豊浜トンネル岩盤崩落事故とは?被害者は?大魔神や鬼の顔って何? 社会

豊浜トンネル岩盤崩落事故とは?被害者は?大魔神や鬼の顔って何?

普段何気なく使っているトンネルが突如崩れたら、ましてや自分が通行中に岩盤崩落事故が発生したらどうしますか?北海道の豊浜トンネルでは、そんな身の毛もよだつような事故が実際に発生しました。今回は事故発生の経緯や救出劇、現場に現れた鬼の顔などについて調査しました。

目次

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豊浜トンネルとは?

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豊浜トンネルで発生した岩盤崩落事故を語るにあたり、まずは豊浜トンネルについて解説しなければなりません。そもそも、豊浜トンネルとはどのようなトンネルだったのでしょうか。

豊浜トンネルは北海道にある?

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豊浜トンネルは、1984年に開通したトンネルで国道229号線の一部であり、北海道余市郡余市町と古平郡古平町を結ぶトンネルでした。

尚北海道内渡島管内には同名のトンネルが存在します。こちらは17名もの死者・行方不明者が発生した豊浜山津波を受けて開通したトンネルとなっています。

豊浜トンネルは2つ?旧豊浜トンネルと事故のあった豊浜トンネル

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事故の起きた豊浜トンネルは2代目でした。初代は1964年に開通するも、大きく屈曲した構造、波による浸食で出来た洞窟である海食洞を通り抜けるなど特殊なトンネルでした。

その上、トンネル内の幅は6mと狭く、そもそもの構造の関係上危険性も高かった上に老朽化も進行。これらを受けて、2代目の豊浜トンネルは作られています。

尚2代目豊浜トンネルは、道路の片側が海、その反対は山に面しています。

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豊浜トンネルの岩盤崩落事故はどんな事故だったの?

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多くの死者が発生した豊島トンネル岩盤崩落事故。それは一体どのような事故だったのでしょうか、また何故事故は発生したのでしょうか。解説して参ります。

豊浜トンネル岩盤崩落事故の概要

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事故は2代目トンネル開通から12年後の1996年2月10日に発生しました。古平町側のトンネル出入り口付近において、岩盤が崩落しバスと乗用車2台に直撃します。

巨大な岩盤が落下した事により、事故現場は寸断され生存者はいるのか、どんな被害が出ているのかさえも分からず、救出作業は難航を極め、被害者が初めて救出されたのは同16日の事でした。

救出とは名ばかりの4度の発破

岩盤によって内部の様子を窺う事が出来ないばかりか、再崩落の危険性もあり、撤去しなければ中に入る事も出来ませんでした。そこで発破による岩盤の除去が立案されます。

しかしながら、この時点では確認できないものの、トンネル内部には生存者が居る可能性がありました。その事を考慮し、発破に使用する爆薬の量を制限しています。

この為、除去作業は難航を極めました。事故発生の翌日11日から14日にかけて、述べ4回の爆破作業が行われ、ようやく除去作業が終了しました。

豊浜トンネル岩盤崩落事故の犠牲者は20人

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事故発生から168時間後、最初の遺体が収容されます。豊浜トンネル岩盤崩落事故では、乗用車に乗車していた1名とバスの運転手1名、乗客18名が犠牲となり、20名もの尊い命が失われました。

被害にあった乗用車は、原形をとどめない程に押し潰されていました。これはバスも同様であり、元々3m程度あった筈の車体が1m程度に迄押し潰されています。犠牲者の死因は圧死であり、ほぼ即死状態でした。

また亡くなった方の内、約半数がまだ10代の若者であり、中にはいつもより1本早いバスを利用した為に事故に合われた方もいらっしゃいました。

命が助かったのは乗用車に乗った女性1人のみだった

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多くの犠牲者が発生した豊浜トンネルの事故ですが、2台の乗用車の内1台から寸でのところで車から飛び降りて九死に一生を得た女性が居ます。

彼女は破片よって軽傷を負い、病院に搬送されましたが命に別状はなく、本事件における唯一の生存者となりました。

救出された遺体の顔は綺麗な状態

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犠牲者たちの遺体は激しく圧壊損傷していたと言われており、事故の激しさを窺い知れます。その一方で、顔に関しては綺麗なままだったともされています。

いずれにせよ、豊浜トンネルにおいて発生した岩盤崩落事故は世に大きな衝撃を与えました。

実は以前から崩落の危険があった?

事故が発生した原因については、様々な要因が絡んだと言われておりいます。主要因としては、厳冬により岩盤表面が凍結。それにより、地下水が行き場を失い、地下水圧が高まった事とされます。

しかし、岩盤崩落の兆候は1991年と1994年に小規模崩落と言う形で現れていました。この為、事故後安全対策を怠ったとして、北海道開発局の元幹部2人が書類送検されています。

豊浜トンネル岩盤崩落事故発生の救出劇を時系列に紹介!

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豊浜トンネル岩盤崩落事故の事故発生から救出に至るまで解説させて頂きました。しかしながら、途中に記したとおり救出作業は難航を極めました。

本項では時系列に沿いながら、事故の一連の流れをより詳細に解説させていただきます。

1996年2月10日朝8:10頃岩盤崩落事故発生

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1996年2月10日、午前8時10分頃に岩盤は崩落。落下した岩盤は高さ70m、幅50m、厚み13mと巨大なもので、重量は27,000tにも上ると推計されました。

同日9時15分、北砕工業株式会社へ小樽開発建設部より連絡が入り現地での打ち合わせが行われました。また同日11時には余市町で、12時には小平町で対策本部が設置されます。

同日午後5:30頃発破での破砕計画を決定

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15時には現地対策本部が設立さます。現地入りした前述の北砕工業さんも担当者と打ち合わせを行い、重機を用いて作業が可能な高さまで岩盤に発破をかける事が決定します。

当初の計画では足場の設置に12時間、岩盤に穴をあけそこに火薬を装填するのに12時間、その他にも諸々準備がありこちらに12時間を要する予定でした。これは岩盤の余りの大きさによるものです。

しかしながら、人命救助の観点から翌朝での発破を依頼されます。加えて、当初予定していた計画では690kgもの爆薬の使用予定でしたが、計算の結果内部への影響が出る事が分かります。

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これを受けて計画を変更。内部に影響を与えない火薬量が算出され、1回辺り50kg、総量250kgの使用が決定されました。そして、発破の為の作業が急ピッチで進められます。

翌日2月11日16:25に1回目の発破

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2月11日4時より岩盤への穿孔作業が開始されます。8時30分に穿孔作業は終了しますが、対策本部が被害者家族の説得にあたっていた為に、火薬の装填までに時間を要します。

穿孔完了から凡そ3時間後の11時35分、火薬の装填指示があり、12時30分より装填作業が開始されました。15時に一連の作業は完了し、発破指示を待つ状態となります。

穿孔完了から火薬の装填までに時間を要した事もあり、穴が荒れ全ての穴に火薬を装填する事が出来ませんでしたが、16時25分に第1回の発破が行われました。しかし、結果は失敗に終わります。

翌日2月12日16:00に2回目の発破

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翌日7時、発破作業の開始が指示され、昨日と同様に先ずは穿孔作業が開始されました。しかし、作業員側にも危険が伴う作業であり、崩落の危険性などから一時作業が中断しています。

それでも、12時には穿孔作業が終了。装填作業に移りましたが、その作業中に岩盤の重心が海側から山側へと移動します。この為、当初予定していたVカットによる転倒させると言う思惑が危ぶまれました。

① Vカット:発破孔を切羽面にくさび状に配置して穿孔する心抜きの削孔方法である。このカットは穿孔を切羽面に対して急角度にとるため、坑道の断面の形や大きさ、削岩機の配置、ロッドの長さの関係から1発破長に限度があるが、岩質に左右されず最も一般的な発破工法である。

(引用:トンネル用語集)

懸念に見舞われながらも、16時に発破が掛けられます。しかし、今回も失敗。これを受けて、北砕工業は対策本部へと1回の発破に留める事の無い継続しての発破許可を要請しました。

翌日2月13日午後12:30に3回目の発破

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3回目の発破に向け早朝3時より穿孔作業が開始、10時30分には火薬の装填も完了し後は指示を待つだけとなりました。一方、この1回で作業が完了するとは思っておらず、次に向けて準備も行われています。

だるま落としの要領で8m程岩盤を除去、続く4度目の発破で作業を完了する予定でしたが、岩盤に縦に刻まれた罅が爆発のエネルギーを吸収。依然として岩盤は20m程の高さを維持していました。

これにより4回目の発破で作業が終了しない可能性ばかりか、余市町側にオーバーハング(岩盤などがひさし状にせり出した箇所)に伴うひび割れが残り、そちら側からの作業が不可能になりました。

翌日2月14日午前11:00に4回目の発破

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前日夕方より開始された古平町側への作業道取り付け作業が2月14日1時30分に完了。その作業の間、発破の専門家8名が到着し、4度の発破に対する検討と計画が行われました。

同日2時穿孔作業開始。25個の孔を空ける予定でしたが、途中岩盤海側にひび割れが発生し16個の孔を空けたところで作業の中断を余儀なくされます。

9時30分からは火薬の装填作業が開始されました。この時点で岩盤は700~800㎥ほど、孔は12個もあれば十分との判断によるものです。そして、11時発破がかけられました。

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トンネルを塞いでいた巨大な岩盤は台座となっていた部分を失った事で斜面を下り落ちました。苦心を重ねた末の4度目の発破によって、遂に発破作業は完了しました。

人命救助の観点や不測の事態、作業員への危険性の発声など様々な条件を乗り越えた末の成功は北砕工業を含め、多くの関係者の多大な協力の末になし得たものでした。

事故発生から一週間後の16日に1人目を救助

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16日、古平町側のトンネル出入り口から約40mほど進んだ先で岩と土砂の中から乗用車が発見されます。車体の色や車種などから、当時20歳の釣具屋店員のものと推測されました。

発見後、駆け付けたレスキュー隊により、電動切断機などを使って車両を切断後救助されました。またこの際、現場検証も簡略化されています。

また16日の段階でトンネル内の土砂撤去などの作業の進捗率は、50%以上にもなり、被害者の発見及び現地の復旧が急ピッチで進めらていました。

17日夕方までに路線バスと乗用車に乗車していた全20名を救助

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救出作業は翌日も行われ、15時32分には男性1人の遺体が発見され、21時2分頃にはバスの運転手1名と乗客18名の遺体が全て収容されました。述べ一週間の期間を要し、被害者20名全員の収容に至りました。

バス天井部には巨大なコンクリートの塊が乗っており、救出作業は困難を極めましたが、コンクリートを撤去後天井部を切り開き車内へと進入。犠牲者の遺体を発見、収容となりました。

遺体の損傷は何れも激しかったですが、歯形や所持品、着衣を頼りに身元の確認を急ぎ、全員の身元が特定されています。

事故を取り上げた動画も

その年の10大ニュースにも選ばれるほど、世の注目を集め、同時に大きな衝撃を与えた豊浜トンネルの事故。動画サイトなどでは、当時のニュースの映像などがアップされており、当時の状況を垣間見る事が出来ます。

豊浜トンネル岩盤崩落事故のその後は?

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20名もの犠牲者が発生した岩盤崩落事故ですが、事故後対策などはなされたのでしょうか。また事件現場となったトンネルはどうなったのでしょうか、本項で解説して参ります。

署名活動が行われていた?

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豊浜トンネルがあった国道229号線は、周辺の住民にとって生命線とも言える道路であり、国道229号線の安全確保は、住民の命と生活を守る為に必須なことでした。

その為、国道229号線の安全を訴える署名活動が開始されています。古平町やその他の市町村から多数寄せられ、最終的には14,237人もの署名が集まりました。

事故発生から凡そ4カ月後には古平町の町長へ手渡され、6月4日は町長と共に建設大臣や建設省の道路局長に陳情しています。

仮復旧の様子と廃道・旧豊浜隧道の活用

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前述の通り、国道229号線は住民にとっての生命線であり、周辺に迂回路は無い為に別の町を経由して大きく迂回するしかありませんでした。その為、活用されたのが旧豊浜隧道です。

しかし、旧豊浜隧道の道幅は狭く、大型車同士がすれ違う事は不可能である為に信号機を設置、片側交互通行とし一先ずのルートは確保されました。

1996年12月10日仮復旧を終え再開通

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旧豊浜隧道が使用される一方で、2代目豊浜トンネルの復旧作業も年内の開通を目途に行われていました。そして、当初の予定通り同年12月10日、豊浜トンネルの復旧を終え再開通しています。

再開通後、豊浜トンネルを通行する車の内数台はクラクションを鳴らしながら通行しており、周辺住民の方は複雑な心境を抱きながら同トンネルと通行していたそうです。

1996年12月11日事故現場での最後の法要

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事故現場では遺族の方々による法要が行われていましたが、豊浜トンネルにおいて車両の通行が可能となった事に伴い現地での法要を行う事が出来なくなりました。

その為、一周忌法要を繰り上げる形で12月11日に現地での最後の法要が執り行われました。

トンネル別ルートの検討

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復旧作業が行われる傍ら、より安全に通行する為の新ルートも検討されていました。そして、検討を重ねた結果、同年12月17日に新ルートが決定します。

新ルートは豊浜トンネルの途中から事故現場を避ける形で山側を掘り進み、古平町方面に向かい豊浜トンネルの次にあるセタカムイトンネルの途中に合流するルートです。

このルートは遺族側が強く要望したルートであり、全長は1.2km。4年後の開通を目指していました。

2000年に別ルートの3代目豊浜トンネル開通

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新ルートの工事は予定通り、4年後の2000年12月8日に完成。それに伴い、セタカムイトンネルは豊浜トンネルに編入されました。トンネルの総延長は2,228mです。

また豊浜トンネルの事故を受け、北海道ではトンネル建設における岩盤の安全性について再検証が行われ、結果建設中だったトンネルが計画を変更しルートの変更が行わています。

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