紅林麻雄とは?拷問王?数々の冤罪事件を生み出した元凶? エンタメ

紅林麻雄とは?拷問王?数々の冤罪事件を生み出した元凶?

紅林麻雄は拷問による自白の強要で多くの冤罪を作った刑事です。また、紅林の拷問による捜査方法を踏襲した部下によっても袴田事件という冤罪が生み出されています。紅林は既に死亡していますが家族や子供は現在どうしているのでしょうか。山崎兵八とは誰なのか、探っていきます。

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紅林麻雄とは?拷問王?数々の冤罪事件を生み出した?

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紅林麻雄とは静岡県警に所属し、戦前から60年代にかけて活躍したとされる刑事です。

しかし、この紅林麻雄という名前には「拷問王」という言葉が必ずと言って良い程付いて来ます。なぜ紅林麻雄は拷問王と称されるのでしょうか。その由来は如何なるものなのか、探って参ります。

紅林麻雄は多くの冤罪を作った警察官?静岡県警のクズ?

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紅林麻雄は高い能力で多くの難事件を解決した刑事とされますが、その一方で拷問を用いて自白を強要したり調書を捏造するなど、行っていた捜査は非常に問題がありました。

そのため、一旦は解決したと思われていたいくつもの事件が冤罪であったと次々に判明し、後に拷問王、冤罪製造機といった悪名を轟かせることになります。

その捜査方法は悪行そのものと言っても差し支え無く、クズと言われても仕方無いのかも知れません。

「浜松連続殺人事件」等数々の事件を解決へ導いた名刑事だった?

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紅林麻雄は解決までに非常に労力を要した浜松連続殺人事件をはじめ、幸浦事件、二俣事件、小島事件などの難事件を解決しました。表彰が500回とも言われており、名刑事の名を欲しいままにします。

取り調べではどんな小さな手がかりからも執念で犯人を追い詰め、自白にこぎつけました。証拠として有力である、犯人しか知り得ない秘密の暴露も引き出しています。

また、自らの推理力を駆使してトリックを暴くなど非常に捜査が高度であったとされます。これらの評判は、ある時期までは真実として語られていました。表向きには人々にこのように信じられて来たのです。

紅林麻雄は冤罪事件である幸浦事件、二俣事件、小島事件を担当?

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紅林麻雄は、幸浦事件、二俣事件、小島事件を担当し、解決させています。しかし、それ表向きの話であり、それぞれ拷問で自分たちの都合の良いような内容の自白を引き出させ、数々の捏造も行った上でのことです。

後にこれら紅林麻雄が担当した事件が次々と冤罪と判明、世間の非難を浴びることとなるのです。幸浦事件と二俣事件がそれぞれ死刑判決が出された後に無罪となり、小島事件が無期懲役判決の後に無罪となっています。

紅林麻雄は島田事件、袴田事件にも関わっていた?紅林麻雄の部下が事件を担当?

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実際にはこの2つの事件には紅林麻雄本人ではなく、紅林チルドレンとも言うべく紅林麻雄の部下たちが担当しています。

紅林が行っていた拷問によって自白を引き出す捜査方法は「紅林方式」と呼ばれ、紅林麻雄の部下たちによって脈々と受け継がれ、そしてまた新たな冤罪が生み出されていたのです。

紅林麻雄が行って来た拷問による捜査方法や考え方が蔓延し、紅林亡き現在でも悪しき慣習として残されているとも言われています。

紅林麻雄の顔画像はある?

酷い拷問を行い、無実の人を追い込んで冤罪を仕立て上げるような人間はいったいどんな姿をしているのでしょうか。そんなとんでもない人間の姿を見てみたいと思うのも自然な感情だと思われます。

紅林麻雄の姿を収めた写真は存在します。ご覧になった貴方はどんな感想を抱くのでしょうか。

紅林麻雄が行っていた取り調べの方法は?なぜ拷問し続けたの?

紅林麻雄が行った問題のある捜査方法とは、いったいどのような内容だったのでしょうか。

そして、紅林麻雄はなぜそこまでして拷問をし続けたのか、そこまで紅林麻雄を駆り立てたものは何だったのでしょうか。追っていきたいと思います。

紅林麻雄が行っていた取り調べ方法①:拷問による尋問や自白の強要

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紅林麻雄による取り調べにおいては、殴る蹴るなどの暴力や拷問は当たり前であったとされています。しかも並大抵の暴力では飽き足らず、殴るにしても平手と拳で20~30往復といった度を超えたものだったのです。

さらに正座した膝の上に乗って踏みつける、鼻の穴に指を入れて引っ張り回す、焼けた火箸を押し付けるといった常軌を逸したものでもありました。また、バケツに排泄物を垂れ流しさせる行為もあったとされます。

白紙の調書を用いて供述を自作、その供述を無理矢理認めさせるというものでした。捜査は先入観や決めつけによって偏重しており、供述を拷問によって都合の良い方向に導き、犯人に仕立て上げたのです。

紅林麻雄が行っていた取り調べ方法②:供述調書の捏造

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二俣事件においては、容疑者の少年にアリバイがあり、さらに少年を犯人とするには明らかに無理のある証拠が揃っていました。

しかし、少年が当時公開されていた推理映画を見て、映画の中のトリックを使って自らのアリバイ工作をしたという前提を作った上で、その前提ありきで少年のアリバイを否定したのです。

このように、当初紅林麻雄が解決したとされた捜査ではでっちあげが積極的に行われており、拷問を加えることでその捏造を認めさせるというスタイルが取られていたのです。

紅林麻雄が行っていた取り調べ方法③:別件で逮捕して犯人にする

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紅林麻雄が行った捜査の方法の1つとして、別件逮捕が挙げられます。幸浦事件、二俣事件、紅林の息の掛かった部下が担当した島田事件、いずれも別件で逮捕してから拷問によって自白の強要を行ったものです。

二俣事件においては、近所に住む少年を犯行当時のアリバイが不明だという犯行の証明にはなり得ない理由のみで別件逮捕の後、拷問による尋問を行い自白させ、虚偽の調書を取ったとされています。

袴田事件で行われた過酷すぎる取り調べとは?

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袴田元被告に対する取り調べは過酷を極めたものであり、炎天下において1日約12時間、最長で17時間行われたともされます。取り調べとはかけ離れた拷問は、紅林に感化された者たちの手で行われました。

そして夜は隣の部屋に酒浸りの人間を収容、その者に騒ぐなどさせてろくに睡眠も取れないようにして袴田を追い詰めます。さらに取調室に便器を持ち込み、その場で垂流しをさせ、人間としての尊厳さえも奪ったのです。

さらに勾留期限が迫ると複数人で昼夜問わずこん棒で殴る、蹴るを加えるようになり、最初は強固に否認を続けた袴田が期限の3日前に自白に転じます。いかにその内容が過酷だったかがうかがい知れる展開でした。

紅林麻雄は拷問を隠蔽していた?

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紅林麻雄自身は後に拷問王として知られることとなりますが、実は拷問については紅林は一切手を出すことはせず、命令された部下によるものだったとされます。

新憲法と新たな法律では拷問による自白が認められないことを知った上で、拷問する担当と調書を取る担当に分け、それぞれが居る場所さえ変えたとも言います。

これにより拷問による自白を指摘されることがあっても、拷問と自白は別なものだと否定することが出来ると紅林は考えたのです。

紅林麻雄はなぜ拷問をし続けたのか?

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紅林は担当した浜松連続殺人事件を解決に導いた功労者として表彰を受けることとなります。これが新聞で報道されると偉業を成し遂げたとして紅林は名が世間に知られるようになり、名声を得ます。

以降、紅林は警察学校で講演するなど権威者として存在を知らしめます。紅林が冤罪を生んだ要因として、地位の失墜を恐れるあまり事件を未解決に終わらせないために捏造を重ねたのではないかとした人物がいました。

後に紅林を内部告発することになる山崎兵八刑事より先に、紅林の捜査方法を批判していた南部清松刑事です。南部刑事は紅林が自分の名声を失うのを恐れて冤罪を作らざるを得なかったと断言し、批判したと言われます。

紅林麻雄が関わった冤罪事件の詳細まとめ

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紅林麻雄が関わったことにより、不幸にも冤罪被害者を出してしまった事件をご紹介します。

犯人にでっちあげられた人はもちろんのこと、紅林の捜査方法に疑問を持った山崎兵八という同僚やその家族や子供も、警察によって人生を狂わされているのも注目すべき点です。

紅林麻雄が関わった事件①:幸浦事件の被告人は持病の悪化で死亡?

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幸浦事件とは、1948年静岡県磐田郡幸浦村で起きた強盗殺人事件です。事件は一家4人が失踪したことから発覚しますが、その後別件で逮捕された2人を含む4人が容疑者として逮捕されました。

この時の取り調べでは容疑者の手や耳に焼けた火箸を押し付けるなどの拷問が行われ、刑事が捏造した自供の内容を容疑者たちに無理矢理承諾させていたとされます。

また、警察はあらかじめ把握していた遺体の遺棄場所を容疑者たちに自供するよう誘導、真犯人のみが知る秘密の暴露と偽ります。容疑者とされたうちの1人は、度重なる拷問により持病を悪化させ上告中に死亡しました。

紅林麻雄が関わった事件②:二俣事件では被告人のアリバイも否定?

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1950年に静岡県磐田郡二俣町で起きた一家のうち4人が殺害された事件です。警察は近所に住む少年を事件当時のアリバイが不明として別件で逮捕、その後拷問により4人を殺害したと虚偽の自白をさせたものです。

事件が起きたとされる時間には少年にはアリバイがありましたが、警察は事件現場で止まっていた柱時計の針を手で動かしてアリバイ工作したとの自白を強要したのです。

現場に残された足跡と少年の足のサイズが異なる、少年が返り血をまったく浴びていない、凶器の入手方法が不明である、問題の柱時計に残された指紋が少年のものではないなど、でっちあげが行われたのは明らかでした。

山崎兵八刑事は紅林麻雄の拷問捜査を内部告発するも警察を辞めさせられた?

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本事件の捜査にあたっていた山崎兵八刑事は、紅林麻雄が行った拷問による虚偽の自白の強要や供述調書の捏造を読売新聞に告発しました。また、紅林がそのような方法を常習し、組織自体が容認しているともしました。

山崎兵八刑事は法廷でも少年の無実と拷問の事実を訴えますが、出廷した二俣署長によって山崎刑事の人格否定などの印象操作が行われます。そして山崎刑事は偽証罪で逮捕され、妄想性痴呆症の診断が下されます。

その後、偽証についての調査はいっさい無く、懲戒免職とされてしまったのでした。警察は、内部告発を行った山崎兵八刑事を闇に葬ったのです。

山崎兵八刑事のその後、一家の苦難とは?

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山崎兵八刑事は精神異常と診断され、収入源として考えていた運転免許を取り上げられるなど苦難を強いられます。また、家長が逮捕されたことで一家は数々の嫌がらせを受け、さらには自宅を放火されてしまいます。

その際、小学3年生だった次男が怪しい男を目撃したと証言しますが、警察は次男を逮捕、長時間にわたって執拗な取り調べを続けたのでした。

そして、極度の空腹状態にあった次男の目の前に親子丼を差し出し、自分がやったと認めれば食っても良いと無理矢理罪を認めさせたのです。

山崎兵八刑事の次男の心に落とした大きな影

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余程辛かったのか、次男はこの時の記憶を完全に無くしているといいます。そして親子丼は未だ食べることが出来ないのだそうです。

警察による非道は、まだ幼かった次男の心に大きな影を落としたのでした。

山崎兵八刑事は「現場刑事の告発 二俣事件の真相」で真犯人を暴露?

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山崎兵八刑事は1997年に二股事件の告発本を自費で出版します。この本では、二股事件の真犯人と思しき有力な容疑者を名指ししています。その容疑者は被害者が死亡することで利益を得られる人物であるとされます。

さらにその人物は山崎兵八刑事による取り調べにおいて、被害者のうちの赤ん坊の行方がまだ不明だった時、母親の下敷きになって死亡していると犯人しか知り得ない事実を示唆しました。

警察もまだ知らない段階での秘密の暴露を行っていたのです。

紅林麻雄は二俣事件では真犯人からの収賄疑惑も浮上していた?

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前項であげた山崎兵八刑事による二股事件の告発本には、紅林麻雄と犯人と思しき人物との間に金銭の授受があったという疑惑も暴露されています。

紅林麻雄がこの人物から金銭を受け取ったことを、紅林の部下が話していたという証言があったとされます。

紅林麻雄が関わった事件③:小島事件

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1950年静岡県庵原郡小島村で主婦が殺害されました。自宅で薪割り斧で撲殺され、現金2500円が奪われていました。紅林麻雄が捜査主任を務めますが程なくして村民の男性が別件で逮捕されます。

男性にはアリバイがありましたが主張せず、既に自白の供述が為されていました。なぜならその余地が与えられない程の凄まじい拷問が行われており、殺害方法においての秘密の暴露も巧妙な誘導によるでっちあげでした。

自白調書については内容が何度も変わり、容疑者が真犯人ならばあり得ないと言われる程の変遷がありました。小島事件では物証が皆無で、拷問と捏造によって得られた自白が唯一の有罪の決め手という皮肉なものでした。

紅林麻雄のその後は?晩年に左遷され引退して死亡?子供や家族の現在は?

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紅林麻雄が完璧に行ってきたと信じて疑わなかった欺瞞が徐々にほころびを見せ始め、解決したとされていた事件が捏造やでっちあげによって仕立てられた冤罪だと知られることとなります。

拷問王と呼ばれた紅林麻雄はその後どうなったのでしょう。家族や子供の現在についても迫ります。

晩年、当時警部だった紅林麻雄は吉原警察署駅前派出所へ左遷、二階級降任へ

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いくつもの難事件を解決に導いたことにより、紅林麻雄は優良警官として表彰を受け昇進、御殿場署次席警部の役職を得ます。しかし担当した事件の無罪判決が次々と下り、事態が一変します。

世の非難が高まり、紅林は吉原警察署駅前派出所に左遷、交通巡視員へと二階級の降格を命じられます。これまでの名声から一転、拷問王と呼ばれ糾弾されることとなります。

紅林は上層部からの圧力にも屈せず、一種の開き直りとも言える手記を公開します。あくまで自分を正義の立場に置き、自分を非難する者はヒトラーのユダヤ人追放になぞらえて言論の暴力だとしています。

幸浦事件の被告人に無罪判決確定で警察を引退

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紅林麻雄は世論はもとより、警察内部からも非難を浴び続け、疲弊しきっていたと言われています。

その後1963年7月に幸浦事件の被告人の無罪が確定すると、紅林は力尽きたのか警察を依願退職します。

引退2ヶ月後の1963年9月に急死、死因は脳出血?最期まで裁かれず

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そして、紅林麻雄は警察を退職してから2ヶ月後の1963年9月、脳出血により55歳で死亡します。結局、紅林が無実の人に対して行った捏造や拷問などの行為は、最後まで裁かれることはありませんでした。

多くの冤罪被害者たち、紅林麻雄の罪を暴こうとした山崎兵八刑事、またその家族や子供たちの払った犠牲は計り知れないものだったにも関わらず、その元凶である紅林麻雄は何ら罪に問われることは無かったのです。

紅林麻雄の墓はどこ?住所は?出身は静岡県藤枝市?

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紅林麻雄の出身地は現在の静岡県藤枝市となっていますが、それ以外プライベートの情報はまったくもって不明です。

住んでいた場所や墓がある場所などの情報も残念ながら出回ってはいないようです。

紅林麻雄の子供は?家族や子孫、親族はわからないの?同じ目に合えばいい?

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紅林麻雄は自分の地位や名誉のために酷い拷問や捏造を繰り返し、冤罪を仕立て上げました。何人もの人の人生を狂わせた人間でもあります。

家族や子供、親族が現在どのように生活しているかも非常に気になるところではあります。冤罪をでっちあげられた人と同じ思いをすれば良いと思う人がいても不思議ではありません。

しかし、紅林麻雄にまつわる情報は一切と言って良いほど、まったく出回っていないのが事実なのです。昔のことだからか、あるいは意図的なのかわかりません。謎に包まれていると言っても良いでしょう。

紅林麻雄に関する本は?道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心

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一連の冤罪を生み出した原因が、紅林麻雄の拷問による捜査方法や捏造というのがまず大前提であるのですが、この著者である管賀江留郎は人間の持つ感情や道徳心が冤罪を作り出すとしています。

さらに言えば、不正を憎む心や被害者に共感する心が認知の歪みを生み、それによって冤罪が生まれるというものです。これらを浜松事件と二俣事件を中心に冤罪が起こるまでを膨大な資料から解き明かします。

良いことをすれば報いがあり、悪いことをすれば罰を受けるという人間の本質的な考えが共感を生み、その共感が時に悪い者を徹底的に叩かなければ、という義務感に繋がるということではないでしょうか。

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