日本三大怨霊とは?平将門・菅原道真・崇徳天皇?祟りもまとめ 芸能人

日本三大怨霊とは?平将門・菅原道真・崇徳天皇?祟りもまとめ

日本の神社では様々な神様が祀られていますが、一部では「怨霊」として恐れられ、その魂を鎮める為に建てられたものも存在しています。中でも日本三大怨霊として有名な平将門・菅原道真・崇徳天皇の三人について詳しく紹介していきます。

目次

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日本三大怨霊とは?誰なの?

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日本の長い歴史の中には、非業の死を遂げた重要人物も数多く存在しています。特にその死後も「祟り」として関係者や社会に不幸をもたらしたとされる人たちが、「怨霊」と称されて恐れられています。

日本三大怨霊まとめ!崇徳天皇、菅原道真、平将門?

日本で「三大怨霊」として恐れられているのは崇徳天皇、菅原道真、平将門の御三方です。

彼らは江戸時代に親しまれた読本・歌舞伎などの作品で取り上げられたことで、大衆にも広くその名を知られるようになりました。

早良親王を三大怨霊とする説も?

平安時代に作られた「日本後紀」という書物では、謀反の疑いをかけられて亡くなった早良親王の死後、立て続けに起こった皇族の死や災害を祟りと恐れ、その魂を鎮めるための儀式が執り行われたことが記されています。

この記述が日本の史料上で「怨霊」という言葉が最初に使われたものとなります。日本最初の怨霊であり、当時の社会に大きな被害をもたらした早良親王を「三大怨霊」のひとりと数える説もあります。

日本三大怨霊とは?①:平将門

平将門は数多くの歴史小説でも取り上げられ、1976年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の題材ともなった人物です。どのような経緯で怨霊として恐れられるようになったのでしょうか。

平将門が怨霊となったきっかけは「平将門の乱」?

「平将門の乱」といえば、日本史の授業でも習う大事件。記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。

平将門の祖父の死をきっかけに戦いは上総国(現在の千葉県)で始まり、常陸国(現在の茨城県)や近隣の諸国にも広がっていきます。やがて将門は自らを「新皇」と称し、叛逆者として朝廷と争うこととなりました。

将門がここまでの戦を仕掛けたことには、当時の東国が朝廷から重い負担を強いられていたことなどが理由と言われています。

戦いに敗れた将門の体は延命院に埋葬

朝廷の命をうけた藤原忠文が将門討伐へ向けて兵を進める中、平貞盛と藤原秀郷の連合軍によって平将門は追い詰められていきます。幸島郡の北山での激戦の末、将門は飛んできた矢が額に命中してその命を落としました。

敗れた将門は首と胴を切り離され、その首級は京都に運ばれ、体は茨城県坂東市にある延命院に埋葬されました。

平将門の首級が落ちた場所「将門の首塚」とは?

平将門の首は都に運ばれ、京都の七条河原に晒されました。これが日本における最初の「獄門(晒し首)」だと言われています。

将門の首は何ヶ月経っても腐らず、夜毎「俺の体を持ってこい、首と胴を繋いでもう一度戦え」と叫んでたそうです。恐ろしい首はある時関東を目指して飛び上がり、その途中で力尽きて落ちてしまったと言われています。

この将門の首が落ちたと言われている場所に「将門の首塚」が建てられ、各地に伝承とともに残っています。東京都千代田区の首塚が有名ですが、岐阜県の御首神社なども将門の首を祀る神社として知られています。

平将門が「神田明神」に祀られた経緯は?疫病が流行?

神田明神は730年に建てられました。場所も現在の東京都千代田区であり、将門の首塚との距離も近いところにあります。14世紀初頭に疫病が流行り、これが平将門の祟りであるとして恐れられていました。

そこで神田明神が将門の霊を鎮める為に供養し、1309年には平将門が合祀されることになりました。

その後、戦国時代には北条氏綱や徳川家康が武運・戦勝を祈願して神田明神を訪れ、多くの武士から崇敬の念を抱かれるものとなりました。

平将門は「築土神社」にも祀られている?

神田明神に合祀される以前から、築土神社では平将門が祀られていました。九段下駅の近くにあるこの神社では、将門の首(頭蓋骨や頭髪)が安置されていたことが江戸時代の文献で分かっています。

首桶だけでなく、他にも平将門の肖像画や木製の像などが納められていました。しかし、残念ながら昭和20年に戦災で焼失していまい、現在は一部の写真だけが残っているそうです。

築土神社は日本武道館の氏神でもあり、平将門に因んで武勇長久のご利益があると言われています。毎年お正月に授与される「勝守」も有名で、武道を志す人たちから人気があります。

平将門の祟り?その後の不可解な事故とは?

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平将門の首塚は、関東大震災の後や第二次世界大戦の後など、移設や撤去が何度か試みられてきました。

しかし、その度に工事関係者が相次いで亡くなったり、ブルドーザーの事故が起こったりという不可思議な事件・事故が続き、「平将門の祟りである」と恐れられました。

こうして移設や撤去が叶わず2019年の現在に至るまで、平将門の首塚は変わらず東京都千代田区大手町のオフィス街に存在しているのです。

平将門は現在でも恐れられている?

千代田区のオフィス街では「将門の首塚を見下ろしてはいけない」「将門の首塚に背を向けてはいけない」と言われています。

首塚に隣接するビルでは首塚に背を向けないようにフロアのレイアウトが配慮されていたり、首塚を見下ろせるような窓を作っていないと噂されています。

このように、死後1000年以上経った現在も尚、怨霊・平将門は恐れられているのです。

平将門所縁の地に参拝する時は成田山に参拝してはいけない?

千葉県の成田山新勝寺は、朱雀天皇が平将門を調伏するために行った儀式が始まりで建てられたお寺と言われています。

そのため、平将門やその家来の子孫である人たちや、将門の影響が残る一部地域に住む人たちは成田山に参拝することを良しとしてません。

また、NHK大河ドラマの出演者は、節分にこの成田山の豆まきに参加することが通例となっていますが、平将門が主人公の「風と雲と虹と」の出演者はこれを辞退したそうです。

平将門の祟りを紹介する動画も

https://www.youtube.com/watch?v=7rZdM_4amgY

平将門の祟りについては紹介動画も制作されています。

約23,000人のチャンネル登録者を集める「都市伝説本舗」によって制作された動画では、平将門が怨霊になった経緯や、首塚移設に纏わるエピソードが紹介されています。

日本三大怨霊とは?②:菅原道真

続いて、菅原道真についてご紹介します。学問の神様としても有名な菅原道真ですが、なぜ怨霊として恐れられているのでしょうか。

菅原道真が怨霊となったのはなぜ?左遷された?

幼い頃から学問に秀でていた藤原道真は、政治家としても注目されていました。宇多天皇から重用され、続く醍醐天皇の時代には右大臣を務めるほどの活躍ぶりでした。

しかしライバルであった藤原時平によって、「醍醐天皇を廃する企みがあった」という無実の罪を着せられ、九州地方の太宰府に左遷させられてしまいました。

菅原道真が怨霊と言われている理由は?

菅原道真の死後、藤原時平や醍醐天皇の周辺で様々な不幸が起こりました。彼らは菅原道真が左遷された直接の原因となる人物だったため、人々は立て続けにおこる事件は道真の怨霊による祟りであると考えました。

菅原道真の祟り?「清涼殿落雷事件」とは?

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道真の祟りで最も衝撃的な出来事が930年の「清涼殿落雷事件」です。その日、清涼殿では干害対策の雨乞いについて会議が開かれていました。ところが昼過ぎから急に天候が悪化し、雷雨に見舞われます。

そして降りしきる雨の中、清涼殿の南西に雷が直撃し、周辺にいた貴族や役人から多くの死傷者がでました。その中には、太宰府で道真の動向を監視する任を負っていた藤原清貫の姿もありました。

「北野天神縁起絵巻」では、雷で服が燃えて苦しむ貴族たちや、混乱で逃げ惑う人々など、事件当時の様子が描かれています。惨状を目の当たりにした醍醐天皇はショックで体調を崩し、事件の3ヶ月後に崩御されました。

菅原道真の死後、左遷に関わった人物に次々に不幸があった?

藤原道真が太宰府で亡くなったのは903年。その6年後、道真に汚名を着せた犯人である藤原時平が病死しました。39歳という年齢は当時でも早逝と言われました。

その後も、時平とも親戚関係にある醍醐天皇の皇子・保明親王や孫・慶頼王が立て続けに亡くなり、一連の不幸は菅原道真の怨霊による祟りだと噂されました。

当時の物語『大鏡』や歴史書『扶桑略記』などでも、時平が道真の怨霊と対峙するエピソードがあり、2人の因縁は当時の人々も良く知る有名なものだったようです。

菅原道真の「飛び梅」の伝説とは?

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「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という歌を、菅原道真が都を去る時に詠んだことは有名です。

京都の屋敷に植えられていたその梅の木が、主人を慕って太宰府まで飛んできた、というのが「飛梅伝説」の概要です。

道真が愛した梅の木は、彼が祀られている太宰府天満宮の神木としても崇められており、道真を祀る各地の神社にも株分けされています。

菅原道真は大宰府天満宮に祀られている?

菅原道真は死後、福岡の安楽寺というお寺に葬られました。その一方、度重なる「祟り」を恐れた醍醐天皇は、道真の墓所に社殿を造ることを命じました。これが現在まで続く太宰府天満宮の始まりです。

神社には祭神や格式によって付けられる社号という称号があり、「天満宮」はもとは天皇や皇族をまつる神社を表していました。朝廷は道真への畏怖を表し、その怨霊を鎮めるために、この称号を贈りました。

菅原道真は「大阪天満宮」にも祀られている?

現在は各地の「天満宮」で菅原道真が祀られており、京都府の北野天満宮・山口県の防府天満宮と並んで有名なのが大阪天満宮です。

菅原道真が太宰府へ向かう際、この地にあった大将軍社を参詣したと言われています。そして道真の死後、大将軍社の前に霊光を放つ7本の松が生えたという出来事を機に、天満宮を称して道真を祀るものとなりました。

地元民からは「大阪の天神さん」「天満(てんま)の天神さん」等の呼び名で親しまれています。

日本三大怨霊とは?③:崇徳天皇

崇徳天皇は幼くして即位した第75代天皇。当時は「院政」といって、天皇に皇位を譲った上皇・法皇が実権を握る政治が行われていました。そのため、天皇として在位中も政治的な実権は父・鳥羽上皇にありました。

やがて、鳥羽上皇のもう1人の息子であり、崇徳天皇にとっては異母弟である体仁親王を近衛天皇として即位させるため、崇徳天皇は退位を迫られます。

鳥羽上皇が実権を強めていく一方で、崇徳天皇は譲位して上皇となった後も政治的実権を得ることはできませんでした。

崇徳天皇が怨霊となった理由は?生い立ちが関係?

崇徳天皇は鳥羽天皇と待賢門院の間に生まれたとされています。しかし鎌倉時代初期に書かれた「古事談」では、彼は鳥羽天皇の祖父である白河法皇の子供だったと記されています。

当時から100年以上後に作られた書物であるため、真偽のほどは不明ですが、真実だったとすれば、不義の子として鳥羽天皇からも忌み嫌われていたであろうことは想像に難くありません。

崇徳天皇は保元の乱に敗れ、讃岐へ流罪に

父・鳥羽上皇の死の直後に起こった後継者争いが保元の乱です。後白河天皇を擁立する勢力が「崇徳上皇が兵を集めて国を傾けようとしている」という噂を流し、当時上皇であった崇徳天皇は追われる身となります。

その後、崇徳天皇も兵を集めて応戦しようと奮闘しますが、最終的には戦いに敗れ、讃岐国(現在の香川県)へと流罪になりました。

崇徳天皇は仏教に傾倒していた?

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「保元物語」によると、讃岐で失意の軟禁生活を送る崇徳天皇は仏教に傾倒し、極楽往生を願うようになりました。

そして保元の乱の戦死者への供養と、反省の証として「法華経」などの5つのお経の写本を作り、京都のお寺に納めてほしいと朝廷へ送りました。

しかし、後白河上皇はこれを「呪詛が込められいてるのではないか」と言って受け取らず、送り返してしまいました。

崇徳天皇は妖怪に生まれ変わり恨みを晴らすと語っていた?

写本を送り返された崇徳天皇は激しく怒り、舌を噛み切ったその血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」、つまり「妖怪になって天皇を打倒してやる」と写本に書き込んだそうです。

その後は亡くなるまで爪や髪を伸ばし続け、その姿は夜叉のようでした。亡くなった後も、蓋が閉まっている棺から血が溢れ出してきた等と言い伝えられており、その無念や怒り・恨みの強さが感じられます。

崇徳天皇の死後、恨んでいた人が死亡?

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崇徳天皇は流刑地の讃岐で1164年にその生涯を閉じました。その死後、都では数々の不幸が続きます。

1176年に後白河院の妃であった建春門院や、孫の六条院(第79代六条天皇)、近衛天皇の妹・高松院などが相次いで亡くなりました。

崇徳天皇の死後は、飢饉や大火事、疫病も流行?

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その翌年、1177年には「安元の大火」と呼ばれる大火災が起こったり、当時の権力者であった平清盛の暗殺を企てる陰謀があったり、社会には混乱と不安が広がっていきました。

疫病や飢饉も重なり、立て続けに起こる不幸や事件は崇徳天皇の怨霊によるものだと噂されるようになっていきます。

崇徳天皇が祀られている京都の「安井金比羅宮」とは?

崇徳天皇を奉っている京都の「安井金比羅宮」は、縁結びに抜群のご利益があると有名です。良縁を結んでくれるだけでなく、悪縁を断ち切る神様として信仰され、多くの人が参拝に訪れています。

もとは崇徳天皇が寵愛する阿波内侍を住まわせていた、藤寺と呼ばれるお堂でした。崇徳天皇が亡くなった後、阿波内侍は出家して尼となり、崇徳天皇から賜った自筆の尊影をお堂に納めて勤行に励みました。

その後、後白河上皇の命令で光明院観勝寺というお寺が建てられ、合祀や戦改名を経て現在は「安井金比羅宮」となっています。

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