マタ・ハリ(伝説の女スパイ)の生涯とは?ダンサーから高級娼婦に? おもしろ

マタ・ハリ(伝説の女スパイ)の生涯とは?ダンサーから高級娼婦に?

ゲーム「FGO」にも登場する伝説の女スパイ、マタ・ハリをご存知でしょうか。フランスパリでダンサーをしていた彼女は、20世紀初頭にスパイ容疑をかけられ処刑されました。マタ・ハリとはどんな女性だったのか、逸話や子供、画像についてまとめました。

目次

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マタ・ハリとは?踊り子?女スパイ?

マタ・ハリと言えば、伝説の女スパイ。「伝説の」とか、切れ者の「スパイ」というイメージばかりが先行して、どのような女性だったのかはあまり知られていません。

マタ・ハリというのはダンサーとしての芸名で、本名ではありません。美女のイメージがある彼女ですが、どんな容姿だったのでしょう。ここからは彼女の画像と共に、リアルなマタ・ハリに迫って行きたいと思います。

伝説の女スパイと言われる女性!

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マタ・ハリが伝説の女スパイと言われる所以は、第一次世界大戦にあります。彼女のスパイ行動が、あの世界的な戦争に影響を与えたと言われているからです。

スパイとは国家その他の団体が秘密にしている情報をひそかに収集し、対立関係にある他の国家や団体の利用に供する者。またその行為。(引用:コトバンク)

マタ・ハリはダンサーでありながら、高級娼婦でもありました。顧客は軍人や政治家など身分の高い人々で、ドイツ人もいればフランス人もいました。

ドイツとフランスは第一次世界大戦では敵同士。その両国の軍人とベッドを共にしていたマタ・ハリは、娼婦という身分を利用した間諜行為、スパイをしていたというのです。

マタ・ハリのスパイ活動の結果は小さくなく、ドイツとフランス両軍に多数の死者が出たと言われています。

マタ・ハリの本名は?

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マタ・ハリの本名は「マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ」です。オランダで生まれた際に名づけられました。

マタ・ハリというのは芸名で、彼女がダンサーとして活動する際に使用していました。そのため得意なジャワ舞踊発祥の地、インドネシアのイメージに近い名前となっています。

マタ・ハリの画像はある?

こちらがマタ・ハリの画像になります。マタ・ハリの画像は、ダンサーデビューした後の1906年頃の物から存在しています。彼女は小麦色の肌に、艶やかな黒い髪と瞳をもっていたそうです。

エキゾチックな美しさという評判にたがわぬ美貌です。このころマタ・ハリは30歳から40歳。ダンスで鍛えた肢体は美しく大人の色気が漂っており、人気があったのも頷けます。

伝説の女マタ・ハリの生涯とは?ダンサーからスパイに?

伝説の女スパイ、マタ・ハリの生涯は波乱に満ちたものでした。彼女が生きていた1800年代後半から2000年代初期というのは、世界中が第一次世界大戦に巻き込まれていき、情勢が不安定な世の中でした。

その影響もあってか、マタ・ハリの生涯は安定とは程遠いものがありました。スパイ容疑をかけられ41歳で処刑されるという短い人生のなかで、様々な出来事が起きています。

マタ・ハリの出生は?父の成功で裕福な暮らし!

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1876年8月7日、オランダのレーワルデンでマタ・ハリが誕生します。ユダヤ系オランダ人の父親と典型的なオランダ人の間に生まれた彼女。4人姉弟の長女であり唯一の女児だったため、父は溺愛していました。

マタ・ハリの父は帽子店の経営と石油産業への投資をしており、どちらも大成功していました。そのためマタ・ハリの一家は何不自由のない、贅沢で幸せな生活を送っていました。

溺愛されていた娘のマタ・ハリは、上級学校にも通っていました。平穏な暮らしが続くと信じていたであろう幼い日のマタ・ハリ。しかしこの幸せはそう長くは続かなかったのです。

しかし父の投資が失敗し、借金により破産!

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裕福な暮らしをしていたマタ・ハリ一家。しかし父が石油の投資に失敗してしまい、歯車が狂い始めます。アメリカ一強だった灯油産業にロシアが参入し急激にシェアを広げ始め、石油業界が変化し始めたころです。

投資の損失額を借金で穴埋めするようになると、借金だけが膨らんでいきました。そんな自転車操業が上手くいくはずもなく、1889年に父は破産。マタ・ハリ13歳の時でした。

マタ・ハリの両親は離婚!

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父の破産をきっかけに、両親は離婚。姉弟はバラバラに親戚に引き取られることになり、マタ・ハリの家族は一家離散してしまいました。父は4年後に再婚しましたが、母は2年後に死亡しています。

マタ・ハリは学校の校長からのセクハラで叔父の元に!

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一家離散したマタ・ハリは、後見人を頼りオランダ南部にあるライデンへと向かいます。金を持たない彼女は、生活のため働かなければなりません。まずは手に職をつけようと、幼稚園教諭を目指して学校に入学します。

しかしその学校はすぐに追い出されることになります。原因は学校校長によるマタ・ハリへの「セクハラ」でした。人目を気にしないセクハラに気づいた後見人によって、学校を辞めさせられたのです。

入学して僅か数ヶ月後の出来事でした。また一人になったマタ・ハリでしたが、叔父を頼ってデン・ハーグへと移住しました。

19歳の時に21歳年上のオランダ軍大尉と結婚!

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13歳から叔父の元で過ごしたマタ・ハリが、19歳になったころ。ある新聞広告に掲載されていた結婚相手募集に応募し、結婚することになりました。

お相手は21歳年上のオランダ軍大尉、ルドルフ・ジョン・マクリードさん。かなり年の離れた2人でしたが、出会いから100日目に結婚しました。

2児を授かるもわずか7年後に離婚!

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21歳年上の大尉と結婚したマタ・ハリは、夫の異動に伴いジャワやスマトラ、ボルネオなど各地を転々とします。赴任先では召使を何人も雇う優雅な生活を送っていて、その間に子供2人も授かっています。

傍から見れば幸せな家庭だったでしょう。しかしマタ・ハリ夫妻は、結婚7年目の1902年に離婚します。結婚当初から2人の間に愛が無かったことや、年齢差からか価値観が大きく異なっていたことが原因でした。

そのうえ夫の女癖やDVが酷かったこともあり、夫婦仲は完全に冷え切っていました。そこに息子が一人亡くなる事件が起きて、離婚を決意。残る子供は夫の元へ残り、マタ・ハリはまた一人ぼっちになりました。

ジャワ舞踊を披露し、一躍ダンサーとして有名に!

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離婚したマタ・ハリは、一度オランダへ帰国した後、仕事を探してフランスへ移住します。しかしこれといった職につけないまま過ごしていたある日のこと。知人のパーティーでジャワ舞踊を踊ったのです。

これがとても評判がよく、ダンサーにならないかと声を掛けられます。1905年に「インドネシアの王女」と名乗りダンサーデビューすると、たちまち人気者になりました。

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彼女は派手な腰布を巻き付け、上半身には宝石を散りばめたブラジャーという、裸同然のセクシーな姿でジャワ舞踊を披露していきます。

その人気は凄まじく、フランスからヨーロッパ全土に広まりました。小さなショーで踊りはじめて、最終的にはミラノ・スカラ座で公演するほどの人気ダンサーとなったのです。

ダンサーとして芸名を「マタ・ハリ」と名乗るようになる!

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芸名「マタ・ハリ」を名乗り始めたのは、ダンサーとして人気が出始めたころでした。自身が得意なジャワ舞踊に合わせるため、東洋的な名前を名乗ることにしたのです。

「マタ・ハリ」というのは、太陽や日の眼を意味するムラユ語です。ダンスのみならず、彼女のエキゾチックな容姿にもぴったり合っているため名づけられました。

マタ・ハリは高級娼婦としても人気に!

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ダンサーとして名の売れた彼女でしたが、裏の顔も持っていました。もう一つの職業は高級娼婦で、客は政治家や高級将校など身分の高い人々に限られていました。

マタ・ハリは高級娼婦としても、とても人気がありました。そのため彼女がベッドを共にした人数は、数えきれないほどだと言われています。

マタ・ハリはフランスでスパイの容疑で逮捕!

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1917年2月、マタ・ハリはフランス政府により逮捕されました。容疑はフランスとドイツでの2重スパイ。彼女のスパイ活動により、第一次世界大戦中において多くの死者が出たというものでした。

ダブルスパイ。ある勢力が送り込んだスパイが、同時に相手側のスパイでもあること。また、その者。(引用:デジタル大辞泉)

マタ・ハリのスパイ容疑の根拠は、大戦中のドイツ軍の通信でした。フランス軍の解析によれば、ドイツ軍の通信内ではマタ・ハリを「H21」という暗号名で呼び、スパイとして扱っていたのです。

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つまりマタ・ハリは元々女スパイで、娼婦のフリをして将校たちに近づき、様々な情報を収集していたというのです。確かに娼婦であれば、各国の将校たちと接触しても疑われることはないでしょう。

1917年10月15日に処刑された!

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1917年2月に逮捕されたマタ・ハリは、同年7月24日に有罪判決を受け死刑が確定します。10月にはサンラザール刑務所で銃殺刑となりました。逮捕から判決、処刑までわずか8ヶ月というスピード裁判でした。

マタ・ハリは本当にスパイだったのか?

マタ・ハリは、本当にスパイだったのでしょうか。これには疑問を持つ人が多いのです。一般人として生まれ育ち、ダンサーになる前は普通の主婦をしていた女性が、そう簡単にスパイ活動などできるのでしょうか。

マタ・ハリが諜報活動をしていたとされるのは、第一次世界大戦中の1915年から1917年の間です。その間の戦況に彼女が影響を与えたという証拠はあったのでしょうか。

マタ・ハリの活動を確認できるものがない

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「伝説の女スパイ」と呼ばれるほど、戦況に影響を与えたとされるマタ・ハリ。しかし彼女のスパイ活動を確認できるものは一切存在しないのです。

マタ・ハリがしたことと言えば、ベッドの中で多数の将校から機密情報を聞き出したらしいという噂のみ。ですから歴史学者でさえも彼女のスパイ活動を確認できていません。

つまりマタ・ハリを処刑するほどの根拠や証拠などなかったのです。ではなぜそんな彼女を逮捕し銃殺刑にまでしたのか、それには当時のフランス軍の事情が絡んでいました。

失敗の責任がすべてマタ・ハリに

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大戦中のフランスでは、作戦失敗により多数の犠牲者や損害が出ていました。失敗の原因がフランス政府にあるのは明確ですが、戦争責任は取りたくない。なんとか逃れる術はないかと画策していたそうです。

そこで白羽の矢が立ったのが、マタ・ハリでした。フランス政府は彼女に全ての戦争責任をなすりつけるため、スパイ容疑で逮捕したのです。裁判では、フランス軍のあらゆる失敗が彼女のせいにされました。

フランスの輸送船がドイツの潜水艦(Uボート)に沈められ、多数の死者が出た件はマタ・ハリのせい、他の作戦失敗も彼女のせい。どう考えても不可能ですが、マタ・ハリに責任を押し付け政府は逃げたという噂です。

優秀だから痕跡を残さなかった?

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マタ・ハリのスパイ活動の痕跡がない点について、痕跡を残さない、もしくは綺麗に消すほど優秀なスパイだったからという説もあるのです。

しかし彼女の経歴から考えると無理があるでしょう。一家離散した後は結婚して主婦をしていた。離婚し30歳ごろからダンサーを始めたマタ・ハリが、いつスパイの訓練を受けたのでしょうか。

生まれつきの才能があったとしても、彼女が出来たことと言えばベッドの中で機密情報を聞き出すことのみ。子供の頃から訓練されたスパイならばわかりませんが、情報操作のみで輸送船を沈めるなど不可能でしょう。

マタ・ハリの逸話やエピソードは?子供や子孫は?

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マタ・ハリには19歳で結婚した夫との間に、2人の子供がいました。離婚を機に夫の元へ置き去りにするのですが、この子供達について信じがたいエピソードが残されています。

また、マタ・ハリには真偽不明の逸話もいくつか存在しています。逸話のほとんどは晩年の裁判や処刑に関するもので、本当にそんなことが起きたのかという話ばかりです。後ほど詳しくご紹介します。

マタ・ハリの子孫は?子供は?

マタ・ハリは元夫との間に、2人の子供がいました。娘のルイーズ・ジーンと、息子のノーマン・ジョンです。1902年、結婚7年目に夫婦は離婚するのですが、その原因と思われるのが息子ジョンの死です。

幼い息子の死には、2つの説があります。1つ目は夫の浮気相手の娘が報復するため息子を毒殺したという説。2つ目は夫からうつった性病がマタ・ハリから息子にも感染して、治療薬の水銀で死亡した説。

性病については娘も感染していたと言われています。どちらにしても夫の浮気が原因で息子は死亡しています。裕福な生活を送っていても、子供を不幸にしては元も子もありません。

処刑を免れるために妊娠していると支援者に勧められたが拒否!

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マタ・ハリの逸話で最も有名な話は、裁判中に起きた出来事です。死刑を回避するため、「妊娠中である」と嘘をつくように支援者に勧められるのですが、マタ・ハリが拒否したというものです。

処刑については他にも逸話があります。銃殺刑は本来、死刑囚を木に縛り目隠しをさせて行います。しかしマタ・ハリは縄も目隠しも拒否し、最後まで堂々とした姿で処刑されたそうです。

マタ・ハリを銃殺刑にする際の狙撃手についての逸話もあります。彼女の美貌に惑わされ、手元が狂わないように目隠しをして銃を撃ったそうです。

ブラジャーだけは決して外さなかった理由とは?

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マタ・ハリは宝石を散りばめたブラジャーを着て踊っていたのですが、絶対に外すことはありませんでした。「嫉妬深い夫のDVで、胸を傷つけられたから隠している」と本人は説明していました。

しかし本当の理由は少し違うようです。マタ・ハリの同僚はこう証言しています。「彼女は胸の形が非常に悪く、垂れ下がっているのを必死で隠していた」とのこと。画像では綺麗な胸なので、努力していたのでしょう。

マタ・ハリは嘘ばかりついていた!

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マタ・ハリは嘘つきだという逸話があります。ダンサーを始めたころ「自分はジャワ出身の王女であり、インドで生まれ育ち、幼いころから舞踊を習っていた」と周囲に話していました。

嘘を重ねるうちに、内容も詳細になっていきました。「母は女王、貴族と遊んでいた、ガンジス川で踊っていた」と。本当はオランダ育ちの庶民の娘でしたが、ダンサーとして生きていくために嘘を重ねたのでしょうか。

東洋のマタ・ハリ?川島芳子とは?

この東洋にも、マタ・ハリと同じ「伝説の女スパイ」と呼ばれる人物がいます。川島芳子という女性で、清朝復興の為に日本軍のスパイとして活動し満州国の樹立に貢献したといわれています。

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