
アンドレイ・チカチーロ(連続殺人犯)とは?事件の詳細や生い立ち
「赤い切り裂き魔」とも呼ばれた、ロシアの連続殺人犯アンドレイ・チカチーロ。複雑な生い立ちや結婚後の妻との関係、彼を苛んだ様々な事情を含め、アンドレイ・チカチーロが起こした殺人事件について紹介していきます。また、彼の顔や名言とも呼ばれた発言もお伝えします。
目次
[表示]アンドレイ・チカチーロとは?
アンドレイ・チカチーロとは、ウクライナ出身の連続殺人鬼です。なんと女性と子供を中心に、無差別に52名もの人間を殺したことで知られます。
犯行の主な舞台となったロシアを恐怖に陥れた、アンドレイ・チカチーロとはどのような人物だったのでしょうか?ここでは、アンドレイ・チカチーロの起こした殺人事件の概要を紹介します。
アンドレイ・チカチーロはロシアの連続殺人犯?顔画像は?
上の画像が、アンドレイ・チカチーロの顔画像です。彼は1936年にウクライナで生まれ、1978年から1990年の間に主にロシア(当時のソビエト連邦)を舞台に殺人を繰り返していました。
52人を殺害?「ロストフの殺し屋」など、様々な別名を持つ
犯行が行われたという12年の間に、アンドレイ・チカチーロが手にかけた被害者の数は、なんと52名にも上りました。
そして、その犯行の残虐さは他に類を見なかったことから、アンドレイ・チカチーロには「ロストロフの殺し屋」「ソビエトの切り裂きジャック」「赤い切り裂き魔」と様々な呼び名が付けられました。
アンドレイ・チカチーロの生い立ち・人物像
犯罪史上稀にみる凶悪な連続殺人事件を起こしたアンドレイ・チカチーロ。彼の生い立ちとは一体どのようなものだったのでしょうか?
ここでは、アンドレイ・チカチーロの出生から結婚まで、複雑な彼の人生の足跡をたどっていきます。
アンドレイ・チカチーロの出身は?兄は隣人に食べられた?
アンドレイ・チカチーロは、1936年にウクライナのヤボロチノエという村で生まれました。この時期のウクライナでは大規模な飢饉が起きた直後で、食料をめぐって殺し合いが起こることもあったと言います。
さらに飢えを凌ぐために人肉を食べることも珍しくなく、アンドレイ・チカチーロの母は、彼の兄が隣人に食べられたという話をしていたそうです。
この話の真偽は不明ですが、当時僅か4歳であったアンドレイ・チカチーロの心に大きなトラウマを残したことは確かでしょう。
第二次世界大戦で父が徴兵、戦争が心的外傷をもたらした?
第二次世界大戦が始まり、父親が徴兵されるとアンドレイ・チカチーロは母親と妹の3人で暮らすようになりました。母親は夜尿症の息子を疎ましく思い、彼がおねしょをする度に暴行したそうです。
また、ドイツ軍の侵攻によって数多くの死体を見たアンドレイ・チカチーロは、人間の死体を間近に見ることで、初めての性的興奮を覚えたと言います。
さらに終戦を迎えてドイツで捕虜になっていた父が無事に帰還すると、周囲は「売国奴」「裏切者」というレッテルをチカチーロ一家に貼ったそうです。
少年期は同級生にいじめられる
アンドレイ・チカチーロは内向的な少年で、人目を気にして極度の近視であったにも関わらず、眼鏡をかけずに過ごしていたと言います。
しかし、そのせいで失敗を繰り返し、自信のなさが感じられるなよなよした態度やなで肩の体型も相まって「おかま」と罵られて、いじめられたそうです。
勃起不全に悩んだ青年時代
アンドレイ・チカチーロは、生まれながらにして性的不能でした。しかし、青年期の彼にこれは受け入れがたい事実で、次第に自分は「神様によって去勢された」のだと思い込むようになりました。
射精こそすれ勃起不全であることから、彼女ができても性交することができず、兵役を終えた後に地元の未亡人と恋仲になった際も、これが原因で関係がうまくいきませんでした。
しかも彼が勃起不全であることを未亡人は友人に相談し、村中の女性たちに彼の秘密が知れ渡ってしまったのです。この件は、後にアンドレイ・チカチーロが殺人を犯す大きなきっかけになったと言います。
勉学に打ち込むも、大学受験で挫折
コンプレックスを覆すためにアンドレイ・チカチーロは勉学に打ち込み、地元では名を知られた秀才となっていました。名門であるモスクワ大学の法学部を志し、人生の一発逆転を狙ったのです。
しかし、結果は失敗に終わり、この結果を受け止めることができなたっかた彼は「父親がドイツ軍の捕虜になっという過去のせいで落とされた」と思い込むようになりました。
19歳の頃に彼女ができるが、勃起不全で破局
19歳になったアンドレイ・チカチーロは、タチアーナ・ナリツナドという2歳年下の女性と恋に落ちて付き合うようになりました。
お互いに成功することを望みましたが、勃起不全であった彼はタチアーナの望みに応えることができませんでした。
彼女に愛想をつかされることを恐れたアンドレイ・チカチーロは、様々な民間療法を試みたのですが、その必死な様子を不気味に感じたタチアーナは、彼の元を去って行ったと言います。
アンドレイ・チカチーロは兵役の後、電話工に
兵役を終えた後、上で紹介したように勃起不全であることを村中に知られてしまったアンドレイ・チカチーロは、逃げるように故郷を飛び出していきました。
そしてロシアのロストロフで、電話の修理工の職に就きました。生活が安定すると家族を呼び寄せて、ロシアで一緒に暮らすようになったと言います。
しかし、勃起不全であることは彼を悩ませ続け、性器を触ることが癖になっていました。しかも、これを同僚にみられてバカにされ、鬱屈とした日々を過ごしました。
妹の紹介で結婚し、子供が生まれる
先に結婚をしていたアンドレイ・チカチーロの妹は、兄を心配してフェーニャという友人を紹介しました。そして2人は意気投合して、結婚をしました。
そして結婚の2年後には娘が、6年後には息子が誕生しています。アンドレイ・チカチーロの体質を思うと、娘と息子が生まれるというのは不思議に感じられます。
後に彼は、子供を作る際は指を使って妻の体内に射精をしていたということを明かしています。
転職して教師になるも、わいせつ事件を起こす
電話工として働く傍ら、勉強を続けて通信制の大学で学位を取ったアンドレイ・チカチーロは、共産党に入党して教師に転職しました。
共産圏では教師の社会的地位は高く、彼の妻は大喜びでした。しかし、妻との義務的な性交に不満を感じていたアンドレイ・チカチーロは、学校で女子生徒に襲い掛かり、強制わいせつ事件を起こします。
そして、度重なるわいせつ事件と彼の担任するクラスが学級崩壊を起こしたことにより、苦労して得た教師の職を追われてしまうのです。
アンドレイ・チカチーロが起こした連続殺人
ルサンチマンを抱えたまま成長したアンドレイ・チカチーロは、教師という地位のある仕事につきながらも、満たされない欲求を抱えていました。
彼にとって性交とは暴力が伴うものだったのですが、息子や娘の母でもある妻にそのようなことができるわけもなく、この鬱憤が殺人への引き金になったと言います。
ここでは、アンドレイ・チカチーロの起こした連続殺人事件について、紹介していきます。
最初の殺人は?
1978年の12月、ロストフ・ナ・ドヌーの近くで炭鉱業専門学校で教職についていたアンドレイ・チカチーロは、最初の殺人を起こしました。
被害者となったのは9歳の少女で、小学校からの帰路にあった彼女を言葉巧みに連れ出して、売春婦を呼ぶために購入した町はずれのあばら家に連れ込んだのです。
彼女は惨い殺され方をした上に、遺体を袋に入れられて冬の川に遺棄されました。
その後、性別・年齢問わず、各地で殺人を犯す
まだ教師の職にあったアンドレイ・チカチーロは、逮捕されることを恐れて、初めての殺人から3年間は大人しく生活をしていました。
しかし、1982年に教師の職を追われると再び殺人事件を起こすようになったのです。彼は1983年に6月から9月までの間に4人もの人間を殺害しています。
ターゲットなったのは浮浪者や売春婦の女性や子供で、子供に関しては男女問わずにターゲットとしていました。
殺人後、遺体を食べたり、持ち帰ることも?カニバリズム?
最初の殺人事件から12年に渡り、判明しているだけで52名もの女性と子供を殺害したアンドレイ・チカチーロ。
死体をめった刺しにする、眼球をくりぬくなどの残虐な手口でも、彼の犯行はロシアを震撼させました。
さらに、彼は時には殺した相手の死体から内臓や性器を切り取っその場で食べたり、持ち帰ったりしたと言います。
アンドレイ・チカチーロは淫楽殺人鬼?
アンドレイ・チカチーロが殺した相手は女性や子供といったように、自身の性的欲求の対象となる人物ばかりでした。
彼は性的な快楽を得るために殺人を犯しており、このような殺人犯はただの快楽殺人者ではなく「淫楽殺人者」と呼ばれます。
淫楽殺人者は被害者を強姦したりすることはなく、その遺体を激しく傷つけることに快感を覚えます。そのため、アンドレイ・チカチーロのように性的不能者に多いことが特徴です。
アンドレイ・チカチーロが逮捕されるまでの経緯は?
何故このように残虐な殺人事件が継続して発生していたにも関わらず、警察はアンドレイ・チカチーロを12年間も逮捕できなかったのでしょうか?
ここでは、アンドレイ・チカチーロが逮捕されるまでの経緯について紹介していきます。
最初の殺人では、別の人物が逮捕され、銃殺刑に
アンドレイ・チカチーロが初めて起こした殺人事件では、全く無関係のアレクサンドル・クラフチェンコという男性が逮捕されて銃殺刑に処され。表向きは事件が解決した扱いになっていました。
この男性にはアリバイがあったのですが、証言者が身内の妻であったことや、強姦事件の前科があったことから、警察が彼を脅迫して無理やり自白させたのです。
1984年、不審な行動で逮捕されるも、証拠不十分で釈放
1984年に子供に声を掛けている様子があまりにも不審であったことから、アンドレイ・チカチーロは2週間の監視を経て、警察署への同行を求められます。
この時に彼の鞄からロープや包丁が見つかり、殺人の容疑で緊急逮捕されました。
警察はなんとか容疑が固まるまで彼を勾留しておこうと、別件の窃盗罪などを立証しましたが、結局肝心の殺人に関しては、証拠不十分で逮捕に至りませんでした。
モスクワでの殺人がきっかけで、KGBが捜査に介入
1985年、アンドレイ・チカチーロはモスクワで犯行に及び、これがきっかけとなってKGBが捜査に介入するようになりました。
KGBは多数の駅やバス停に諜報員を配置して監視の目を光らせるようになり、これによってアンドレイ・チカチーロが獲物を物色できる場所は限られるようになったのです。
特に被害者の多く出たロストロフ周辺には、囮として売春婦に変装した女性捜査員が配置されるなど、格別な警戒措置が取られました。
警察隊による巡回の徹底
さらに1986年から1987年の間には、ゴルバチョフの推進するペレストロイカの一環として、凶悪犯罪者の情報が市民に向けて公開されていました。
これにより警察は民間からの情報提供を積極的に受け入れるようになり、まずますアンドレイ・チカチーロは犯行に及ぶことが難しくなりました。
さらに巡回には陸軍まで加わるようになり、監視の目は一層厳しくなっていったのです。
1990年、殺人現場付近での行動から、警察の監視下に
1988年に入るとアンドレイ・チカチーロは再び殺人事件を起こすようになり、1年にも満たない短期間に少年7人と1人の女性を殺害しています。
そして1990年の11月6日に22歳の女性を殺害し、彼女の体を切断した帰り道に顔に返り血を浴びていたことから警察に呼び止められ、KGBからもマークされるようになりました。
1990年11月、アンドレイ・チカチーロ逮捕
そして1990年の11月20日に、2週間に及ぶ監視の末、これ以上アンドレイ・チカチーロを野放しにしておくのは危険だと判断した警察とKGBは、彼の逮捕に踏み切りました。
彼は逮捕後に自分の犯した罪を自供しましたが、それだけは証拠とはならず、まだ警察が把握していなかった被害者が埋まっている場所を自白したことで、彼の容疑が固まりました。
この後、アンドレイ・チカチーロは自ら自分が殺した相手と埋めた場所を自供、その数が52名にも上ったことから、取り調べを担当した警察官も驚愕したと言います。
アンドレイ・チカチーロが長らく逮捕されなかった原因は?
アンドレイ・チカチーロがなかなか警察に逮捕されなかった理由は、彼が複数の場所で無関係の人間を殺害していたことだけではありません。
ここでは、当時のロシアの社会的背景など、アンドレイ・チカチーロが長らく逮捕されずに犯行を繰り返すことができた理由について紹介します。
事件当時のソ連では、「連続殺人」は存在しないと言われていた?
共産主義国家では連続殺人というのは、起きてはいけない犯罪でした。連続殺人事件のような利己的な事件は、資本主義国家で発生するものであり、共産主義国家では起こりえないこととされていたのです。
このことからもアンドレイ・チカチーロの犯行は同一人物のものではなく、別個に起きたものであると考えられ、彼の逮捕が遅れた原因の1つと考えられています。
アンドレイ・チカチーロは、体液と血液型が違う珍しい人間だった?
1984年に警察から殺人鬼の疑いをかけられていたにも関わらず、アンドレイ・チカチーロの罪は立証されませんでした。
この背景には、彼は血液型と体液の型が一致しない「非分泌型」という100万人に1人も言われる、非常に珍しい体質であったことがあげられます。
現場に残された精液と彼の血液型が一致しなかったことから、容疑者のリストから外されたと言われいるのです。
職業が影響?長距離を移動していたため、犯行の全貌が掴めなかった?
アンドレイ・チカチーロは、教師を辞職した後、1982年からは国営工場の資材調達部門に再就職をしています。
この資材調達部門の仕事は、物資を求めて出張をすることが多く、彼は仕事で訪れた先々でも犯行を繰り返していました。
それぞれの殺人事件は関連性の場所で起きていたことも、同一犯の犯行ではないと警察に印象付ける理由となったのです。