂樹の全仕事」を、また2005年8月1日には「役者六十年」というタイトルの本を出版しています。

戦中戦後の日本映画とは?

日本は、1941年にはアメリカに次ぐ世界第2位の製作数を誇り、年間500本を超える映画を製作していました。しかし、第二次世界大戦によって映画産業界にも影響を与えることとなりました。

戦時中の日本映画製作

1938年に作られた映画法によって製作と配給は許可制となり、監督と俳優は登録制となって製作された作品について脚本段階で検閲が入っていました。

その結果、戦争を主題にした映画を主に製作され、田坂具隆さんは1938年の映画「五人の斥候兵」で戦場における信頼をテーマにして映画を製作し、ヴェネツィア国際映画祭で入賞しています。

また、1942年には山本嘉次郎監督の「ハワイ・マレー沖海戦」で、真珠湾攻撃を再現した特撮担当の円谷英二による精巧な模型が話題となりました。

アメリカ占領時代

アメリカ占領時代の日本映画は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による日本統治によって、日本で製作される映画はGHQの民間情報教育局によって管理されていました。

この管理体制は、1952年まで続き、企画と脚本段階で英語に翻訳され、CIEで許可されたものだけが製作が許されていました。

たとえば1950年、黒澤明監督の「暁の脱走」では、山口淑子さん主演の朝鮮人従軍慰安婦を描いた作品でしたが、数十回の検閲によって、原型をとどめぬ作品となってしまいました。

映画産業の第二黄金時代

1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、1952年にGHQによる映画の検閲も廃止となりました。

このことにより、それまで上映禁止となっていた時代劇が復活し、多数の映画が製作されるようになりました。

また、国際映画祭において、黒澤明監督や溝口健二監督らの日本映画作品が次々と受賞するようになり、映画の第二黄金時代が到来することとなりました。

小林桂樹は映画界で幅広く活躍してきた

小林桂樹さんは、大学時代にアルバイトしていた朝日新聞社校閲部で、津村秀夫さんや飯沢匡さんらと知り合うことで、映画の世界に憧れるようになり、日活演技研究所の研究生となりました。

1942年に「微笑の国」の工員役で映画デビューし、それ以降の出演作は生涯で250本以上にのぼります。1951年には千秋実さんの代役で「その人の名は言えない」に主演したことで独自の演技が評価されました。

また、小林稔侍さんと親子や兄弟といった血縁関係を噂されましたが、小林桂樹さんとは血縁関係はありません。2010年9月に亡くなられていますが、死因は心不全でした。そんな小林桂樹さんについて紹介しました。

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